「村の産土神社がおらにカメラを持たせてくれたんだと思う。」 アマチュアカメラマン、農婦 外崎令子さん
アマチュアカメラマンの外崎令子さんは手に持っているカメラで、平成元年から宮野沢の風景を残してきました。
外崎令子さんは60歳のときに12年間の景色をまとめた写真集「わたしのふるさと みやのさわ」を自主出版しました。
その後「グラフ青森」で6年間の連載を始め、子供の頃からのことや中泊町の古老たちから聞いた昔話を書いた『振り返れば懐かし』が「グラフ青森」から出版されました。
今回のインタビューでは外崎令子さんに写真を撮り始めた原点、そして故郷への思いについてお話を聞きました。
※青森県立美術館で行われている『美術館堆肥化計画2021』の成果展示として外崎令子さんの作品が展示されています(開催期間:2022年4月11日(月)-6月26日(日))。詳細は記事の最後に紹介します。
原点は昔っこ
中泊町のここから約7kmくらい離れた鳥谷川のある豊岡というところで育ちました。おらはその村で生まれたんず。
家が農家だとこで、農家の娘だでばの。
したはんで中学校が終わると家のお手伝いやって、嫁いでも農家だはんでおらはずっと農婦。
――じゃあ米農家から米農家に嫁いで、ずっと農業の手伝いをしていたんですね。
うん。農家から農家に嫁っこに来たんず。
写真を撮るきっかけはずっと掘り下げていけば、昔のこと振りかえさるもんだっきゃ。昨日ずっと考えていて。おらちっけえ時ずっと昔っこ(昔ばなし)を聞いて育ったのよ。それが原点でねえかなと思って。
母親は新しい子供生まれればの、私はじさまや親父と一緒に寝たんず。
そせば、昔っこ聞かねば寝られねえんずよ。浦島太郎とか、桃太郎とかだばったって、その当時は絵本とかなもねえんず。
へば昔っこって聞けば想像すべ。だからさ、中学生のころは作文書いたり小説書いたりしたのよ。今はいろいろ考えたっきゃ。そこから始まったんでないかなと思った。
――想像することが好きだったんですか。
自然に想像するわけよ。昔っこ聞きながら目つぷった時に浦島太郎とかなんとか聞けば。だはんで物語を作ったりのお。
それでなんぼか書いたりして、あちこちの新聞社で小説とか募集してたでば。中学校三年生の時(15歳)一人で青森民友という新聞社に入選しなくてもいいど思って応募したっきゃ、大人にまじって3位に入って連載してくれたんず。
中学校卒業した年も新聞社さ応募したっきゃ、そうしたら連載させてくれたんず。その時16才の時だでばの。その時挿し絵を描いてくれたのが後に版画化になった藤田健司氏でした。
――中学に書いた小説の内容とかって覚えていますか。
中学校のときから母親と子供のことについて書いたんだよ。青森民友新聞っていうとこに書いたんだよ。2回目も母親と子供について書いたんだよな。なも下手なんだよ。
白旗様がカメラを持たせた
そいでほら藤田健次さんが青森民友さ勤めてあって、それでおらの小説のあとがき書いて下さいって手紙よこしたんだね。
写真撮るきっかけっていえばさ。藤田さんが手紙っこで農作業の写真でも撮ったらって、書いてよこしたのが昭和63年。そう言われても直ぐにはカメラを買う気持ちにならなくての。写す気が起きながったんでばの。
それで12月になんとなくカメラ買うべかと思ったわけ。一番初めに何を写せば良いんだべなと思って。
試しにそこらでも写してもいいんだばって。なんでだか白旗様でも写そうかと思ったのよ。
白旗様は村の産土神の神社だでばの。最初はどういうわけか神社行きたくての。
昭和63年12月21日に白旗様を一番最初に写したの。その時は記録を写すとかそういう気持ちもなんも無くてな。
2週間後すぐに平成元年になったときに「あっこれから平成になるんだな。それだば平成の村の記録を撮ればいいんずな」と思って。その時になってそう思ったのよ。
それで「わい(あら)、おらにカメラ持たせたの白旗神社だでばの」って思っているのよ。それで表紙も白旗神社にしたのよ。神社に導かれたと思って。
そういう具合でいろんな力が働いて、村の記録とるかなと思って写真撮り始めたのよ。だれさも喋らねえで心の中では「いつかまとめて本にしよう」って思ったんず。
私は別にプロでもねえし、とにかくあれもこれもと思って撮り始めたの。
下手でも、めぐせくても(恥ずかしくても)、やっぱし撮ったからにはまとめねばと思ってそれで60歳の時にまとめたんだばって。
あれから20年経ってさ、町の博物館で取り上げてくれたんず。まんずありがてえな、涙出てくるほどありがてくて。
テレビ局さも取り上げてけて、こんど青森県立美術館でも取り上げることになったのよ。だはんで本当にありがたくて。
しかも今こうやってインタビューしてくれてな。本当にありがたいの。
色んな力が働いてさ。私村の人さも感謝しているし。色んな力働いて、色んな力を借りて。だはんで感謝だでばの。
こったちっこいカメラでな、なんもいいカメラでない。
――このカメラは何年使っているんですか。
もう昭和63年の12月21日に買った。とにかくいつでも首からさげて歩いたんず。
いつでもどこでも。とにかく一生懸命のシャッターチャンス逃せばマネ(ダメ)と思って。
――写真を撮っていてどんな変化に気が付きましたか。
写真撮り始めたっきゃさ、気づいたんずよ。今までだったらここはこうだったなって簡単に考えてあった。それが変化を深く感じるようになったでばの。
やっぱり写真を撮って良かったなと思った。こう変化するとは思わなかったからの。
「宮野沢が好き」ということが幸せ
――人を写真に写す中で感じることなどありましたか。
宮野沢は良い人たちだったはんで、写真に写せたんだと思うよ。そんな嫌な顔されれば私も写真撮られねっきゃの。でも写真集を見ればみんな笑顔だっきゃ。
そうゆう寛容な土地でさ、自然も風土も好きだし、良い人がいてあったし。おらは幸せであったと思うよ。
自分は恵まれていると思っている。
「わい、こったとこさ死ぬまで暮らさねばまいんだべ(こんな場所で死ぬまで暮らさなくてはいけないのか)」と思ったこと一回もねえもの。それが一番の幸せだな。
一番平和な時代を写真に収めることが出来た
写真集に載っている行事も今はやってねえんだよ。
――具体的にどのようなことをやらなくなりましたか。
例えばさ、写真集に載ってるこの写真もさ、毎月白旗様を拝んでいたんだけれどもほとんどの人が亡くなったとこで、今は何人かで1年に2,3回程度。
これもほら共同作業。いま宮野沢の田んぼも大規模になったらこれもなくなるよ。
共同作業のことをあまだ仕事って言うんだよ。どうしてだべな、私も分からねえけど。
こういうふうに薬かける人もいなくなった。今はもうヘリコプターでやってるっきゃ。
これもなくなって。お題目と念仏講ってさ、人数の減少でやらなくなった。
ここは建物こうやって建っているべ。別にさ変わるとも思っていなかったんだけども、ほらこんであったのがこうなってさ。
ただ「今を残さねば」という気持ちできたけれども。写真集見れば後世の人が「こういう風景だったんだ」と知ってくれればいいなと思っているんず。
考えてみればこの写真集の時は一番平和な時であったんだよ。戦争もなくて、人も居て。今年で終戦80周年だべ。
だはんでほら、私戦争が始まるときに生まれたはんで。すっごく今でも覚えている。飛行機の爆音が怖かった戦争の記憶。
だけどこの写真を撮っていた頃は人もたくさんいて本当に良い時だったべな。
――コロナで宮野沢も変化したように感じましたか。
大人数では集まれなくなった。
コロナが始まる前からに人口の減少でいろんな行事をやらなくなった。
昔はだれか亡くなった人がいた時にごちそう出したでばの。ジュース出したり、お菓子出したりして。お酒も出して。どこの村でもそうであった。
町で「通夜にごちそう出すのは辞めましょう」ということになって、今は見られなくなった。コロナの前からやらねくなった。
時代って変わるんだの。
だから自然と写真集の中に昔のことを文章に残したいと思った。
ズラアっと流れてきた時代を、写真に撮っておけばいったん立ち止まって思い出すことが出来る。
これはやっぱりいろいろな力を働かせて、白旗様が写真撮らせたんだべな。
今で関わってきたすべてのみなさんに感謝、感謝です。
美術館堆肥化計画2021
「旅するケンビ」で展示した地域ゆかりの資料(偽石器や開拓農家・竹内正一氏による戦後十三湖干拓の記録写真、農婦・外崎令子氏による平成の中泊の生活写真など)を再構成して紹介するほか、「耕すケンビ:津軽編 みみずの足あと」でアーティストらが制作した作品、関連企画として開催した講演会の内容などを組み合わせて展示します。
成果展示
2022年4月11日(月)-6月26日(日) ※コレクション展内で開催
[休館日]4月18日-22日、25日、5月9日、23日、6月13日
[会場]青森県立美術館 [開館時間]9:30-17:00(入館は16:30まで)
[観覧料]一般510(410)円、高大生300(240)円、小中学生100(80)円
https://www.aomori-museum.jp/schedule/4637/
グラフ青森 『振り返れば懐かし』
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