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短歌連作30首『午前彷徨』
都市人間は、都市に産み落とされ都市に育てられ都市を使い使われながら命をやっていくようだ。森で産まれた者も砂漠で産まれた者もきっときっと同じであるのだと私は眠りかけの脳で空想する。ナミビア砂漠に産まれ落ちて砂地を駆けまわるジャッカルが初めてのトカゲ狩りに成功するとき、厚着のひとびとが群がる新宿通りではサイレンを遠く遠くに聞きながらそれぞれの買い物袋をぎゅっと抱きしめている。歩行者信号が青に変わったその瞬間深海800メートルの熱水噴出孔に産み落とされた何者かは、きっと熱い孔との関係をこねくりまわしながら死ぬまでのいろいろをやっていくんだ。
ある森が豊満な垂乳根のごとくしたたる命を与えてくる時もあれば残忍な他者として命を奪い狙ってくる時もある。そのどちらでもない時なんかずっとずっとたくさんあって今がどの時なのかもわからない。中で生きるとはそういうことだ。都市がぷくぷくと豊饒の笑みを浮かべるのでああなんてすてき、と恍惚に身をゆだねてみれば、またある時は表情のすべてを失った顔、底のない穴だらけのあの顔で何の理由もなく襲いかかってくる。
黒々とカラスが啼く。空き地がアワダチソウに支配される。深夜3時の商店街を太ったネズミがもたもた走り、朝方4時の高架下で眠るハトが歩道に白糞を落としつづける。ある時私は都市が都市自身のこれまでを失ったかのごとき無表情の中にいて、くりかえし同じような朝に目を覚ましていた。
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世界から世界が消えたのに偽の朝が止まらずまたやってくる
なにもかも目に映るものニセモノになって地球もニセモノになる
それからは半透明のゼラチンが白身のように脳を包んだ
かあてん、ときみの名を呼ぶうっすらと街を透かしたレースの体
痴の夢をかくせないまま審判のごとき光の射すあさ6時
じりじりと最終防衛戦線の砦となりしベッドが落ちる
踏み出せばフローリングが沼になり、階下に落ちる危険性あり
体から剥がれた重いかたまりの本体じゃないほうが私
セーターが皮膚とからんで血管とからんでしまう われは花籠
部屋を出て顔を上げればものどもが跳ねてうねって溢れくる道
自転車を漕げば道路がひらひらと靡くページにコンビニの青
両耳がうしろにずれる 広告の女の声が伸ばされて泣く
あの頃と似ているけれど建材がスポンジ製になった駅前
新宿行きの電光掲示板の字は予言 われらの命運を読め
制帽の見知らぬひとに未来ごと託す運賃210円
先頭の席に座れば後方は黒い霧かもしれない都バス
街並に化けた煙をよどませて われ一人では無風のせかい
群衆の人影ぎらぎらぎらぎらぎら攪拌される皆の人格
どの言葉どの声色もそれぞれの香りと味を失くした果肉
銀色の新宿駅よ、たましいに深き迷いを与えておくれ
これほどの数の知性が行き交って掻き消しあって静寂の都市
離れゆくものの速さと接近の速さ 渚に不明のかけら
すれちがう誰かが耳に「二年前」まざまざ置いて去る交差点
虹色のじらじらせまる輪郭が視界に満ちてくれば始まり
透過する体に浮かぶ心臓がみえる道ゆくすべての人に
追憶の骸を飾る花よりもいま溢れたるこの花をみよ!
何もかも口に入れてもいいほどに照り照り照りと誘われる昼
太陽を吸ってしまって毛穴から洩れだす光のすばらしいわれ
破裂したステンドグラスを拾うかのごとく人、人、人の眼をみる
光さす真昼の鋪道!ボーイング・シャドウの十字を刻んだ棺
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眼の奥のじくじく痛むような頭痛、あるいは実際に視神経が傷んでいるのかもしれないけれど私、すごくすごくきれいで、すごくきれいにグレーのアスファルトに埋まったガラスが乱反射するから幸せになってしまった。光が眼球を焼いて焼いて色付きの染みが視界からとれなくなった頃に思い出したのは今まで同じ眼で嚙みちぎるくらい見つめてきた他人たちの顔。人間の顔ばっかり思い出すのは嫌、どうせひとりで死ぬのに、みんな突然いなくなるのに、寂しくなるから嫌なのに人間の顔がピンクやオレンジの花火みたいに上がってひらいて消えて硝煙。白い硝煙がいくつか見せつけるみたいに空に浮いたら、きみの顔から崩れて散ってほんのり風に流されてゆく。12時過ぎの空腹の風。
内側がじくじく動いて思い出した、私、私って筒みたいな形をしていて内側に何か入れたくなることたくさんある。私の中の何者かが胃腸を走って脳まで走って絶叫するのを聞いて私、ベーコン・エピがまず浮かんだ。あの形が大好きだからベーコン・エピを胃に挿したくてパン屋に行こうと思った瞬間、黒いタイヤがざあざあ地面を擦り上げてまるで真夏の驟雨みたい。麦の形のベーコン・エピを眼球表面に空想しつつ、狩猟採集ごっこのように歩く明るい新宿通り。財布の奥には銀色コインを銃弾みたいに装填して、私いまだに現金派なのは重さの概念が好きだから。100円と100円玉の重さはぴったり、500円と500円玉の重さもぴったり、価値と重みがぴったりなのが嬉しくて、私は重いコインが好き。コインに重さが戻って嬉しい、足に、体に、人々に、街全体に戻って嬉しい。
2025年2月5日
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