『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』東畑開人 感想
コーチングと私を育むを両立させようとしているなほです。
有償でコーチングを提供するに挑戦中です。
ナース歴約8年あります。
発売前から気になっていた本で、けど発売してからも買うか迷っていて思い切って買いました。ちょっと寝かせていた積読本。
タイミング的に今だ、と思うので読みました。
雨の日を過ごしている人が具体的に思い浮かぶからです。そして、私も雨の日を過ごしたことがあるからです。
もともとはストレスマネジメントの観点から私は心のことに興味があります。
自分のメンタルヘルス、周りの人のメンタルヘルスについて関心があります。
産業看護師(産業保健師さんと同じような仕事で、働く人の心の問題に向き合います)の選択肢も考えたことがある位には、私は精神看護、とりわけ働く人の心の問題に関心があります。
メンタルヘルスの問題は社会的にも大きくなってきています。
最近は、自分の幼少期について振り返ったことで親子関係が子どもにどう影響しているか、人格形成や生き方に及ぼす影響にも興味があります。
心理学は、大学生の時に文学部だったので入門の授業があったのと看護の勉強でも少しふれた程度です。
雨が降っている時間を過ごしている人とどう関われば良いのか、そしてコーチングに役に立つことはあるかな?という視点で読もうと思っていたのですが、完全に看護師の私になって読んでしまった印象です。
最後の章がケアする人がケアされることについて書かれているのですが、
私は自分が看護師の時は主にケアする側を仕事としていて、その時の私は十分にケアされていなかったなと、思いました。
だから、その時は働き続けることが出来なくなってしまった。
その時の私がまだ癒されきっていないのか、ケアしてあげたかったと思って読み終えました。
やさしい本だなと思います。
語りかける感じも書かれている内容もやさしい。
けれど、そのやさしさ加減が絶妙。
それがこの本の一番良いところだと思います。
東畑さんの本を読むのは初めてなのですが、やさしさがさらっとしています。なんて言ったら良いのでしょうか、べたべたしていないんです。
適度な距離がある。余白を持たせてくれる感じがします。押しつけがましくなくて、
「受けとれそうなら受けとってね。今じゃないなら、どうぞ素通りして下さい。また思い出したら来て下さい。いつでも待っていますよ。」
って言ってもらうような感覚。
これで伝わるかしら?
圧をほとんど感じない。
読んでいるのに、語りかけてもらっている感じをすごく受けます。文体もあるとは思いますが、読むというより話しかけてもらっている。
読書体験としては、不思議な感じを受けました。
このやさしさをそっと手渡してくれる感じだけで、読んで良かったなって思うし、自分の読書嗅覚を褒めたいです。
私、自分の選書のセンスを褒める率高めです笑
ケアとは傷つけないことである
そっか~と思いました。
私の中ではケアというと看護が結びついていて、ケアというのは不足を補うというイメージでした。
普段なら出来ることが出来ないから、それを補う。セルフケア不足の状態だから、そこをケアする。
看護師の仕事の定義の中の、「療養上の世話」というものです。
それと同時に治療をすることもケアの中に含まれるイメージです。
治療の介助をするということです。点滴をしたり、薬を塗ったり。
傷つけないというのは、考えたことがなくて、治療においては辛かったり傷つけるというか苦痛を強いることもあるので、意図的に傷つけることはないけれど、患者さんが療養の過程において傷つく体験をすることはあると思います。
言い換えとして、ケアとはニーズを満たすことである。
と書かれていて、これはしっくりきました。
そうだよね、とこちらはすんなり分かると思いました。看護的には患者さんのニーズを満たす。
ケアとは依存を引き受けることである。
これだけ聞くと、どういうこと?って思いますが、看護におけるケアそのものだと感じました。
「お世話をすること」こそが依存を引き受けることである。
と書かれていました。看護の世界に置き換えて理解してきましたが、
こころのケアにおいても、精神的なケアとしてイメージされる話を「きく」というような作業だけではなく、具体的な行動がこころに働きかけると書かれていました。
これは、意外な感じがしますが説明されるとそうだよな、と思いました。
物理的な親切が、こころに働きかける、と書かれていました。
具体的な行動がこころのつながりを感じさせてくれるからだ、と書かれています。
親が子どもに何か具体的な行動をする。それによって具体的に何かが助かると同時に、安心感を感じたり、気にかけてもらっていることが伝わる。
こころに雨が降っている人への声かけとして、
「何でも言ってね。話ならいつでも聞くよ」ということを私は何度か使っています。
それが間違いではないし、いつでもあなたの話をきく準備があると示すことは本書でも語られています。
けれど、話をきくよりももっと前に具体的な行動でケアできることが体の不調ではなく、こころの不調においても有効であるということはしっかりと覚えておこうと思いました。
雨の日を過ごしている人に対して「きく」しか出来ないかもっていう思い込みがあったと思います。
「きく」が出来るって思っていることもおごりではないかと思いますが、
話をきいて「こころのゼリーを預かる」をできるような自分のこころのスペースを空けておきたいと思いました。
雨の日には個別的な対応が必要になる
これは直感的に分かるのではないでしょうか。
それぞれ違うからです。
たとえば、同じように見えても人によって全然状況は異なる。
ストレスがかかっていて朝起きて仕事に行くことが出来なくなった。
そういう状況があったとして、それはその人によって事情が違います。
人間関係にトラブルがあったのか、仕事量が多過ぎて残業続きだったのか、その背景はまったく違います。
これを読んで、私は「わかる」をしてもらっていなかった。
だから親は何もしないになっていたではないか、と想像しました。
私がケアされる側、雨の日を過ごしていた時のことです。
仕事で心身の限界を越えてしまった私は、休ませて欲しいの一心で仕事を辞めました(直近の退職ではなく、昨年のことです)。
睡眠がまともにとれなくなってしまっていて、朝食もあまりとれなくて、胃の調子も悪くてみたいになっていたので、転職活動をするようなエネルギーもなくて回復するためには休むことが必要だと思っていました。
その時に、親はどうしたら良いのか困っていたのではないかと思いました。
雨の日の対処法が分からない。
だから、何もせずに見守るという選択をとったのだと思いました。見守るというと良いことのように思いますが、何もしないに近かったです。
距離をとられていたと思います。
私としては、早く転職しろと言われなかったことはありがたかったですが、逆に何もせずに家にいるということ自体が初めてだったので、それはそれでもやもやしました。
振り返ると、私の辛さをわかってもらいたかったんだと思います。
けれど、誰もわかってくれる人がいなかった訳ではなくて、私にも傘をさしかけてくれる人はいました。
表紙の絵と同じことを伝えてくれています。
雨の日に1人でびしょ濡れになっている所に、誰かが傘をさしかけて一緒に入ってくれる。
そういう人がいることが、ケアであり、1人ではなく2人で傘に入ることが孤独を防ぐになるんだな、とこころが孤独ではなくなることがいかに大切かがわかりました。
並んで座ろう
これはコーチングにも使えるし、看護的にもそうだよねって思いました。
対面でコーチングセッションをする時にどこに座れば良いのか?
について私は疑問に思っていました。というのも対面でコーチングセッションをしたことが1回しかないからです。
選択肢は提示するけれども、どうするかは相手に決めてもらったら良いよというのを読んで、そっか~と思いました。相手の立場に立って考えるをここでもやったら良いだけなんだなと思いました。
看護師として話を聴くという経験から私には2人で話を聴く時には、どこに座るかという答のようなものがあったので、この一言で解決した、ヒントを得たと思います。
真正面に座るに抵抗があって、横並び、ハの字になるような位置、対面で座る時も真正面ではなくずらして座ることが身にしみついています。
相手に決定権がある中でセッティングがなされると、雨の日のこころは話をしやすくなると書かれていて、そうだよなと思いました。
これは、雨の日でなくても相手に選んでもらうは緊張感を解くという上でも有効だと思います。
クライエントの可能性を信じる
コーチングに舵を切っているので、コーチングに役に立つことはないかという視点でみて印象に残ったのが、可能性を信じることです。コーチングにも通じます。
コーチングにおいても、基本的にクライアントさんの可能性を信じて、コーチが何かを教えたりアドバイスしたり、変えようとしたりすることはありません。
じっと耳を傾けて本音ではどう感じているのかな?外側の声にかき消されそうになっている大事にしていることは何かな?と考えながら関わります。
「きく」だけで何かが変わるのか
「きく」だけで何かが変わるのか?ということについても本書ではふれられています。
何も変わらないのではないか、ということについてです。
話をきいた所で、解決策を提示できなければ意味がないのではないかという疑問。
これはまったくその通りで、そういう疑問を私も持っていました。
だから、相談できないし、相談しても解決しそうにないから相談しない選択をとっていました。
でも違うんです。解決しなくても良いんです。
これを以前私はハローワークのカウンセラーさんに教えてもらった時があって、その時はコップのあふれそうな水を少し減らすことで、たとえ解決しなくても考える時間ができるよという風に教えてもらいました。話して、きいてもらうだけで、解決しなくてもスペースができる。
本書では、一緒に絶望してくれる人がいるだけで、孤独を防ぐ。
と書かれています。事態は変わらない。けれど、話をきいて一緒に絶望してくれるそのこと自体がこころを支えてくれる。
話すだけで解決していなくても心が軽くなるよ、だから相談するハードルが高いかもしれないけれど、早めに相談してねって伝えたいです。
私も全然相談できない人間だったからです。
話すことで何が起こっているのか、そういうことだったんだ、と理解できました。
いったん預かる・コンテイニング
とても興味深かったです。
こころがゼリーに例えられていて、
こうやって言われると、そういうことが起きているんだなって分かりやすかったです。
「きく」時に何が起こっているかというと、そういうことなんだなって。
だから、コップの中の水は減るし、一緒に絶望することもできる。
「きく」→「考える」→「わかる」
相手の事を完全には理解できない。
けれど、理解しよう、わかろうと努力することが大事だと思っています。
それが上記のようなことだと思いました。
重ねて「考える」をして、「わかる」を探して想像する。
ゼリーをいったん預かる所から、始まる。
そうすることで、雨の日のこころは他者との間で一緒に分け持たれるものとなるそうです。
単純に相手に心を寄せて聴くことを意識すれば良いと思っていたけれど、「きく」ことが始まりでそこにはこんなに繊細なこころのやりとりがあったんだということを丁寧に教えてもらったと感じました。
自然にやっているんだろうけど、解決策を見つけられなくても自分と重なる所を探して、相手の持っているものをほんの少しでも分け持つそんなイメージで話を聴けるようになりたいと思いました。
以下長いですが、大事なことだと思うので引用します。
ケアすることはケアされること
これについては、完全に看護師の私が同意するので書きます。
看護、私は看護師が患者さんをケアするものだと思っていません。
確かにそう見えるけれど、私も患者さんからケアされている、一方的な「ケアするーケアされる」の関係ではなくて、お互いがケアしあう双方向の関係だと思っています。ケアリング。
私が看護師として大事にしている看護観です。
私も患者さんから何かをもらっている。
ケアすることで(ケアする側が)元気になる側面があると書かれていて、そうだよなって思います。
感謝されるからケアしている側が元気になるではなくて、人と人の関わりの形としてケアが選択されているだけで、言葉にうまくならないけれど何かを交換し合っています。
患者さんが元気になればそこにはまた別の関わりが生まれると思います。
ケアは、コミュニケーションの1つの方法なんだながじんわりしみてきます。
コーチングもコミュニケーションの1つの方法だし、ケアって私が思うよりも広い概念だと気づかされました。
直接手当てしたり、話をきくことだけがケアじゃない。
ケアそのものについて
看護という仕事をしていたのに、あまり分かっていなかったと思います。
看護技術としてのケアについては学んできたし、スキルを磨こうとしてきました。けれど、ケアすることそのものについては、学んでこなかったのではないか、と本書を読んで感じました。
本質的な部分について、分かっていなかったと思います。
看護師の待遇改善見込みが厳しいことについてnoteを書きました。
ケアがどう社会から捉えられているか。
それが、こういうこととつながっていると思います。
看護だけでなく、ケアする人すべてに言えるのだと改めて思いました。
確かに、社会全体がケアすることを軽視しているなんて、看護学校では教えられないのかもと思いました。
ケアには納品がない。プロセスである。
という言葉もありました。
私が病棟に異動して合わない感を感じたことが説明されていると思います。
完了やゴールが分かりにくい、継続している状態がずっと続くのが好ましくないと思っていました。
手術室から異動して、手術には終わりがあるし、安全にかつ何を治すための手術かという目的がはっきりしています。
けれど、病棟は患者さんの日常に近い状態をケアするプロセスそのものを繰り返していて、退院や転院を完了と捉えるかというと、すっきりしていませんでした。
終わりが見えないことに苦手意識を感じていました。
こころは移動し、つらさは感染する。
経験として分かると思いました。
私は、これが怖くてメンタルヘルスに関わることを仕事にするのは無理かもと思いました。
私は感染した結果、自分を保つことができるのか?というと、難しいと思いました。
看護師として、もちろんそういう場面はあって共有することがありました。
言葉は役に立たなくて、こころのゼリーを私のこころにいったん預かる。
元気が一番
当たり前のことだけど、大事なことだと思います。ケアする人が元気であること。
私は自分に余力がないなと判断した時は、周りの人にケアが必要なんだろうなと気づいても、ケアする関わりをしようとしません。
私が元気じゃないのに、人のために割くエネルギーがないからです。
看護師として、言われていたのは自己管理をきちんとしなさい。自分の体調管理です。
でも、病棟で働いていた時は私だけではなく周りも元気はそれほどなかったと思います。
患者さんの手前、そんな素振りはプロとして出さずに元気を装っていましたが、疲弊していました。欠勤するスタッフが多かったのは皆が無理を重ねていたからだと思います。
ケアする人をケアするもの
分かる。分かり過ぎる。もっとお給料高くても良いと思う。それこそ夜勤は寿命を削って働いているような感覚があったし、持ち出し過剰になりがちなのも分かる。看護においては命を預かる責任もあるし、自分の限界以上のことをやってしまうのは、本当にそうだと思いました。
お金以外にもケアする人をケアすることについて人力が挙げられていました。看護師にも同じことが当てはまる。人手不足の常態化。マンパワーは常に不足している感じでした。
それでも何とかしないといけない。今いる人手で必死にやるしかない。
仲間の存在、決めること=「創意工夫ができること」も挙げられていました。創意工夫ができることについては裁量権とも書かれていて、私はこれが少ないと感じていました。
マニュアル通りにすることが安全を守るために大事。そして同時に個別性という言葉で語られますが、患者さんそれぞれに応じた看護ができることが理想でした。
けれど、余裕がなくて個別性を考えた看護が提供できていたかというと、必ずしもそうではないと思います。
そして、仲間については、もっと看護について私は語り合う時間が欲しかったと思います。患者さんの看護についてのカンファレンスを持つ時間があまりとれていなくて、それは忙しいこと、人手不足であることもあって、チーム受け持ち制でしたが、一緒にどうすれば良いかもっと気軽に話したかった、と感じていました。
仲間の存在は、私にとっては希薄だったと思います。
ケアされていなかったと思う私は、合併直後の病院だったので人間関係があまりできていませんでした。
読めば読むほど、「ケアする人をケアするもの」が当時の私には足りていなかった、を突きつけられた。
あの時の傷ついた私を意識せざるを得なくなってしまいました。
まとめ
雨の日を過ごす人とどう関わったら良いのかを学ぶ目的だったけれど、私の雨の日のこと、看護師とケア、ケアする人がケアされることについて書かれていて、客観的な目を持って読むことが出来なかったかもしれないと思います。
看護師おやすみ中で、コーチングの山を登ると仮決めしているけれど、私はケアすることに無関心ではいられないし、寄り添いたいと思っていることが分かった気がします。
また、「きく」ということについて何が起こっているのかを丁寧に教えてもらったことで雨の日を過ごしている人だけでなく、普段の「きく」も少し丁寧にしようと思いました。
ケアは、大半をプロではなくて周りにいる人が担っている。
こころのケアの九割五分は素人によってなされている。
これを心に留めておきたいと思います。
ありがとうございました!
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note執筆の励みになります。
コーチングの練習セッションで今月3冊読みたいです。と読書について目標設定していて、この本で3冊達成!
決める、それもコーチと話す中で決めたことで達成できました。
まず、私が私を褒めます。読めたね!やったー!