一人旅 Episode-11 「門司・下関 大正レトロ」
関門へ
もともとは、門司港から下関を廻るルートだったのですが、荷物があるので、まず下関のホテルへ寄って、荷物を預けて、門司港へ行きます。
まずは、博多から下関へ。
普通列車で行くと、90分。
しかし、新幹線を使うと、50分。
朝一で、ホテルからワーケーションをしたこともあり、今日の行動できる時間が減っていました。
ですので、新幹線を使うことに決めました。
小倉までですので、料金はわずか1,000円増し。
新幹線も久しぶりですので、旅行気分が高ぶります。
新幹線さくら自由席のチケットを購入し、時間までお土産屋をぶらつきます。
なにか軽く名産を食べたいなと思っていましたら、太宰府名物「梅ヶ枝餅」発見。
しかも、あったかい。2つ購入。
新幹線改札口を入り、14番線で、さくら入場を待ちます。
自由席ですが、このご時世、行列はありません。
すっと窓側に座り、わずか16分の乗車を梅ヶ枝餅と楽しみます。
小倉で乗り換え。小倉から2駅ですが、鹿児島本線から山陽本線へ入ります。
こういうのは、鉄道好きにはたまらないです。
同じ電車なんだけど、路線が変わるってのがね。いいんですよ、なんか。
下関駅はやはり大きい。
駅からわずか3分の「下関ヴィアインホテル」へ。
チェックインはせず、荷物だけ預かっていただきます。
駅前のバスターミナルに戻り、「唐戸」へバスで行く。
サンデン交通という会社のバスで7分くらい。
今日のルートは、歩きがメイン。門司港から下関をぐるっと。
唐戸から「関門連絡船」に乗り、門司港へ渡る。
わずか5分の船旅ですが、東側には関門橋、西側には巌流島を眺める事ができます。料金は、一人400円。
ここからは、「巌流島」へわたる定期便もあります。
片道10分。こちらは往復900円です。
アナウンスがあり、船に乗り込みます。
乗船は3名だけ。
私は、オープンデッキで海を眺めます。
思ったより早いスピードで航行します。
風は強いです。
遠くに、タワーが見えるなと思ったら、あっという間に、門司港に着きます。
門司港
門司港はかなり整備された感じで、歩きやすいです。
ここでのお楽しみは、大正レトロの建物の見学です。門司港駅からして、レトロです。
1914年(大正3年)に門司駅(当時)として開業、1942年(昭和17年)に門司港駅と改称され、1988年(昭和63年)には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されました。
2019年(平成31年)には6年にも及ぶ復元工事を終え、大正時代の姿に復元された門司港駅がグランドオープンしました。
門司の歴史(引用:門司港レトロインフォメーションより)
明治二十二年に石炭などを扱う国の特別輸出港に指定され、貿易港としての地位を確立した門司は、その後、日清戦争、日露戦争の勃発と共に、栄えていく。
中国大陸が近いこともあり、軍需品や兵士たちを送り出す重要な港となり、米、兵器、軍服などの品物を扱う商業が目覚ましく発展していった。
大正三年には門司駅新駅舎(現在の門司港駅)が完成。
この年の八月に日本は第一次世界大戦に参戦。十一月には中国の青島を攻略し、門司は大戦景気に湧きたった。
その後、欧州航路の寄港地にもなり、港は莫大な利益を得ていくことにる。大陸貿易も盛んで満州などへの貿易船や客船で大変賑わった。
この頃には、日本三大港(神戸、横浜、門司)の一つとして数えられ、重要な国際貿易の拠点となっていた。大商社や銀行が先を争って門司に支店を出そうとし、地価が暴騰したのもこの時である。
また、大陸貿易の発展とともにもう一つ賑わったものがあった。
料亭と花街だ。門司には数多くの料亭があり、清滝には10件以上もの料亭が林立していた。
旅館も多数あり、中には高松宮殿下が定宿としていた宿もあったそうだ。
また、芸伎衆もおよそ200人、置屋も20軒以上あったと言われており、当時の華やかな風情が想像できる。
このように、終戦前までは非常に栄えていた門司だが、終戦とともに大陸貿易が縮小され石炭の輸出も減り、港として低迷し次第に衰退していくことになる。
というわけで、今その趣きが残っている場所、商社ビル、銀行支店、料亭、商店街など巡っていきたいと思います。
門司港ウォーク
旧門司三井倶楽部
アインシュタイン博士が来日した際に、ここに宿泊したようです。
ドア枠、窓枠、大階段の親柱などには幾何学模様のアールデコ調の飾りがされており、大正モダン満載です。
北九州銀行門司支店(旧横浜正金銀行門司支店)
一時、門司が西日本の金融の中心地であったことがうかがえる立派な建物です。
歩いているうちに、良い感じのお店を発見。地域共通クーポンも使えるよう。焼きカレーをここで食べましょう。
「ミツバチカレー」
デトックススパーリングウオーターをいただきながら、メニューを眺めていると、ハヤシライスやローストビーフカレーなどありますが、迷わず「スパイシー焼きカレー1,000円」
17種類のスパイスを使い、チーズがドバっとかかっています。
チーズとカレーはすごく合いますねえ。
お客さんがどんどん入ってきて、あっという間に満席に。
とてもおいしかったです。
焼きカレーを含めた、ブラリ食事メモはこちら。
かつて、料亭が軒を連ねた清滝界隈を歩きます。
小道が入り組んで、そこに小さな木造家屋が立ち並んでいます。
その中でも、高台に建つ大きな建物が、「三宜楼」。
昭和6年に建てられた三宜楼は、木造3階建てで、現存する料亭の建屋としては九州最大級です。
一階では「三宜楼茶寮produced by 春帆楼」が営業しており、お食事も楽しめます。
清滝界隈から歩いてすぐの場所に、「栄町銀天街」があります。
門司港の発展と共に歩んできた歴史ある商店街。今は人通りも少なく、やや寂しいです。
商店街から港方面へ戻ります。
港に立ち並ぶ「門司港レトロ中央広場」で、一休み。
海峡プラザが一望できます。
いい景色です。
夜もいい雰囲気になりそうです。
すぐ近くに、「大連友好記念館」があります。
後ろにある高層マンション「門司港レトロハイマート」との新旧コントラストが映えます。
その向かえに港町のシンボル「旧門司税関」があります。
明治45年(1912)に煉瓦造り瓦葺2階建構造で建設されたものです。
昭和初期までは、税関庁舎として使用されていました。近くで見ると重厚感あります。
また、駅の方に戻るため、橋を渡ります。
「ブルーウィングもじ」という名がついており、恋人たちの架け橋として人気で、「恋人の聖地」に認定されいてカップルで渡ると幸せになれると言われているそうです、なんと。(門司港レトロインフォメーションより引用)
駅に戻り、和布刈神社に向かうべく、バスに乗り込みます。
およそ15分ほど到着します。
関門橋の下にあります。関門橋でけー。
和布刈神社は、由緒正しく、創建200年という古さです。建ってから200年ではなく、西暦200年です。びっくり!
(Wiki引用)神功皇后が神の教えのままに、現在の朝鮮半島である三韓の征伐に向かわれ勝利した際に、報賽の思召をもって創建されたと言われている。
御祭神は、天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」。
別称「瀬織津姫」という月の女神であり、穢れを祓う禊の神さま、潮の満ち引きを司る「導きの神さま」とも言われている。
和布とは、ワカメのこと。和訓で「め」といい、「め」を刈る事から「めかり」と呼ぶようになったそうです。
ワカメは、万物に先んじて芽をだし自然に繁茂するので、幸福を招くといわれ昔から重んじられてきたものなんだそうです。
こじんまりとしているのですが、目の前が海、その海は日本の入口出口になっており、「気」が流れているようです。ここはなんかすごいパワースポットの感じ。
おばさんが海の方面に向かって、両手上げ、何か文言をとなえています。祈り?
ぐるりと歩きます。建物がしっかりしています。さすが。
神社の横の階段を上がると、「関門トンネル人道」入り口です。歩行者は無料です。
エレベーターで、トンネルへ。
距離は780M、大体歩いて15分ほどです。
海峡を歩いて渡れるのはうれしいですね。
世界的にも珍しいそうです。
下関ウォーク
また、エレベーターであがると、出口。
出口の目の前に、みもすそ川公園があり、立派な源義経像・平知盛像があります。壇ノ浦とはここなんですねえ。
街方面へ歩いていきますと、じゃーん。
「赤間神宮」でございます。
源平壇ノ浦の合戦において、二位の尼に抱かれて入水された幼帝安徳天皇を祀った神社です。
ここも、相当なパワースポットです。神々しい。
平家一門のお墓があり、水天門は、「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる竜宮造の楼門です。
そして、盲目で琵琶の名人であった芳一が、平家の亡霊に「壇ノ浦の合戦」の演奏を頼まれた話「耳なし芳一」の舞台となったのが赤間神宮です。境内には「芳一堂」というお堂があり、耳なし芳一を祀っています。
赤間神宮の横から小道を行くと、すぐ「春帆楼(しゅんぱんろう)」に到着します。
春帆楼は明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによって、割烹旅館を開いたことに始まります。
春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。
春帆楼は、ふぐ料理公許第一号として広く知られています。
豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文は、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理を提供し始めました。
敷地内に、「日清講和記念館」があります。講和会議が行われた部屋を当時の調度そのままに再現しています。
日清講和条約は、日清戦争(1894年-1895年)で大日本帝国が清国に勝利したことにより、春帆楼での講和会議を経て、1895年(明治28年)4月17日に調印された条約です。
春帆楼はここが本店ですが、かなり敷居が高く、とても一人でふらりと入れる気がしません。
下関駅前の大丸に支店があるそうです。そこに今晩行ってみようかな。
ここから唐戸市場はすぐです。
ぶらぶら歩いているうちに到着です。
市場は時間的にもう終わりで、ガラーンとしていました。
が、隣に「カモンワーフ」という商業施設があります。
そこで、海を見ながら、一休みです。ソフトクリーム。
カモンワーフの向かい側に、「旧秋田商会」があります。
実は、下関で私が一番気になっていた場所です。
私の卒業論文は、大正昭和に消えた総合商社でしたので、個人的に関心が高いです。
秋田商会は、秋田寅之介により明治38(1905)年に設立され、日清・日露戦争時に大きく飛躍を遂げた総合商社です。
朝鮮・中国と貿易エリアを広げつつ、様々な事業を立ち上げる二軸の成長で急激に拡大していく力、この時代の総合商社はすごい。
ちなみに、わたしのメインテーマは、一時三井三菱を上回ったが、最後には破綻した「鈴木商店」。
大正4(1915)年に下関港に面した交通の要所に建てたのがこの秋田商会ビルです。
鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階には建物の約3分の2を占める広い事務室と応接室、小室、階段室が設けられました。
事務所が洋風の建築である一方、2・3階の住居には書院造が取り入れられていて、和洋折衷のユニークな造りが特徴です。
なんといっても珍しいのは、屋上に茶室のような離れ座敷があること。建物の周囲には樹木を植え、今から100年以上も前に屋上庭園をつくっていたのです。
屋上に上がる階段は木造です。どういう造りだろうか?
また2・3階の書院造は重厚さがあり素晴らしく、3階は大広間が設けられています。
創られた当時は、目の前が海。多くの船や多くの積み荷が並んでいたのでしょう。活気が目に浮かびます。
隣に、明治33年(1900)に建てられた下関に現存する一番古い西洋建築の「下関南部町郵便局」があります。現役です。
また、道路を挟んで、「旧下関英国領事館」もあります。
入場無料です。お気軽に。
今日は歩き疲れました。
下関で、ふく、食べるぞうと思っていたのですが、優雅にコースを食べる感じではなく、すぐ食べたい。おなかすいた。
ので、ホテルに帰る前に、大丸のお総菜コーナーで、お寿司を買って帰りました。
すごくおいしかった!地のものかなあ。
おなか一杯、お風呂に入ってすぐ寝ます。
明日も朝早く出発です!