無条件の愛とは?
{2022.07.03の記事}
「○○だから、aが好き。」
「△△だから、bが嫌い。」
「□□だから、cが良い。」
と、
自分の選択に理由付けしてしまいがちなあなた
に読んでみて欲しい話を書きます。
よく、【無条件の愛】という言葉を聞きますが、無条件の愛とは、"○○だから"(好き)"△△なところが"(好き)"□□で"(好き)
などの[条件が一切無い]ものを指します。
これって、つまり[『好き』と自分が感じた感覚、ただそれだけあれば良い]ってことなんですよね。
好きだけでなく、美味しい、可愛い、面白い、楽しい…などの【形容詞】に[理由なんて付け加えなくて良い]ということを指しているということです。
でも、ついつい
「○○だから…」
「△△だから…」
「□□だから…」
と、理由付けしてしまっていませんか?
最近の私のテーマが
[自分の感覚に従うことを学ぼう]
なんですよね。
そのテーマに沿って思うことが色々あるので、まとめます。
『"自分の感覚に従う"を大事にするべきタイミングだ!』というインスピレーションだけ沸いていて、それがなかなか実行できていなくてモヤモヤしやすくなっているんですけど、私と同じように
『自分の感覚って何なの???』となってしまう方への何かヒントになるかもしれないので、色々書いておきます。
私は最近、
『[物理的な状況]ではなく[自分の心情]に目を向けようね。』という学びのタイミングのようです。
恐らく、似たようなタイミングの人もいることでしょう。
人類全員が精神的に目覚めきっていない現代を生きる上では
・ロジックの使い方
・感情の操り方
双方を学んだ上でバランス良く使うことが大事です。
勿論、人によりますが、より精神性を高めようとした時に…と、いうか、自己統合しようとした際に、これらをバランス良く使うという訓練は避けては通れないカリキュラムの1つなのかな、と感じています。
ただ、私にとっては凄くハードなカリキュラムです。
私は自分の感覚を捉えるのが苦手だからです。
多分、普段から感覚派の人が私の話を読んでも、
『自分の感覚が分からないってどーゆーこと???』
『Nagyの言いたいことがサッパリ分からない???』
ってなるんだろうな…という気がしますが、私と同じように[自分の感覚がよく分からない]という人は一定数いますよね。
読んでくれてるあなたはどうでしょうか?
私は子供の頃から、
「好きな物は何?」
などと聞かれた後必ず
「何でそれが好きなの?」
など、
自分の"感覚"に理由を求められることが多かったんです。
しかし本来なら、
「好き。」
などの感覚に理由なんて無くないですか?
好きな対象が食べ物なのであれば
「美味しいから。」
好きな色であれば
「可愛いから。」
好きな遊びであれば
「楽しいから。」
程度にしか答えようがない筈です。
なのに、何故か自分の感覚に理由付けを求められることが多かったんです。
『判りきった答えしか出ないのが目に見えているのに、何でそんな変な質問するんだろう?』と、思いながらも、[何とかして理由を絞り出す]という作業に手こずってきました。
手こずったからこそ、頑張って因果関係を探るように、思考回路が癖付いてしまっているんですよね…。
真我の自分に戻る
或いは
自分軸に戻る
という視点で見た場合、
「○○だから…」
「△△だから…」
「□□だから…」
と、理由を無意識に紐付けてしまう癖は邪魔になります。
ただただ、
「なんか好き。」
「なんか良い感じ。」
「なんとなく心地よい。」
こういう["感覚"を感じる回路]を邪魔している気がします。
「私はXXが好きです。何故なら、XXのaな部分が非常にbであり、私はそれがとてもcに感じるからです。」
といった風な論法は、学校教育の中で勉強してきた内容によるものが大きいと思うんですよ。
作文やレポートの制作などを通じて、このような論法を勉強しながら大人になってきた筈なんです。
上手な作文やレポートを制作する上では
・結論
・結論に至った理由
は必須です。
私と同じように自分の感覚が分かりづらく、すぐに理由付けをしてしまうタイプの人は[自分の感覚に従うこと]よりも[理論立てて説明する方法]を一生懸命頑張って身に付け、点数を取ってきたという人が多いのではないでしょうか。
正しく論理立てて物事を捉えられているのなら何の問題も無いようにも思うのですが、先述したように[より精神性を高める]という目的がある際は、論理立てて物事を捉えるだけではなく、[論理立てて考えた内容を上手く使うこと]も求められます。
「私はXXが好きです。何故なら、XXのaな部分が非常にbであり、私はそれがとてもcに感じるからです。」
の、ような複雑な説明ができるメリットは、自分の感覚を元に、
・分析
・比較
・改善
が出来ることで[新たな良い物を生み出すアイディアに繋げられること]が大きいと感じています。
例を挙げると
「何のフルーツが好き?」
「私は梨が好きです。」
「何で梨が好きなの?」
「梨は食感が良く、酸味がほぼ無くとても甘い上に、リンゴと同じような形ですが、リンゴよりも皮が固い為に皮を剥きやすいからです。」
→私は皮を剥く時に皮が破れにくい梨が好き、と、いうことは皮が固いリンゴを作れば食べやすいリンゴが出来るかも?!
こんな感じです。
また、料理する時にはとても便利だと思っています。
私は酢豚が嫌いなのですが、その理由は
・そもそも酸味(お酢系の)が嫌い
・生っぽい玉ねぎが嫌い
・野菜が大きく切られている割に味が沁みていない
が主な理由です。
だから、
・お酢を少なめにして
・野菜にはしっかり火を通して
・細か目に野菜を切る
と、いう風に工夫して作れば酢豚は食べられます。
応用すれば家族で同じ食事をする場合などに、
「○○のどのような部分が好き。」
「△△のどのような部分が嫌い。」
と、個々のポイントを把握しておくことで、[誰か1人が極端に苦痛を感じる食事]ではなく[全員が極端な苦痛を感じなくても良い食事]を楽しむこともできます。
こんな感じで、"感覚"に理由付けをして深掘りすることによって、チーム全体でのストレス値を下げることに繋げるのも可能です。
論理立てて物事を捉える必要性の本質は、こういう部分にあるのかな、と私は思っています。
物事を論理立てて説明するのが得意なタイプの人というのは、時に自分を幸せから遠ざける思考を持ちやすいです。
「○○だから幸せ。」
「△△になったら幸せ。」
「□□だったら幸せ。」
と、条件付けてしまうことで、
「○○ではない自分は不幸。」
「△△にならない自分は不幸。」
「□□になってない自分は不幸。」
など、否定側の信念も同時に生んでしまいやすいからです。
これは無意識レベルで起こってしまうので、注意が必要です。
だからこそ、無条件で感じられる
『なんか分かんないけど幸せ~。』という[感覚をただ実感する]ことに意識を向けることも、時には必要なのです。
よく、
「自分が望むものを引き寄せるために、願望をノートに書きましょう!」
「『○○が叶いました!』と、過去形で書きましょう!」
の、ような教えがありますよね。
そういう、"書く"系の引き寄せが上手くできないタイプの人というのは、もしかしたら私と同じように[ただただ感じる]ことが上手く出来ていないからかもしれません。
例えると、
『月収100万円になりました!』という願望をノートに書いたとします。
しかし、自分が本当に望むゴールは[月に100万円の収入を得ること]ではなく、
【月に100万円の収入を得たことで、自分の欲しい物を我慢せずに買えるようになって、幸せになった自分】
ですよね。
人によっては、
【月に100万円の収入を得たことで、社会的に認めてもらえるようになって、幸せになった自分】
かもしれませんし、
【月に100万円の収入を得たことで、借金を完済できて、安心できるようになった自分】
かもしれません。
このように、[100万円の収入を得ること]の部分よりも、
『100万円の収入を得た後に自分が感じるであろう幸せ(感覚)が何なのか?』の部分が明らかになっていない内は、その願望が実現しない場合もあります。
人それぞれではあるのですが、
[自分の感覚]をしっかり捉えられるようになるために、[自分の感覚を捉えられていない間は願望が実現しない]人もいる
ということです。
このことからも、
自分の感覚を捉える必要性
感じませんか?
私はとても感じています。
と、いうことで、
【自分の感覚を捉えるのが苦手な人が、自分の感覚を捉えるようになる方法】
として、私が効果を感じているやり方を書きます。
自分の頭の中で
『あの人は○○だから…。』
『あれは△△だから…。』
『これは□□だから…。』
などと、自分以外の人物、事柄について考えてしまっている自分が居た場合、
『あの人は○○だから、自分はこう感じる。』
『あれは△△だから、自分はこう感じる。』
『これは□□だから、自分はこう感じる。』
と、必ず最後に
『自分はこう感じる。』
という部分をあえて付け加える作業をするのが良いです。
そして、その付け加えられた自分の感覚"だけ"を観るのです。
その内、
『あの人は○○だから…。』という思考をすっ飛ばして、『自分はこう感じる。』だけがちゃんと浮かんでくるようになる筈です。
それらを繰り返す内に、
『自分はこう感じる。』という言葉ではなく、ちゃんと"感覚だけ"が沸き上がってくるようになります。
どうしても理由付けしてしまいがちな人は試してみてください。
論理立てて考えるのが癖になっている状態というのは、[自分の感覚に鈍感になっている]ということです。
この、自分の感覚への鈍感さが、幸せから遠ざかってしまう原因の1つになってしまうケースもあります。
幸せから遠ざかるのを防ぐ方法として、ひたすら理由付けを止めてみることが必要な場合があるのです。
これだけ、あれこれと書いておいて、矛盾することを書いているように感じるかもしれませんが、私は
『自分の感覚が分からないのは学校で勉強したからだ。』と考えていますよね。
しかし、このように
『[過去に行った活動]と[現状]をむやみに結び付けることを今は手離していく時期なんだ。』と自覚しているんですよ。
仮に、[学校教育のカリキュラムによって論理的思考をするようになった]のが事実だったとしても、それはそれ。
私が今モヤモヤしていることとは何の因果関係もありません。
[学校教育時代は終わっているので、現在の自分とは何の関係も無い]のが事実です。
以前違う記事で書いたように、[現状]を作った大元は[過去の意識]であって[過去の"活動"]ではないのです。
この話全てを通して見えてくるのが、
理由付け<自分の感覚 を心がけること
もある意味
"ジャッジを止めること"に繋がる
ということです。
私の
『自分の感覚が分からないのは学校で勉強したからだ。』という考えを例に挙げると、
[自分の感覚が分からないこと]
の"原因"が
[学校の勉強によるものだ]
と、いうことは
『学校のカリキュラムは間違っている。』
こういう思考の流れに陥りがちですよね。
しかし、実際は、
[自分の感覚が分からないこと]
と
[学校の勉強]
に因果関係は無いので、
『学校のカリキュラムは間違っている。』というジャッジが生まれないんです。
思い出してください。[理由があるから感情が動く]のではなく[感情が動いてから理由が後付けされる]のです。
自分の感覚を見失ってしまった人が、感覚を取り戻すヒントを見付けられますように。
論理と感覚のバランスを上手にとれるようになりますように。
そういう人が増えますように。
救われる魂が増えることを私は祈ってます。
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