人に頼るということ
この前の記事で、
「人に頼りきってる癖に、頼ってることに気付かないなんて図々しい!」
の、ような内容をチラッと書きました。いや、表現は全然違ったかもしれませんが、遠回しにそんなようなことを書いたと思います。
そして、
『あ!私も人に頼ってたのに、頼ってることに気付けてなかったんや!』
と自覚することが起こりました。
と、言いながらも、
・私が想定していた[他人に頼る]
と、
・私が『あ!これも他人に頼るってことなんか!』と気付いた[他人に頼る]
は、全く形が違う(と私は感じる)ので、細かく書いていきます。
先に、ちょっと結論の部分に触れますが、私はこの経験を通じて、
『なるほど、こういう部分までしっかり『これは人様のお陰なんだな、ありがたいな。』と、気付けることで、自分の受け取れる幸せを取りこぼさずに済むんだな。』
と、いう部分を学んだんです。
なので今日の話は、普段私がよく書きがちな
「目の前の人に自分のやるべきことを丸投げするなんて、それは怠惰でしょ?!」
と、マイナスをフラットに促すような話ではなくて、
「自分が細かい幸せまで拾っていくと、その分幸せを増やせますよ◎」
という、フラットをプラスにするような話であると、まずは想定して読んでみてください。
そして話は二転三転してしまうのですが、私はこの部分に気付いた際、
『うわぁ、私自身も人に頼ってたんや😣』
と、ちょっと反省しました。
『お前(私自身のこと)がそもそも図々しい奴やんけ!』
って、少し思ったんです。少しね笑
このことに気付いたエピソードというのが、大変地味なものだったのですが、不意に
『私、普段から『これってどういうことなんだろう?何が正解なんだろう?』のように悩んだら、真っ先にネットで調べようとするよね…。けど、それって、答えをネット上に書いてくれてる他の人がいてくれてるお陰で成り立ってるよね?それって、突き詰めると、[他人に頼ってる]ってことじゃない?』
って、自分に対して思ってしまったんですよ。
私が先日書いた話の中(というか、よく書いてる話の中)で、
「"目の前にいる他人"をあごで使おうとするような奴なんてけしからん!ましてや他人をあごで使ってることにすら気付かない奴なんてもっとけしからん!」
と訴えているのに対し、今回私は自分で
「他人の善意を享受していることを当たり前として過ごしてる私、人のこと言えんくね?」
って、思ったんです。
ですが、要素は少し異なるんですよ。
["目の前にいる他人"に面と向かって自分がやるべきことを丸投げする]
のと、
["善意を遺してくれている人"本人からは見えない部分で勝手にその恩恵を頂く]
のは、全くの別物じゃないですか。だから両者が全く同じだとは私は思わなかったんです。
["目の前にいる他人"に面と向かって自分がやるべきことを丸投げする]
↑これは、本人を目の前にしながら堂々と
「お前は私の奴隷として動きなさい。」
と言ってるのにそのことに気付いていないようなものだから、それは相手を傷付けてることだと私は感じるんです。
一方、
["善意を遺してくれている人"本人からは見えない部分で勝手にその恩恵を頂く]
↑これは、本人の目の届かないところで起きていることなので、相手を傷付けてる訳ではありません。ですが、善意を遺してくれている人を蔑ろにしてる部分はあるんじゃないでしょうか。ただ、本人には分からないことなので
『蔑ろにされた!』
という悲しみを与えるということもないんです。決して褒められる行為とは言えないながらも、責められる行為とも言いきれない、と、私は感じてたんです。
とはいえ、
[享受している他者からの恩恵に全く気付けてない]
という点は全く一緒ですよね。
また少し話も逸れるのですが、私はブログに書いた記事が勝手にシェアされることがちょいちょいあるんですよ。
「いや、一言言えよ!」
とまでは思わないのですが、微妙なモヤモヤを抱えていたのは確かでした。
勝手にシェアしてる人たちからすれば、
「お前の記事、紹介してやったぜ☆」
みたいな気分な人もいるんじゃないかと思うんですけど、ブログの記事1つ1つは【私個人の著作物】なんですよ。私の善意でブログとして無料公開している、【作品】な訳ですよ。そういう【個人の著作物】に対して「良いな、と思ったので紹介させていただきました!」
なんかの一言も一切無い状態で、自分の記事に色んな他の人の記事を同列でペタペタリンクを貼るだけ、という行動を取る人の神経が理解できないんですよね。
まぁ、私もたまに他の方のリンクを紹介させて頂くこともあるので、目くそ鼻くそであることも間違いないんです。それに、いちいち
「リンク貼らせていただいてよろしいですか?」
ってやり取りしなきゃいけないのは、それは誰にとってもデメリットの方が多いと思うんですよ。絶対勝手にリンクを貼られたくない著作者は
「無断掲載お断りします。」
って一言書いて自衛してるのだとも思います。だから、勝手に他人の作品のリンクを貼ること自体を非難するのも違う気はするんですよ。
色々とグレーなんですよ。
と、いう中で、例えばですが、私の記事を読んで感銘を受けたAさんがいたとして、友人のBさんに
「ねーねー!この人のこの話、結構参考になるかも!Bも読んでみなよ!」
と、LINEやメール等個人間のやり取りの中にリンクを貼られたら、それは私からは分からないじゃないですか。
逆に、私の記事を読んで憤慨したCさんが友人のDさんに
「ちょ、このブログまじウザいから読んでみ?」
などとLINEやメールにてリンクを貼られても、それも私からは分かりませんよね。
そういうのは勝手にやられても私には気付きようもないので、何も思わないんですよ。(何も分からないからです。)
ですが、note同士(アメブロでもあったけど)なんかは特に、リンクを貼られたら、それは
「○○さんがあなたの記事をシェアしました。」
って、私の目に入る訳ですよ。私の目に入った時点で、その、リンクを貼った相手が私の記事を重宝してるのか、蔑ろにしてるのかは丸分かりになってしまうんですよ。色んな人の色んな記事がペタペタ羅列されてるだけ、という状態を見た折りには
『うわぁ。この人、明らかに他人の作品を雑に扱ってるな。』
って一目瞭然なんですよね。
↑そういう、リンクを頂いた相手に対して
「乱雑に貼ってまーす☆」
っていう部分が筒抜けな状態であるにも拘わらず平気な人の神経が、私には分からないんです。
『無神経なんだな。』
って目で見てます。
そんなこんなで、
『私は他者様を傷付けてこそいないものの、蔑ろにしてたことに変わりはなかったんだな。』
って懺悔の念に駆られた訳ですよ。
本当に目くそ鼻くそでしかなかったんだと、落ち込みました。
とは言いながら、やっぱり
「目の前にいる人間をぞんざいに扱って傷付ける人間は許さん!」
という気持ちもあり、
『私も、今後気を付けなきゃいけないなぁ。』
って、反省の気持ちもあり、本当に複雑な心境になったのでした。
少し前に書いた〖パクる人〗という記事の中で
「0から1を自分で生み出すことができない人にとっては他人のアイディアを自分のもののように扱うことがおかしなことだと理解することが難しい。」
のだと理解した旨を書きましたが、それと同様に、分からない人にとっては
「人のブログ記事や動画のリンクを適当にペタペタ貼ることが著作者にとって失礼な行為であると理解することが難しい。」
のだと思うんですよ。
だから、
『怒ってもしゃーないんかなぁ?』
なんて感覚もほんのりありました。
そしてここからが最もお伝えしたい点です。
これも以前どこかの記事で触れた気がしますが、私はかつて
『細かいことや色々なことに気付いてしまう人間って、損だな。』
って、考えていました。
ところが今回の気付きを経て、
『あぁそうか。気付ける人というのは、気付けない人よりも享受できる事柄の幅が本当に広いんだな。』
って、確信したんですよね。腑に落ちきったんです。
これは私に限った話ではなくて、世の中の繊細な人、神経質な人、完璧主義な人、色んな人に当てはまることなので、是非是非細ピ(細かいピーポー)仲間たちには
『自分は享受できる幸福の量が多い側の人間なんだな。』
って、認識を改めるきっかけに繋がったら良いなぁ、と思った訳です。
本当に分からない人にとっては、他者の作品に対して
『あぁ、この作品は作者の想いや創意工夫、その他様々なものが詰まっているのに、こうしてタダで享受させて頂けるなんて、凄くありがたいなぁ。』
っていうこのとてつもない感動を感じられないんだと思うんですよ。繊細な人間だからこそ、作者の色々なものと共鳴できるし、共鳴できるからこそ
『うわ!なんてありがたいんだろう!』
って、深い感謝の気持ちを体感できるチャンスを沢山持ってるんだと思います。
深い感謝の気持ちを体感できる素質を持ってるのが、我々細ピの強みであり、ですがその素質を認識できないまま、感謝を感じられる対象を見逃し続けていてはもったいないなぁと、強く感じたんです。
例えばですが、
・1日で1万円札1枚稼ぐ人
・1日1回玄関の掃き掃除100円で100日かけて稼ぐ人
細ピ族は後者なんだと思います。
損得で換算した場合、もしかすると前者の方が得をしているというか、要領が良いように見えませんか?
ですが、リアルに考えてみると、
[100日もの間玄関の掃き掃除を行う]
という体験によって得られる何かって、とてつもないものなのではないでしょうか。
・掃除のハウツー
・近所の人から褒めて貰えた言葉
・季節の変わり目の発見
・道行く人々の観察
・(場合によっては)筋トレを兼ねられた
・継続力を身に付けられた
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多分、得られる何かの種類も量も沢山あり過ぎて書き表しきれないんじゃないかと思うんですよね。
額面だけで見ると、稼いだのは同じ1万円なのですが、細ピ族にとっては【お金ではない何か】を得る能力が強いことによって、1日で1万円を得てしまった人の何倍も自分の中に徳が積み上がるのではないでしょうか。
かつての私のように、
『この状態はありがたい状態なんだな。』
って事実に気付かずに、『当たり前』だと胡座をかいていたのでは私は今後も沢山の幸福を逃し続けたと思う訳ですよ。多分、身の回りにはまだまだ享受できる見えない幸福の種は散らばっているので、これからもっともっと拾って行きたいんです。
そして、私だけじゃなくて、世の中の細ピ仲間にも是非とも『自分は無駄な部分ばっかり気になって生きづらいんだよね😞』
というセルフイメージから
『自分はめちゃくちゃ沢山の幸せに気付ける幸せ者なんだよね😆』
に、シフトチェンジしていただきたい訳ですよ。そしたら世の中の幸福度が爆増するじゃないですか。
繋がってる訳ではないけど、同志たちと一緒に幸せになれると良いな、って思うんです。
そんな感じで、
『なるほど!私(細ピ)だからこそ、拾える幸せもいっぱいいっぱいあるんやな!』
と、思えたら、性悪な発想なんですけど
『なーんだ、図々しい奴らって可哀想な奴らなんやな。』
って、溜飲がストーーーンと下がったんですよね。
まぁ、実際は【可哀想な奴】って認識は誤りで、正確には【精神性が幼い人】だとか【準備が整ってない人】みたいなものなんでしょうけど、私個人的に皮肉が付随しちゃう訳です。
今までの人生で、そういう配慮の足らない人に足蹴にされる経験が物凄く多かったので、どうしても
『何で私ばっかり損して、すべき配慮すらしないような人間ばっかり甘い汁吸ってんだよ!』
って、地味~に恨みを抱え続けてきたんですよ。特定の誰か、という訳ではなくて、【配慮の足らない人】だったり【私を足蹴にした挙げ句蹴落とした人】全体的に恨んでたんです。
それが今回の気付きによって、
『あ、なんだ。恨む必要なんてなかったんやな。』
と深く腑に落ちたんです。
めちゃくちゃ性格悪い発想な気もするんですけど、【気付いてしまう側の人】にとっては↑この部分の話が伝わるのって凄く大事なんじゃないでしょうか。多分、私の話を読んで
『確かに、今までは鈍感な人に対してイライラしてたけど、これからはイライラしなくて済むわ。』
って、視座を高められる人、絶対何人もいるはずです。そういう、私の仲間たちはガンガン私を"踏み台"として活用しちゃってください。正しく[昇ること]に使って貰えるのはそれは嬉しいんです。
蹴落とそうとしてきたらぶちギレるけど🤣
で、
・ネットで他の人の意見を調べる
・本から知識を得る
などなど行う場合、どうしてもそこで得られる【情報】に気を取られて忘れがちになってしまいやすいのですが、
『その情報の奥には、その情報をまとめてくれた【人】がいるんだよね。』
って、常日頃から意識を持つように気を付けよう!
って、改めて決意したんです。前々から全く意識してなかった訳でもなかったんですけど、今回
『うわ!こんなに"ありがたい"って感情って、暖かいんや!』
って衝撃を受けたことで、改めて
『【人】を蔑ろにすることを無くすように意識しよう!』
って、思えたんです。
『感謝を感じる体験を増やせるように、アンテナを強くしとこう!』
って、感覚です。
これまでに
『この人、何で私のことこんなに蔑ろにできるん?!』
って、イライラする相手と沢山対峙してきましたが、
『そうか。私も他人を蔑ろにしてた部分があったんやな。』
って、解った訳ですよ。(とはいっても、私は【悪魔憑き】みたいにわざと他人に嫌がらせする人もこの世にいると感じてるから、私の行いが100%私に返ってきてたんじゃなくて、そこに上乗せされて攻撃されてた、って思ってるタイプなんですけどね笑)
だからこれからは、
『自分からは直接見えないところにいる【人】の存在を意識して、感謝を向けられる人になれるよう、心掛けよう!』
って、深く深く思ったんです。
『【深い感謝】っていう体感がこんなに強烈(良い意味で)な感覚なんだ!またそれを感じたい!』
と思ったのも事実だし、
『他人に与えた良いエネルギーが私に返ってくるんだから、他人に良いエネルギー向けないとね!』
って打算的な考えになったのも事実です。
とにかく、
『これから、もっと積極的に感謝できる事柄を探したい!』
って自然に感じました。
もう1つ凄い発見もしました。
『私ってさぁ…人に頼れないんだよね。』
って、セルフイメージ持ってたんですよ、私。
本っ当に人に相談できないんです。私の悩みが複雑すぎて言語化できないし、思い切って相談してるのに
「はー?考え過ぎー(笑)」
だけで終わらせられた経験もあったりで、とにかく1人で抱え込むタイプなんですよ。
でも、ネット(とは限らないけど)を介して思いっきり人に頼ってたってことに気付いたんですよね。
それに付随して、
『世の中、こうなってくれたらいーのになぁ。誰か、頑張ってよ。』
って、そういう面でも【人】を頼りにするような考え方をしてたんだ、って、気付いてしまったんです。
散々
「「他力本願」は、"他人"じゃなくて、"天の存在"に丸投げしないといけませんよ。」
って語っておきながら
「てめぇが他人を頼っとるんじゃ!」
って、自己お説教タイムでした😢
言い訳ちっくではあるんですけど、
・【目の前の人】を頼ること
と
・【見えない場所にいる人】を頼ること
って、全然違うことだって思ってたんですよね。
でも実は
『【目の前】にいようと【見えない場所】にいようと、人は人なんだよ。』
って気付いてしまったら、申し訳ない気持ちになって、1時間程落ち込みました😞
サーセンシタァー(反省…とは)
また少し話の方向性が逸れるんですけど、そのことをきっかけに
『うん、セルフイメージって下手に持ったらダメなんやな!』
って、改めて懺悔の念に駆られたんです。
よく、
「潜在意識を活用して幸せな未来を引き寄せましょう~☆」
とか
「潜在意識を書き換えてお金を引き寄せましょう~☆」
みたいなことも言われてますが、
『圧倒的に、自分へのセルフイメージを無くすよう心掛けるところから始めるべきだな!』
って、強く感じたんですよ。
本っ当に、
「自分への"悪い(間違った)"セルフイメージを"良い"セルフイメージに変えましょう!」
っていくら言ったって、本人がそれを"悪い(間違った)"セルフイメージだと認識してなかったら、絶対書き換えられないんです。
そうじゃなくて、
「まずはセルフイメージを無くしましょう!」
って、フラットになるようにした方が効率良いと思いませんか?
「セルフイメージ、何もありません。」
っていう状態になってしまって、そこから【望む自分のセルフイメージ】を付け足していく方が簡単だし、上手くいきやすいと思いません?
そういう面で考えても、
『(私の場合)セルフイメージを徹底的に無くさないとダメなんだな!』
って、猛省したんです。他の記事でも沢山
「自分のことが見えてない人多過ぎる!」
って怒ってきてたんですけど、
『あ、私も、自分の見え方間違えてる部分まだ残ってるんやわ、きっと!』
って、観えたんですよ。やっと。
そして、
『あ、だから他人に対してあんなにイライラしてたんだね、納得納得😙~🎶』
って、色んなことが腑に落ちすぎて、解決し過ぎて、スッキリポンです。
【頼】
という漢字には、
[他人に責任をなすりつける]
っていう意味があるみたいです。やっぱり、"人"に頼るのはあまり良くないことのようですね。
自分1人で何でも抱え込むのもダメですが、人に頼るのではなくて、手伝ってもらえないか"交渉"できるようになると良いのではないでしょうか。
何より、"人"ではなく、宇宙など"天の存在"に頼れるようになるのが一番好ましいと私は考えているので、早く天界への依頼上手に私はなりたいです。
今日もまた色んな方向性に話が膨らみましたが、必要な部分だけお受け取りください。