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多様性エピソード0


前回の話ともかなりリンクするのかもしれませんが、
「世の中には様々な考えを持った人がいます。」
「多様性を認めていきましょう。」
と、近年ではよく言われていると思います。

が!

申し訳ないけど、それじゃ伝わらない人間の方が多いと私は思うんだよね。

「様々な人が…。」
「様々な意見を…。」
なんて、ザックリ、無限の可能性の元に伝えたところでイメージなんて湧かないから、結局
[自分と意見が異なること]

『相手は自分と意見が違うんだな。』
ではなくて
『相手が間違ってるからだ!』
って、決め付けにかかる結果になると思うんですよ。それがかつての日本の教育方針だったからね。答えに正解するか、間違ってるか、のたった2択で物事を考え続けてきた人たちにとっては、いきなり【多様性】なんて沢山の可能性を想定できないのが現実なんですよ。



まずは、世の中には
『自分と対極の考え方の人が必ず存在する。』
その点への理解から始めた方が良いはずです。

例えば、自分はピーマンを『不味い!』と思っているとすれば、世の中には必ずピーマンを『美味しい!』と思っている人がいる。

このレベルから見直すことが大事ですね。

「ピーマンは不味い食べ物だ!」
と、発言すれば、
「ピーマンは美味しい食べ物だ!」
と言ってる人も必ずいるのです。



人間って、自分と同意見の方が多いと勘違いしやすかったり、もしくは自分と同じ意見ばかりが目に入りやすくできているので、
「ピーマンは不味い!」
という発言に対して、
「同意!」
「いや、ピーマンは美味しいよ?」
と、賛同意見、反対意見、丁度半々あったとしても、賛同意見の方が多いように目に止まりやすいものです。

もう少し深いことを言えば、自分の意識が世界を創っているため、賛同意見ばかりが目に留まりやすくなるのは当然と言えば当然でもあります。ですが、自分の世界観を広げるために異なる意見が存在しているのもまた事実で、それらを意識して認識するようにしていくことで自分の世界観が広がるということですね。

まぁとにかく、賛同意見の方が多く見えてしまうものなので必ず
『まぁ、世の中には反対意見も存在するからな。』
と、我に返るように心掛けることが大切ということです。



いきなり
「多様性を認めましょう!」
と言うのは、
「ピーマンの最も好きな食べ方についての違いを理解し合いましょう!」
と、言ってるようなものなんですよね。

「焼きそばに入ってる細切りのピーマンは好きだけど…ピーマンの肉詰めは苦手なんだ。」
↑この意見は、
「ピーマンの食べ方の一部は「美味しい。」一部は「不味い。」」
と言っていますよね。

これは
「ピーマンは不味い!」
という意見に対して、賛同とも、反対とも取れるため、
「この意見は賛同か?反対か?」
という観点だけでジャッジしている人にとっては、判断付けられない意見になるのです。判断付かない意見が降ってくると、思考がフリーズしたり、無意識に無視してしまう人も少なくありません。

自分と異なる意見が世の中に存在していることを理解するために、まずは、
「ピーマンは不味い!」
と言っていても
『まぁ、世の中には反対意見も存在するからな。』
と構えておける心境

を整えておける人が増えることが大切です。正解か不正解か、なんて二元論の話ではないという点を真っ先に理解できていなければ、いくら「多様性」「多様性」と言っていても、あまり意味を成さないのです。

自分が提唱している
「ピーマンは不味い!」
と、いう意見が
「ピーマンは、どんな食べ方をしようと不味い!」
という意見である。

↑ここを理解できる人が増えなければ、多様性を認められる人も増えないのです。

ある意味、
[自分の好きな物や嫌いな物への解釈が自分の中で深まっていなければ多様性を理解できない]
という部分にも繋がってくるので、多様性を理解するためには物事への深い関心が必要になる場面もあるということですね。逆に言えば、深い関心のない物に対して[干渉しない]という選択を取れることも大事ということです。



若干話が逸れるのかもしれませんが、私は一般的()な人から見ると
『ちょっと変わった人…。』
とか、場合によっては
『頭のおかしい人…。』
と、いう風に見えているのかもしれない、と思うんですよ。ですが、私から見たら、凄く沢山の
『まぁとりあえずマジョリティに入っとけばそれで良い。』
みたいな感覚の人たちの方が頭がおかしいと感じてるんですよね。

本当に、
『世の中キチガイばっかりで、こっちが頭おかしくなるわ!』
みたいな感覚を持っていながら、
『はいはい、あなたたちの世界観はどうせ『みんなと同じ』が正解なんでしょ!』
っていうことも分かるから、私としてはどう立ち回るのが良いか、かなり悩むことが多かったです。

そんな感覚を覚えてる私にとっては、
『は?世の中の人間(特に年配の日本人)に【多様性】の感覚なんて理解できる訳ないじゃん!』
と、いう気がしてしまうんです。それでも世の中で、
「多様性。」
「多様性。」
と言ってるのも見掛けるため、
『いやいや、「多様性」とか言ってる奴らが一番多様性を分かってねぇやろ!』
と、モヤモヤしたりする訳ですよ。

何事においても、一言で集約しようとすることの愚かさに気付いた方が良いんじゃないでしょうか。この前の話に通ずることでもあるんですけど、

「「多様性!」
って、言って満足しちゃってない?」

って部分ですよね。もっと、発信する側が【多様性】への解像度を高めてから伝えないと、伝わらないんじゃないでしょうか。



どんな事柄においても、
『ジャッジしているのは自分でしかない。』
ここが基本です。

『不味い。』『美味しい。』なんて正に主観の問題でしかない事柄なので、明らかに
『『不味い。』とジャッジしているのは自分でしかない。』
って、振り返りやすいと思うんですよ。

ですが、それすらできてない人も物凄く多いんですよね。そういう部分からスタートしなくては、多様性への理解が進んでいかないのだと私は思います。



日本という島国で、しかも国外はおろか、都道府県すら越えなくてもそれなりの暮らしを繋げてこれた民族にとっては、いきなり【多様性】という概念はハードルが高すぎるのではないでしょうか。

「我々はみな、同じ日本人だ!」
って、一括りだと思い込みがちですが、現実問題、都道府県毎の県民性ってかなり違うし、それらの溝はなかなか深いと私は感じるんですよ。文化も結構違いますし、違うからこそ良いという部分も沢山ある訳じゃないですか。そういうのを上手いこと精査して、
「我々は、異文化が点々としながらも一つの国としてまとまりを持てる国なんだ。」
っていう認識にまで昇華できると、日本の良さは広がりを見せると思うんですよね。

そうなるためにもまずは、
『"自分が"これを『良い!』とジャッジしているんだ。』
と、主体的な感覚になることから始めると良いはずです。そうすることで、
『"自分が"『良い!』とジャッジしている。ということは、これを『良くない!』とジャッジする人も中にはいるだろう。また、別の物に対して『良い!』とジャッジする他人も確実に存在しているはずだ。』
と、考えやすくなるのではないでしょうか。

こんな風に考えられるようになれば、自分の好きな物・文化への誇り、他者が好きな物・文化へのリスペクト、上手く住み分けと共存ができるようになると思うんです。日本人の器用さ(悪い言い方をすれば八方美人みたいな部分)はこういうところで発揮すると活きてくると思うんですよね。



ちょっと話がごちゃごちゃしたかもしれませんが、

『自分の持つ意見は"自分の"主観なのだ。』

という基本の基本の部分から理解し直すことを始めていった方が、逆に多様性への理解が早まるはずなんです。特に日本人の
『みんな、一緒。』
といった一括りになりたがる(考えてしまいやすい)性質においては、この部分の見直しは必須のはずです。

【みんな】
という分子の状態から
【自分の】
という原子へと分解

してからでなければ、他の色々な原子の存在を確認しにくいし、新しいパターンで結合しにくいということですね。



多様性への理解は、色んな人にとって、凄く大事なことだと私は考えています。

多様性を認めるということは、【自分】を個として認められて初めて、別の意見の存在をも認められるようになるということだと思うので、ピンときている人は普段から意識してみると良いのではないでしょうか。

その上で、
『多様性を理解して、沢山の意見を受け止められるようになる。』
のも広い意味では大事なのかもしれませんが、まずは、
『多様性を理解して、自分と異なる意見の人を傷付けないように配慮できるようになる。』
こっちの方がよっぽど大切だと、気付ける人が増えると良いですね。多様性への理解の必要性というのは、
『全ての意見に理解を示さなければならない。』
ということではなくて、
『異なる意見同士が上手く住み分けられるようになる方がより多くの人にとって生きやすい社会になる。』
のだという点を見失わないでいられる人の数が増えると良いなぁ、と祈ってます。

『全てを理解して、受け止めよう。』
とせずに、
『理解を示せる部分には理解を示すけど、理解が難しい部分には深入りしないように一線を画す。』
こういうある種のドライさも気遣いや配慮の内だったりするものです。

『合わせ過ぎなくても共存できる。』
という認識が幅広く伝われば、生きづらい人が減らせるはずです。各々の程よい自立、程よい放置が成り立つ社会になりますように。

🌬️空想話🎈



現代でこそ、
「日本は1つの国。都道府県は一応分かれてるけど、みんな同じ国民。」
っていう感覚の方が当たり前だと思いますが、かつて、
『都道府県それぞれが1つの国』
のような感覚が強かったんだったんだろうな、ってたまに感じるんですよね。田舎であればある程、未だに排他的な感覚が強かったりもするし、文明が進んだことで逆に
『わざわざ都会に出なくても地元である程度何でも揃うから…。』
と、移動の必要性があまりなくなったのも事実だったりするし、それぞれの都道府県の文化同士って意外と交ざり合ってなくないですか?

別にそれが悪いことだとは思わないし、むしろ違うから旅行なんかが楽しいんだと思うから、文化を交ぜる必要はないとは思うんですよ。ですが、私は地域毎の性格の違いも顕著に存在してるように感じてて、この辺の均等化はもうちょっと進んでも良いんじゃないかなぁ?なんて思うんですよね。

地味~に、
「○○県ではこういう話、話し方は嫌われやすい。」
とか
「△△県で言う「XX」とは意訳すると「◇◇」と言う意味だから間に受けてはいけない。」
みたいなの、ありません?そういう、地味な文化(性格)の違いが減ったら、
「釣りが好きだから、もっと海に面した土地に住む!」
とか
「ウィンタースポーツが趣味だから山に囲まれた土地に住む!」
とか、適材適所な拠点探しもしやすくなる側面があるんじゃないかなぁ?と思うんですよね。そういう観点で居住区を選べる人が増えるっていうことも、人手不足とか少子化の対策に間接的に繋がってるんじゃないでしょうか。

私だけかもしれないんですけど、
『あ~。この土地、凄い好きだけどここらへんの人たちの性格嫌いだからここには住みたくはないな(笑)』
みたいなのをちょいちょい体感してて、もうちょっと感覚の均等化が進んでも良いんじゃないかと思うんですよね。難しいとは思いますけど!

『1人で住む分には良いけど、この地域で子育てはしたくないなぁ。』
とか、
『こういうライフスタイル送るならこの地域が良いけど、仕事変わるとなったらちょっと違うんよなぁ。』
とか、
・その土地の特性
・その土地に住む人の気質

双方が自分にマッチすることって少ないと思うので、せめて気質の部分の差が全国でもう少し統一されていくと、移住を視野に入れられる人の数が増えるんじゃないでしょうか。



まーた、風が吹けば桶屋が儲かる的な話なんですが、仕事、及び趣味、余暇の充実恋愛、結婚生活等々って、まぁまあま深い繋がりがあると思ってて、社会の発展には趣味や遊びを共有できる人同士が近場に住んでる、って、まぁまぁ大事なことのはずなんですよ。

「うちの県はこういう特性があって、こういう趣味を楽しみたい人に向いてます!」
「うちの県はこういう楽しみ方をしやすいので、一度遊びに来てみてください!」
みたいなアプローチを色んな地域で盛んにできるようになると、人も、仕事も、趣味も発展させやすいじゃないですか。そこで【県民性】【気質】が邪魔にならない状態になることが大事だよなぁ、と、私は感じてるんですよね。

溝の埋め方は分かりませんけど!



まぁでも、本文に書いた通り、
『こんな風にジャッジしてるのは、自分でしかないんだな。』
って、まずはそこに気付いて、
『「XX」って言われて『◇◇』って捉えるのは、自分の勝手な解釈でしかないよな。』
みたいな部分に気付ける人が増えていくと、地味な性格の不一致っていうものが減っていくのかなぁ?とも思います。県民性の溝も浅くなっていくのかなぁ、と。

他の人がどこまで県民性について気になるところがあるのかは私には分かりませんが、私個人的にはもう少し都道府県毎の人々の感覚の違いが埋まると良いなぁ、と思った話でした(笑)



すんごいどーでも良いけど、私は青森とか岩手らへんの薄い感じの男性の顔立ちが好き過ぎるから、ちょっとその辺に住んでみたいよね。車持たなくても住めるような所はあるのだろうか🤔何となく車必須な地域そうなんだけどどうなんだろ?雪とか大変そうだし。

薄顔の王子様探しに行ってみようかな(笑)

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