昔、「先生」はアーティストだったのかもしれない
こんにちは。
子どもの未来のための、大人の学び場
NPO法人 NAGOMI MIND 代表の塚田ひろみです。
この夏、私は、長きに渡り表現教育を大切にされてきた、とある幼稚園での研修に参加させていただきました。
どういうわけか、人間というものは歌い、踊り、ストーリーを演じることが好きなんだと、身を持って納得せざるを得なかった。大変楽しい時間でした。(「そんなことない!」という方も、その渦中に入ってしまえば楽しいのだと思います。<嫌だ>というより<怖い>ですね。
何より驚いたことは、先生たちの身体性・感性・協働し研究を重ねる組織としての力。どこかのダンスのカンパニーや劇団に所属していると言われても、全く違和感がない。そのような先生たちが一人、二人ではなく何人もいらっしゃる。
そのような環境に身を置き、「先生という存在は、その昔、アーティスト/芸術家だったのではないか」そんな考えが頭をよぎったのでした。
素晴らしい表現教育の現場には、演出家も舞台監督もいる
その素晴らしさは、個々人のことにとどまらず、そこで働く人間同士の協力・協働という組織力にもあります。
年長者は演出家、あるいはドラマトゥルク(耳慣れない言葉だと思いますので説明はこちらより)のように、歴史・研究の積み重ねを大切に伝え、これまでの教育活動の蓄積から導かれた、教育(表現)の方針に説得力を与えています。
一方で、年齢とともにどうしても自分自身が動き、伝えるということが難しくなるものです。一回り下の世代の先生がその部分を買って出ながら、舞台監督のように現場を仕切ることができる。
そして、様々な世代の先生たちがいらっしゃるのですが、その誰が次の舞台監督になっても、なんの違和感もないような、安定感・安心感を感じる組織でした。
幸いなことに、最近私はプロの芸術家の方々の舞台を、裏で支える仕事もさせていただいています。そこで見聞きする制作の様子を思い浮かべながら、ここは、本当に劇場であり、稽古場であり、小さな子どもたちの学びと表現についての研究機関でもあるのだと感じました。
総合芸術=演劇という舞台に向かって
演劇は、【総合芸術】と言われているそうです。
「それって、どういうことなのだろう?」と、役者さんに尋ねたことがありますが、「音楽、美術、演技、すべてが含まれている、ただそれだけですよ。」といったお答え。
その時は「そうなのか、私が考えすぎだったのかな?」と感じたものですが、これはかえって、幼児教育から考えたほうが分かりやすいのかもしれません。
舞台で歌うこと、踊ること、演じること、音楽を奏でること
舞台で用いる衣装や装置・装飾をつくること
そのすべては、幼児教育を通した日々の生活に含まれています。
逆に、そのすべてを行うことにより、演劇を可能にする言葉も身体も、想像力や感性や道具を使う力も育っていく、ということでもあります。
園(幼稚園や保育園やこども園)にやってきた子どもたちは、総合芸術という舞台に立つことを1つのマイルストーンとして、歌い、何かをつくり、外を走り回り、心と身体をよく動かして過ごしている。もちろん、遊びながら。(私は、演劇は究極の遊びだと思っています。)
これは「遊びが学び」という、1つの形
何か特別な時間を作って、習得させなくても良い。生活の流れの中に、「ここは、体操の時間です」と枠を作らなくてもいい。遊びながら踊ることで、体操教室と同じだけの身体性を得られるならば、流れを分断しない方が、楽しくて効果的です。
それが、日本が大切にしてきた幼児教育の一つのエッセンスですね。と、体感できました。
【著者】塚田ひろみ
NPO法人 NAGOMI MIND 代表理事
保育士・幼稚園教諭・セラピスト
心と身体|大人と子ども|科学とアート|医学と心理学|都市と自然・・・
見えにくいものと見えるものをつなぐことを通して、
人間社会の成熟・進展を形にするために活動中。