『嫌われる勇気』第二夜🌙~すべての悩みは対人関係~
『嫌われる勇気』
(岸見一郎、古賀史健/ダイヤモンド社)
ウザイ企画が始まった!
私は本を読むときに、線を引いたり、感じたことを余白に書き込むタイプです。今回はそれをnoteに書き込んじゃおうというウザイ企画を思い付いてしまったので、実行させていただきます。
この記事をお楽しみいただくために…
この記事は、実際に今この本を読んでいる方に向けて書いています。イメージとしては、「あなたは『嫌われる勇気』を読んでいる。その隣で私も同じ本を読んでいて、事細かに感想を言ってくる」という感じでしょうか。
そのため引用はごく一部分だけとなっております。実際に本を片手に読み進めながら、まるで一緒に読書しているかのような感覚をお楽しみいただけたら幸いです。
では、まいりましょう。
『嫌われる勇気』第ニ夜🌙
われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」(p76)
主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということ(p77)
155㎝を「低い」「劣っている」と思うか、「人をくつろがせる」「他者を威圧しない」と思うかは自分で選ぶことができます。
客観的な事実に対して、プラスの意味付けをするというのは、すぐにできる人もいれば、なかなかできない人もいるんじゃないかなと思います。
たとえば身長について「この身長だからこそ人をくつろがせることができる」と思おうとしたとします。でも今まで何十年も「劣っている」と感じてきたことを急にプラスに変えるのは難しい気もします。「言い訳」「負け犬の遠吠え」とさらに自分を追い込んでしまう場合もあるんじゃないかなと。
無理矢理プラスの意味付けを受け入れようとしても、本心からそう思えなければ意味がないと思うんですよね。
でもアドラーは原因論ではなく目的論推しの心理学者。人はプラスの意味付けを与えて幸せになることは必ずできるはず!
少しずつでもいいから「思考のクセ」を、プラスモードに変えていけたらいいですよね。最初は違和感があっても、きっと段々プラスな面を素直に受け入れられるようになると思います。
人は(中略)無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。(p79)
普遍的な欲求だと聞いてなぜか少し安心しました。私はいつも自分の現状には満足できなくて「もっとこうなりたい(ならなければ)」といつも考えているのですが、それが変なことではなく、普通なんだなと思えたからかもしれません。
ちなみに「こうなりたい」の具体的な内容を一部ご紹介。
・常に穏やかな心でいる
・誰に対しても平等に接する
・論理的に考える
・前向きな思考・行動
・自分を愛する
優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である(p80)
今書いたような「こうなりたい」という優越性の追求は、私の劣等感から生まれているなと感じます。次は劣等感について具体に書いてみます。
私は社会人になるまで「自分の軸」がなく、その時々の自分の感情やまわりの環境に流されて生きてきました。当時の私にとってはそれが当たり前の状態だったので、その状態が悪いとかはあまり思っていませんでした。
ただ、生き辛かった。
まわりの評価に怯えたり、自分の選択を後悔したり、自分を好きになることができなかったり…
今は自分軸をもっていて以前よりかなり生きやすくなりましたが、そんな私にとって「過去の自分」は大きな劣等感として今でも存在しています。「自分の軸を持つことの大切さをもっと早く知りたかった」「これからももっと成長して、よりよい人間にならなければ」という思いが強いです。
どれだけ努力したとしても、私は完璧な人間になることはできないのだろうけど、今の私を良いと言ってくれる人がいるのも事実。(その方々には感謝of感謝です)
それはその人にとって私が完璧なわけではなくて、今まで積み上げてきたものや、さらなる成長に向かって努力している姿を認めてくれているんじゃないかなと思っています。
そういう人と一緒にいることで、「私が目指すベクトルは間違ってない」「もっと頑張ろう」と思えます。
「ありのままの自分でいること」で、「そんな自分を応援してくれる人」が集まってきて、「自信を持って前に進める」ようになる、というプラスの循環の中で生きていけたら素敵ですよね。
いま享受している楽しみ ーたとえば遊びや趣味の時間ー を犠牲にしてまで、変わりたくない。(p83)
厳しい言い方ですね。グサッときます。
別に遊びや趣味に時間を注ぐのは悪いことではないけれど、「変わりたい」と思っているならそれなりにやり方を変えなければいけないですよね。
ほんの一歩でも前に進めば、見える景色は確実に変わる。勇気を持って前に進みたいですね。
強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。(中略)あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。(p86)
1.健全な努力
2.劣等コンプレックス
3.優越コンプレックス
この3つの対処法のうち、自分がどこにいるかを冷静に判断しないといけないなと思います。もちろん「1.健全な努力」が一番(唯一)いいのですが、本当の自分と向き合うことから逃げてしまうと2のように言い訳してしまったり、3のように偽りの優越感で自分を着飾ったりしてしまいます。
2の状態の時は努力しなくて済むし、3の状態の時は一見良い気分になれてしまうので、客観的にその状態の自分に気付くのは辛いですよね。でもそこでちゃんと気付いて1に軌道修正しないと、結局は何も変われないままになってしまいます。
劣等感が強いからこそ、自慢する。(中略)そうでもしないと、周囲の誰ひとりとして「こんな自分」を認めてくれないと怖れている。(p88)
先ほどの「優越コンプレックス」の例として次の3つがあげられています。
・権威づけ
・自慢
・不幸自慢
自分がやってしまってるなぁと思うレベルを点数にしてみました。
・権威づけ(0点)
・自慢(20点)
・不幸自慢(80点)
バラつきがあり過ぎですね。不幸自慢は、ひたすら「体調不良」に関するものです。
ここ数ヶ月、原因不明の体調不良に見舞われている私。恋人、家族、友人、会社の人…多くの人に迷惑と心配をかけています。
いつも申し訳ない気持ち山々なのですが、体調が悪いときは自分のことで頭がいっぱいになってしまい、余裕をなくしがちです。そして「自分はこんなにも体調が悪いのだ」と訴えて、不幸自慢をしてしまっているなと思います。
これは大いに反省。
ただ言い訳をさせていただくと、体調不良、とくに原因不明のときって「この苦しみはずっと続くんじゃないか」って毎回本気で思ってしまうんですよね。
この根本的な考え方を改めたいっていうのと、そもそも健康であればこんな悩みは発生しないので健康に留意したいと思います。(何の話?)
哲人「同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。」(p91)
青年「前を進む者はより優れていて、後ろから追いかける者は劣っている」(p93)
哲人「前を歩いていようと、後ろを歩いていようと関係ないのです。いわば、縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。(中略)いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある」(p93)
最初ここを読んだ時、実は私も青年と同じような感想を持ちました。さらに「平らな地平」というのもなんかしっくりこなくてうまくイメージが湧きませんでした。
ここで別の本から引用
必ずしも頂上まで到達する人だけが偉いわけではありません。「この山は7合目の景色が最高で、山小屋のご飯がうまいんですよ」といった情報を伝えられる人にも価値がある。(中略)どちらがすごいか競うのではなくて、「どっちもいいよね」とお互いの違いを認め合える世界の方が、ずっとヘルシーでピースフル。『Be Yourself』(p94,95)川原卓巳
これを読んで私の中でしっくりきました!
最初は何もない平坦な地平を想像していたのですが、そうではなくて地球というデコボコした星の表面で、気温も文化も異なる多様な場所をイメージしました。
場所や環境は一人一人違う、さらにそこに存在する人の個性も一人一人違う。
そんな中で、一つのものさしではかる競争に意味はあるのか?
たとえば富士山に登った人に対して「私はエベレストに登ったから私の方が優れている」と言ったとしても、富士山の景色は富士山だけのものだし、山の好みも人それぞれで、高さを好む人もいれば形を好む人もいるし、途中で出会う動植物を好む人もいます。
みんなそれぞれ違う環境や個性の中で、唯一指標になるのは「自分」なのだと思います。今までの自分より成長できたなら、それこそが「優越性の追求」であり、「幸せ」なのだと思います。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。(p95)
他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できない(p98)
人の幸せを自分のことのように幸せに感じられたらどれだけ素敵な人生だろうと思います。
これってできてる人どれくらいいるんですかね?
たとえば、同じように結果を出してきたはずなのに同期だけが昇進した、自分は恋人が欲しくてもできないのに友達には恋人ができた、自分は不妊で悩んでいるのに目の前の見知らぬ女性は幸せそうに大きなお腹を抱えている…。
こういう状況で嫉妬してしまって、素直に相手の幸せを喜べないことって往々にしてありそうじゃないですか?
たとえその同期が昇進しなかったとして代わりに自分が昇進したとは限らない。友達に恋人ができたことと自分に恋人ができないことも因果関係はない。妊娠も同様。
頭ではわかっているんですよね。
素直に喜べない自分に対しても「自分は心のせまい嫌な奴だ」と感じて自己嫌悪に陥ったり…。
そうならないために、私は次のどれかの考え方をするようにしています。
①引き寄せ風
「あの人が幸せになったということは、次は自分の番かもしれない。いい流れを運んできてくれてありがとう!」と思う。そうすれば引き寄せの力が働いて本当に自分の番になる可能性も高まるはず…!
②新興宗教風
「地球を一つの生命体として考える」という何とも説明しづらく、少し新興宗教的な匂いが漂う考え方。(決してそうではありません)
誰かが死んだらその身体は粉々になり、エントロピーの法則(←この言葉使ってみたかっただけ)により、地球上に散らばり他の動植物の栄養になる。そこからまた新たな命が誕生している、と考えると自分と他者の境界って曖昧で、実はみんな繋がっているとも言えます。他者を私の一部だと思えば、他者の幸福を自分のことのように喜べます。
③アドラー風
これはアドラーの教えに一番近い考え方かなと思います。
たとえば自分がサッカー選手だとしたら、他のサッカー選手の活躍には嫉妬したとしても、将棋の藤井聡太さんに嫉妬することはないと思います。なぜなら全然違う競技だから。
でもこれを同じサッカーにも適用するんです。自分がJ2の選手だとして、J1に上がった選手がいたら嫉妬するかもしれません。でも人それぞれ体格や性格が違うし得意・不得意も違います。「サッカーと将棋」を比較しても仕方ないのと同じ。成長のスピードも異なって当然なわけで、自分には自分の、他者には他者の成長があるのだと割りきる。
以上3つです。参考になれば幸い…。
世界を危険な場所だと思うこともなく、不要な猜疑心に駆られることもなく、世界は安全で快適な場所に映ります。(p99)
これは精神的なことについて語っているわけですが、私は物理的にもこれはすごく大切なことだなと思うので、ちょっと書かせていただきます。
海外旅行に行くときって「財布が盗まれた時のためにお金は分散して持とう」とか「鞄は体の前で持とう」とか色々注意を払わなければなりません。治安のいい国に住んでいる日本人からするとこれはものすごくストレスです。
以前、海外の街を歩いていて道がわからなくなったことがありました。友人と地図を眺めていると外国人が「どうしたの?」という感じで近づいてきました。
私はたどたどしい英語で状況を説明し、その外国人も一生懸命私たちに教えてくれました。「Thank You!」と言って分かれた後、海外慣れしている友人が「チップを要求されると思ったから逃げたかったけど、あなたが真剣に話してるから逃げれなかった。結果的に要求されなかったから良かったけど」と言われました。
そんな発想がまったくなかったので私はびっくり。と同時に海外に対する考え方の甘さを教えてもらいました。
でもでも、これこそ「不要な猜疑心」と呼びたい 。今は無理でも、これからは不要だと言える社会にしたい。だって、ただ道を教えてもらうだけでいちいち相手を疑うなんて疲れるし、せっかくの親切心を拒否するなんてもったいないじゃないですか。
治安がいいことで得られる精神的な利益は計り知れないし、防犯対策の費用もなくなるから経済的な利益もあります。
そして費用の話で言うと、世界各国の莫大な防衛費。これについても戦争や紛争、見栄の張り合いがなければ0円にできるんですよね。その分のお金を他のことに使えたら、社会はどれほど豊かになることでしょう。
「戦争のおかげで経済が成り立っている」という人もいるかもしれません。でも、銃の代わりに他のものを作ればいいだけ。
以前、アメリカのある女性のインタビューをテレビで見ました。その方は軍服を作る工場で働いています。そして息子は軍人。「米軍を誇りに思っているし、その軍人を支えているこの仕事にも誇りを持っています」と答えていました。
自分や自分の家族が携わっていることって無条件で肯定したくなるんじゃないかなと思うんですよね。気持ちはすごくわかります。
でも、その気持ちが国や軍に利用されているとしたら悲しい。戦争を肯定する風潮に加担させられるのは悲しい。
経済をまわす手段は戦争以外にもたくさんあるので、もっと平和で効率的な方法を広げていった方がみんな幸せになれるんじゃないでしょうか。
余談が長過ぎました。笑
失礼しました。
誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。(中略)競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができる(p108)
自分がより良く成長することが私の人生の目標であり幸せです。(優越性の追求)
自分の誤りに気付き認めることは、自分がさらに成長した証なので喜ばしいことと言えます。他人と比較して、負けたとか恥ずかしいとかは気にする必要がないんですね。
実際、自分の誤りに気付いて素直に直せる人って素敵ですよね。逆に意地になって自分を正当化しようとする姿は真似したくないなぁと思ってしまいます。
あなたという若い友人を手に入れることができました(p115)
これは高等テクニックですね。
相手から「友人」と言われたら「あ、友人と思ってくれてるんだ」と嬉しくなるし、自分も相手のことを友人だと思うようになりますよね。
この方法、仕事や恋愛でも使えそう…。
アドラーは、相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。(p116)
私も恋人には束縛はしません。幸せでいてほしいので。
恋人が幸せであることと、私が幸せであること。この2つが大事なわけですが、一緒にいることがお互いにとって幸せだから付き合っているのであって、相手が浮気をする(他の人と一緒にいる方が幸せ)なら私とは別れてその人と結ばれてほしいなと思います。
「浮気されたら別れるだけ」という明確な答えを持っているからこそ、「浮気されたらどうしよう」という不安はないし、束縛という手段で相手の幸せや心の自由を奪うようなことはしません。
『嫌われる勇気』第ニ夜🌙をお読みいただきありがとうございました。第三夜でまたお会いしましょう。
貴方にこの記事を読んでもらえたおかげで、今日は私にとって素敵な1日になりました。貴方にとっても、今日が素敵な1日でありますように…☆
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