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安定を求める本能から、人は逃げられない
子どもの頃、庭にある木に鳥が巣を作ったことがあった。
興味本位で葉っぱをかき分けてのぞいたその時に、母鳥が帰ってきて、私とご対面となった。
母鳥は私の存在に驚き、聞いたこともないような甲高い声で威嚇した。
数日後、巣がある木に行ってみると、もう鳥の気配は無くなっていた。
警戒してどこかに引っ越してしまったんだと思う。
こちらは無害な観察者のつもりだったのに、母鳥にとっては危険な侵入者でしかなかった。
人間と野生動物の越えられない壁を感じて、寂しくなったのを思い出す。
(実際はうちの庭なので、鳥の方が侵入者なのだけれど)
大人になり、母鳥の気持ちが少しわかるようになった。
誰にも侵されない安心できる巣で卵を産み、ヒナを育てたいという本能。
母鳥の本能はとてつもなく強いものだったのだと思う。
完成間近の巣を放り出して引っ越してしまうぐらいに。
鳥であれ、人であれ、
安心や安定に対する本能は強いものだ。
そして、その本能は間違いなく私の中にもある。
安定とはほど遠い人生を自ら選んでしまった私の中にも。
その本能は、「思い切った選択」をするたびにチクチクと私を内側から刺してくる。
そして、これからの人生も、その本能をこっそり抱えて生きなくてはいけないのだろう。
そんな私は、
冒険をしたくてもできない人や守られた立場にいたい人を否定できない。
なんとなくその気持ちを想像できるから。
でも、完全に理解するのは難しい。
私はその選択をしないから。
とはいえ、
今後も多くの「共通の本能を持ちながら自分とは対極の選択をする人たち」と出会うだろうし、
むしろそちらの方が多数派で、「まっとうな選択」なんだと思う。
自分と対極の選択をする人たちとどのような言葉で語り合っていくべきか、
そして、自分が自分の生き方と異なる本能を抱えているがゆえに生じてしまう葛藤とどう向き合うべきか。
答えが出るまでにちょっと時間がかかりそうだ。