夢や好奇心は火であり車であり包丁である
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夢や好奇心と聞くと一般的にはポジティブなイメージを想起するのではないだろうか。
特に最近では、夢を持つものを応援することが人として正しい振る舞いであるとする風潮が広まり始めているように感じる。
しかし、夢という言葉を聞いたとき釈然とせず現実の困難さや平凡の美しさを説きたくなるものも必ず存在する。
それでは、どちらの考えが正しいのだろうか。
私の持つ答えはそのどちらも正しくないというものだ。
それはどういうことか。
まず第一に、考えの正しさを吟味する際の基本的な発想として
極端な2者択一ではなく、その中間や両者を含むことを考慮するということが有用になる。
なのでそもそもどちらが正しいのかというプロセス自体に脆弱性がある。
つまり、好奇心を持つことも好奇心を否定することも、そのどちらも良いところと悪いところを当たり前に持ち合わせているということだ。
その上でどこに結論を置くのか。
それは、好奇心とは発想や志向、感情や考えではなく「道具」であると捉えるべき、というものに着地する。
それもその「道具」とは、便利だがその分危険性も含む「道具」というものだ。
例えば、火や包丁は、あれば料理などに役立つが間違いを犯せば怪我などに繋がってしまう道具であり、好奇心も同じ性質を持つ「道具」だということだ。
もし、夢や好奇心を持つことを無条件に肯定した場合、足を踏み外して滑落してしまう危険性を増加させるし、脱サラして蕎麦屋を開業したが倒産して借金だけが残ってしまった人の存在を活かすことができなくなってしまう。
しかし、それらを持つことを完全に否定した場合、人生を豊かにする機会を失ってしまったり、他者への理解を持つことの障壁を生み出してしまうことがある。
逆に、前者には人生や社会に豊かさをもたらす力もあるし、後者には不必要な危険性を減少させる力もある。
だからこそ、好奇心を「道具」としてとらえるべきということを主張する。
それは、その「道具」の使い方や、使う上でのルールを知る必要があるということだ。
例えば、車を利用するには交通ルールを利用するべきだし免許が必要だ。
そうすることで、損失と比較して十分に利益を獲得することができる。
したがって、好奇心は良い悪い考えるのではなく、好奇心を「道具」と捉えてその便利な「道具」を使うためには、使い方とルールを与える必要があるということだ。
もし夢を語るものがいたときは、怪我をしないために「道具」の使い方を教え、
もし好奇心を持たないものがいたら、その「道具」の豊かさを伝えるということが、
無責任に夢を応援できる自分に浸ったり、過度に豊かさを排除してしまうことよりも、
妥当で健全な正しい振る舞いなのではないだろうか。
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