ナギサ【エッセイ】

普段頭の中でしか存在していないものを、どうせならこのアカウントを見つけてくれたあなたに共有したいと思いました。これは哲学だと定義したら哲学ではなくなるのが哲学なんじゃないか、と。

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「正解なんてないもんな」

何かを相談したときやこじらせがちな自分が意見 を伝えたときにそう言ってくれる友だちがいる。 しかし、口では人それぞれだと言っていても本心 からそう思えていない人もいる。 正解なんてないと思えている人と関わる方が自分としては圧倒的に関わりやすくその友だちは信頼している。 でも、その言葉に対する「それは、正解という言葉自体をどう定義するかによるけどね」という自分の意見はいつも言わずに飲み込んでいる。 友だちは、例えば人生のような複雑な物事において、どんなときでも誰にでも当

    • 主語がデカくてもいい!

      主語がでかいのは良くない!という言説が流行り出してからそれなりの時間が経ったと思います。 最初は、男なら女ならこうあるべきだ、という考えを否定することをきっかけに始まった気がします。 当時は自分も、大きな主語を押し付けられることに嫌な感情を覚えていました。 でも今は違います。いや、違くはないんですが昔よりもより詳細に理解できていると思います。 結論としては、主語はデカくてもいい!ということです。ただし、条件が必要ですが。 答えを定義することに関して書いたnoteがあ

      • 結論と結果は別!

        しばしば、結論と結果を混同してしまう人を見るので、ここでの意味になるがそれぞれの意味を整理しておく。 結論とは、取りうる選択肢のそれぞれの期待値だということにする。 例えば、わかりやすく確率で例えるが、それぞれの目が出る確率が同様に確からしいサイコロがあるとき、この状況における結論とは、それぞれの目が出る確率はそれぞれ6分の1だということだ。 結果とは、その選択肢を実際に選択した後の具体的な数値のことだ。 例えば、先述したサイコロを振った結果、実際にどの目が出たかとい

        • 老害だと人を定義する人も同様に、その本人が"老害"だと定義される可能性がある。なぜなら"老害"の本質とは文化的相対性を認めず自身とその周辺にしかない価値観のみを唯一の正解だとしてしまうところだからだ。人を差別主義者だという人もまた差別主義者に陥りがちなように

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        「正解なんてないもんな」

          人が終わり方を選べることは当然のことなのか。

          人は根源的に自由であるというならば、人が権利を持っていることが当然だだというのならば、この世からいなくなる権利もあるはずだという意見を聞いたことがある。平たく言うと安楽死する権利、終わりを選ぶ権利が人にはあるというものだ。 しかしそもそも、人が権利を持つこと、人が権利を行使できることはいわゆる当たり前ではないと考える。(根源的な意味で権利が人にあるはずだという議論は今は除くが。) 今日当たり前とされている権利は、歴史を構成した人たちが文字通り勝ち取ったものであり、その権利

          人が終わり方を選べることは当然のことなのか。

          結局世の中はまともだと思う。抜本的な改革より現実的な解決だし、やることやったら救われるし、サボったらしんどいし。それが私にとって希望でもあり諦めでもあると感じる。

          結局世の中はまともだと思う。抜本的な改革より現実的な解決だし、やることやったら救われるし、サボったらしんどいし。それが私にとって希望でもあり諦めでもあると感じる。

          鬼滅の刃ネイティブ

          ネイティブという言葉は特に、母国語によく使われる。 例えば、日本語のネイティブとか英語のネイティブとか。 でも、それだけではなくその人が慣れ親しんだ文化に対しても使われることがある。 幼い頃からインターネットがある環境で生きている人はインターネットのネイティブだ、とか。 アニメや音楽といったサブカルチャーも、当然文化を構成するのに大事な要素だ。 サブカルチャーの範囲の中でもネイティブが存在する。 特に鬼滅の刃は日本人的精神や感覚をとてもうまく表現している作品だと思

          鬼滅の刃ネイティブ

          気を使わない関係がいい!のか?

          友だちや恋人、家族を選ぶときその関係は気を使わないものがいいという話を聞いたことがある。 たしかに、長い時間を共にする人とは気を使わず、楽で無言でも苦にならない方がいいという意見もわかる。 しかし、私の理想はその逆だ。親密な関係の人たちにこそ自分が持っている労力の多くをさきたいと思っている。 それは当然ではないだろうか。 もし親密な人と気を遣わなくていい関係を持ちたい理由が、長い時間を共にするのに大きな労力をかけてしまったら大変だから、であるなら逆に親密な関係を築きたい

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          【短編小説】綺麗めなカフェに思い切って入ってみる。カフェの中の全体が…

          綺麗めなカフェに思い切って入ってみる。 カフェの中の全体が見えるような1番奥で、1番角の席に座る。 空間の中心にいるよりも、全体を眺められるような外側にいる方が安心するからだ。 他のカフェを利用するときと同じように席に座り、同じようにブラックのアイスコーヒーを頼む。 コーヒーが来るまでの間手持ち無沙汰にしていると、華やかな女性2人が会話しているのが目に入る。 「やっぱ人と話しながら食べるご飯が1番美味しいよね!」 「わかる!1人で食べてても味しないんだよね」 2

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          あなたのためを思って、と言ってはいけないし思ってもいけない

          あなたのためを思ってと言うとき、大抵は自分のためを思っている。 口出しをすることや手出しをすることを我慢できない自分を 擁護するための免罪符であり、正当化するための大義名分である。 本当に相手のことを思っているなら、関心があるなら、相手に言うのではなく相手に聞くのではないだろうか。 それなのに、相手に口出しをするというのは、こうあるべきだと考えている自分に焦点が当たっていて、相手を思っている、すなわち相手に焦点を当てているということと矛盾している。 あなたのためを思ってい

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          人生を変えるには、人、旅、本という幻想

          ※この記事は3分で読めます。 人生を変えるには、人と会う、旅をする、本を読むということが重要だという言説を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。 しかし私はこの言説は人にとって心地の良い言説でしかないと考えている。 今の現状に不満を持っていたり漠然と将来に期待や不安を持っている人たちにとってこの言説は、人生を好転させるためのわかりやすい手段として耳ざわりがいいものでしかないのではないだろうか。 そもそも人生というものは、多くの要素が絡み合い複雑で曖昧なものであるとす

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          夢や好奇心は火であり車であり包丁である

          ※この記事は5分で読めます。 夢や好奇心と聞くと一般的にはポジティブなイメージを想起するのではないだろうか。 特に最近では、夢を持つものを応援することが人として正しい振る舞いであるとする風潮が広まり始めているように感じる。 しかし、夢という言葉を聞いたとき釈然とせず現実の困難さや平凡の美しさを説きたくなるものも必ず存在する。 それでは、どちらの考えが正しいのだろうか。 私の持つ答えはそのどちらも正しくないというものだ。 それはどういうことか。 まず第一に、考えの正しさを吟

          夢や好奇心は火であり車であり包丁である

          「おいしい」は"幸せ"か?

          みなさんにとっての幸せとは何でしょうか。 幸せとは何なのかについていくつかの選択肢があると思いますが、 その中の一つに「おいしいご飯を食べること」があります。 ですが、私にはそれが納得できません。 それはなぜか。「おいしい」というのは、本来手段であって目的ではないと考えるからです。 元来食事というのは人間が生活していくために必要な栄養を摂取するためのものであるはずです。 ということは、「おいしい」というのは人間が生命活動を行う上で必要な栄養を十分な量摂取するため、 その物体

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