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「おいしい」は"幸せ"か?

みなさんにとっての幸せとは何でしょうか。
幸せとは何なのかについていくつかの選択肢があると思いますが、
その中の一つに「おいしいご飯を食べること」があります。
ですが、私にはそれが納得できません。
それはなぜか。「おいしい」というのは、本来手段であって目的ではないと考えるからです。

元来食事というのは人間が生活していくために必要な栄養を摂取するためのものであるはずです。
ということは、「おいしい」というのは人間が生命活動を行う上で必要な栄養を十分な量摂取するため、
その物体が自分にとって良い影響を及ぼすことができるもの(食べ物)かどうか判断するため、
の道具であると考えることが自然です。

ということは、人間にとっての本質的幸せとは「栄養」であって「おいしい」では無いのではないのでしょうか。
それなのに、本来道具である「おいしい」が目的であり、
それのために食事を取ろうとすることに納得ができません。
その物体が「おいしいもの」であるとき、
それが自分の体にとって良い影響を及ぼす「食べ物」である確率は高くなりますが、必ずしもそうとは限らないし、
それが「まずいもの」だったとしても自分の体に良い影響を及ぼすこともあります。

それなのに、「おいしい」を目的にするということは、
それが「良い食べ物」なのかを判断することを、
本能を使って処理を簡素化した矛盾を含むバイアスのようなことなのではないかと考えています。
それは論理的矛盾を含むものなので納得ができないということです。

しかし、ここでの言説の結論というのは、
仕事としての(栄養を摂るための)食事と、
趣味としての(「おいしい」のための)食事があり、
食事というものを少なくとも2つには分類することができるというものでしかなく、
"幸せ"を判断するための道具として事実を土台にする場合
「おいしい」を"幸せ"にしてはいけないが、
認識という意味での主観を道具として使うことを許容するなら
「おいしい」を"幸せ"とすることもできると定義するに留まります。

しかし、"幸せ"とは"感覚"なのではないかとも考えています。
なので、たとえ論理的矛盾を含んでいたり正しくないものだったとしても
"幸せ"という"感覚"がそこにあるということがより重要なことなのかもしれません。

なので、私自身や私と同じような考えを持つ人たちに納得をもたらすためには、人間にとって、もしくは人間にとってというものを外して、
そもそも"幸せ"を定義し直す必要があるのかもしれません。

よろしければ、みなさんのご意見をお聞かせください。


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