「人は結局見た目」のルッキズムの世の中を生き抜く
◉今日の自分の顔は好きですか?
朝、身だしなみを整えるとき、たまに鏡の前で思ったりすることってありませんか?
「もっと鼻が高かったらな」
「目がぱっちりとした二重まぶただったらな」
「もっと鼻の穴が小さかったらな」
「もっと小顔だったらな」
基本的に自分の顔が好きでも、どんな素敵な人でも、その人なりに多少のコンプレックスはある「自分の顔」。
もちろんわたしにも「もうちょっとこうだったらな」と思うところはありますが、今回のお話は、それとはだいぶ質が違うお話です。
◉顔が歪む顔面けいれんという病
わたしは顔の左側がけいれんする「顔面けいれん」という病気を患っています。
簡単に説明すると「脳の血管と顔面神経が接触することで、目・頬・口角・下顎がけいれんして、しかもそのけいれんを自分でコントロールできない」という病気です。
顔面けいれんが始まったのは、20代の中頃だったと記憶しています。
顔面けいれんになる原因ははっきりしていませんが、仕事の過労によるストレスが積み重なってきたころ、目の下が少しピクピクとし始めました。
今から思うと「あの時、もっと自分を大事にして、身体をいたわってあげれば、こんなに取り返しのつかない状態にはならなかっただろうに」と思います。
特にその頃のわたしは販売の仕事をしていて、接客中に笑顔になった時、けいれんで顔が引きつってしまうこともあり、結構困っていました。
自分をいたわることを知らず、数年も全くの放置だったわたし。
いつの間にか、いくら休養を取ったところで顔のけいれんの症状が軽減したり、症状が治るなんてことはなくなっていました。
顔のけいれんが続くと、けいれんの違和感で集中力がそがれ、仕事や日常生活に知らず知らずのうちに悪影響が出ていたのでした。
そういう生活が長年続くと、自分の心に変化が訪れます。
◉写真から笑顔が消えた日
「変化」それは、写真に自然な笑顔で写ることができなくなってしまったのです。
普通に笑おうとすると、けいれんで片目がつぶれて口元が歪んでしまいます。
その顔がどういうものか鏡などで分かっているだけに、ポーズをとることに躊躇して、けいれんがあまり出にくい表情が身についてしまいました。
意識して笑顔を出せない生活というのは、少しずつ自分の心に暗く重い気分を蓄積させていきました。
楽しい時間があっても「今の顔、どんな風に見えているのかな」と心のどこかで考えてしまって、今しかないこの瞬間に影を落としてしまうのです。
就職活動でも大変で、履歴書の写真の撮るのもすごく神経を使ったり、面接でも顔の症状で印象が大きく影響するのではと心を整えるのに苦労しました。
わたしたちの社会は外見についての情報があふれています。
雑誌のボディメイク特集やネットのメイクアップ動画など、まさに星の数のように流れていますよね。
「自分がどんなふうに見られているか」を常に意識させられています。
あなたもルッキズム(外見重視主義)という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
おしゃれやメイクは楽しく人生を豊かにさせるものだと思いますが、反面、それにより苦しんでいる人もたくさんいます。
わたしもこういった見た目による社会的な影響と、病気による身体的なストレスによって日々生きづらさを感じて生きてきました。
そんな中、いま所属している社会福祉法人から「利用者さんが不安にならないように治療をしてはどうか」と提案されます。
ここに至ってようやく本格的な治療を考えるようになりました。
現在は脳神経外科で「3ヶ月に一度程度、顔にめっちゃ痛い注射を10本以上打つボトックス治療」という対処療法を数年続けています。
ボトックスが効いている約3ヶ月間は、表情が乏しくなる代わりに激しいけいれんは抑えられます。
その状態は決して快適とは言い難いですが、なんとか日々をやり過ごせています。
◉それでも心からの笑顔は大切にしようと決めた
形に残る写真はどうしても表情が気になりますし、日常会話でもけいれんが起きる時はどうしても意識せざるを得ません。
それでも、顔がけいれんで歪んでしまっても、日々の暮らしの中での笑顔は大切にしようと、どこかで割り切る気持ちに変わっていきました。
人間関係がうまくいかない人生を長く送ってきて、そんな日々でもたまに心が通じ合う瞬間が、わたしにとって生きる喜びの一つになっています。
そこで笑い合った時の自分の顔がゆがんでしまっても、それはもうしょうがない。
他人からの視線ばかり気にして、楽しい時間を楽しめないなんでもったいない。
それよりも、心の交流が生まれた関係と心豊かな時間を大切にしたい。
そう思うようになりました。
生きづらい人生でも、誰かとの会話で自然と笑みがこぼれることがあります。
そこにいるだけでもやっとの時でさえ、思わず大笑いしてしまうことだってあります。
かつての自分からは考えられないような、そんな幸せな瞬間が起きることもあったりするのです。
その一つひとつを大切にして、
その一つひとつを今日を生きる希望にして、
わたしは今日を、明日を、日々を暮らしていきたいと思っています。