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何でも太字にする人多分学生時代板書全部赤ペンで書いてた
最近note書いてて感じること、「どこ太字にするか分からない問題」
今みたいに固有名詞的なものなら普通に太字にしてもいいけどそうでもないところで太字にしたら凄く見づらいというか、どこか仰々しくなってしまう。
でも最近偶然踏んだ記事で全部の文字をを太字にしている人がいた。
読み辛さの極致だった。この前授業で習った同じように見えるものが集まれば見分けがつかなくなる現象の実践の場かと思うレベル。
この現象を実際に書いてみよう。
222222225252525255552525252525552525255525552552525222525425255552
この数字の集まりは2つのことを意識した。同じように見える2と5を適当に混ぜたのが1つ、その中に4を1回だけ入れた。
4を見つけるのは簡単だったはず。でもそのうちどっちが2でどっちが5かを見分けるのは難しくなっていかなかったか?
太字の見辛さもそれに通じる気がした。
この見やすさはどこからくるのだろうか?
板書の読みやすい先生とめちゃくちゃ読みにくくてノートにも書くのに一苦労みたいな先生、何が違ったのか?
あとたまに教科書とかに蛍光マーカー使ってた人見るけどその人のマーカーの引き方って勉強になる気がする。
昔BOOKOFF行って資格の本ぺらぺらしてたら全部にマーカー引いてあった本があってめっちゃ笑った。もう全部大事やん。
そういう人って全部覚えようとするんかなって思ってた。
どこが大事なところかを選別する機能っていくつくらいから実装されてきたのだろうか?
子供の頃は目に入るもの全てを吸収していたくらいいろんなことに興味津々だった。じゃあどこで何が大事かを選別し始めたのだろうか?
「はいここテストに出るぞ〜」の出現と同時にそうなってきた気がする。テストに出るところを覚える必要があった。
それは同時にテストに出なければ覚える必要が無くなってしまうということなのかもしれない。
元々人間の脳ってスパコン以上のスペックを持っているらしく、やろうと思えばあらゆることを覚えることができる。らしい。
それこそ息を吸っているときに脳が「はい酸素入ったよ酸素!はい血液に回った!はいきたきたきたきた!!!!」みたいなところまで覚えようと思えば覚えることが出来るらしい。
ではなぜ出来ないか?
する必要がないし脳の容量がスペックに追いついてないから。
あらゆることに対して意識をしていたらキリがない。生きるためにするための無意識的な部分については自動的に伝達がカットされるらしい。
だから幼少期の人格形成期とかはひたすら頭に入る情報を受け止めるらしい。誕生直後から人の言葉を普通よりも聞かせ続けられた子供とまぁ普通の環境で育った子供はその後学力に大きな違いがあったそうな。
あと生後すぐの赤ちゃんって世界各国の言葉を平等に学べるし話せるようになるらしい。もし父親になることがあれば生まれてすぐの我が子にひたすら話しかけてみよう。なんかこれ心理学っぽいな。ビネやん。ビネはIQの概念作った人。自分の娘使って実験しまくってた人です。
外的要因ってやっぱり強いんだなと感じた次第。
今からでも遅くないはずだしもっと情報に触れたい。
本読も。