「いいね」は欲しい。でもそれでいいのか?
今日も恒例の読書会があった。
今回は褒めることについて話が多くなった。人は甘い言葉を求めてしまうし、お世辞が聞こえる方にどうしても向かってしまう。らしい。
「嘘でもいいから褒められたい」
これは人間の本質なので仕方がないそうな。
もちろん褒めることも大事だけど、褒められるだけでは成長も満足もできなくなる。
子供と関わる仕事をされている先生が言われていたことだけど、子供は最初褒められたら嬉しくなるけど、何度も何度も無意味に褒められると次第に褒められることの意味を求め始めるそうだ。そしてその後無意味に褒められることがあれば、その人に対して不信感を抱くことがあるらしい。
つまり、子供でも成果に対しての「正しい評価」を求めることは知っているのだ。
他人から褒められることを良し悪しとするのかが問題となる。褒める、褒められるの関係はそれつまり上下関係が知らないうちに形成されてしまうことであり、それだけ褒めるという行為は罪深い。
それらをもとに覆す真実としての言葉が、『南無阿弥陀仏』ということなのだそうな。
そこで質問したのは、「褒められて伸びるタイプなんです」とか言う人って褒められ続けることで満たされることはあるのか? ということ。
他の先生や学生の方から聞いた意見の中に、「無意味に褒められることが続くと、次第に『どうすれば褒められるか?』を理解できないままある日限界にぶつかってしまう」ということがあった。
マタイの中に、「この世界をあげよう」という誘惑がある部分が書かれているらしい。
「この世界全てを自分のものとする」、つまりは自分を、自分だけを認めてくれる世界が手に入るということ。
全ての価値基準が自分となるのはユートピアなのかディストピアなのか?
心の壁が邪魔なら人間を全てまとめたエネルギー体にでもしてしまったらそんな壁はなくなるのではないか?みたいな人類補完計画を思い出す。
そこでさらに話題になったのが「いいね」の存在について。
「いいね」の数で満足することはできるのか? という問題。
人は「いいね」をもらい続けることによって「嬉しい」という感情を積み重ねて、結果「いいね」を獲得することでドーパミンが出るようになっているらしい。
このドーパミンの強さは食事や飲酒、性行為すらも軽々超えるほどの快楽らしく、ちなみにその強さはパチンコなどのギャンブルの快楽と匹敵し、ギャンブル中毒ならぬ「いいね中毒」のような現象もこれから見られるようになるのかもしれない。
つまり、社会の価値基準でしかものごとを判断できなくなることから脱却することによって、自分自身の価値基準の生き方を実践できるようになるのかもしれない。
ではそこで他人に評価されることを目的としなかった芸術家はどうだったのか?という問題。
ゴッホとかは死んでから有名になった。それも自分が表現していることが理解されないまま自ら拳銃自殺してから彼の表現を知る弟らの励みによって評価されるようになった。
それだと生前の彼を評価されていることにはならないのではないか?とも思ったけど、こうも聞くことが出来た。
表現者を理解できたと言わしめることができる人が現れることになればそれでいい。ということ。
作った人以上にその人のことを理解できたと断言できる人がいればそれはもう成功なのではないかということ。
話を戻す。
そこまでして「いいね」が欲しいものなのか?
それよりも先に自分が感じたのは、「『いいね』の記号一つに含まれる情報が多すぎないか」ということ。
というのも、昨日とても好きなわけではなかったけど見たことのあった女優さんが実は病気と闘っていて先日亡くなっていたことがTwitterで知らされていた。
そこでも真っ先に反応していることを示されるのは「いいね」のハートマークだった。
人が亡くなったことを告知するツイートに対して「いいね」というのもなんともおかしな話ではないだろうか?
「(そのツイート、)いいね!」なのか、
「(ツイート見ました。大変ですね。とりあえず応援をする意味を込めて、)いいね」なのか、
「(安らかにお眠りください、)いいね」なのか、
「(は〜〜っ!! 尊い!!もうこれは5000兆円もの!! ノーベル賞!!!)いいね」なのか。
それぞれ使う時の感情によっていいねの意味が変わる。
実際この1年でそんな使い勝手の悪い「いいね」で自殺された人もいたわけだし。
そういえば、自分で自分のことを殺す判断が出来たり、言葉で人のことを傷つけることが出来たり場合によっては殺すことも出来るのは人間だけらしい。
罪深いね、人間⭐︎
「○いいね」だけの数だけでそのツイート、創作の価値基準が変動するとすれば味気がない。
そう思っているのは日本人だけなのか? 他の国の人もそう思うことはあるのか? もし日本人だけなら昔「嫌われる勇気」のアドラー心理学が流行った理由もわかる気がする。だってあれ褒める褒められるの関係があることを罪深いとか言ってたし。
確かに「いいね」が欲しいかと言われるとまぁ…くれるならいっぱい欲しいしちやほやされたいのは事実。
でも別に「いいね」が欲しいからこれを書いているわけでもない。複雑。
本当の言葉、世界の中でたった一つ正しいと思える言葉に遇うことは出来るのか? ということを主宰の先生が最後に言っていたことを書いて締めとく。哲学楽しい。頭焼き切れそう。