拝啓、漫然と芸術を口に運んできたバカたちへ:『ザ・メニュー』感想文
稀代の美食家たちによる言葉は多々あれど、「真に美味である」とは何かについてはまだ見つけたことがない。
アミノ酸と脂質と炭水化物などの組成を完璧にすればいいのか。高級食材で固めた「美味いであろう」情報を提供すればいいのか。あるいは人の深層にある記憶を完全に再現すればいいのか。「美味」の定義は人によって異なり、そして厳格である。なぜなら、「美味いものは美味い」から。
1人あたり数万、数十万するコースを食べれば美味いのか。それでも寒空で食べるコンビニの数十円のおでんは美味い。
1本何十万もするワインはどうして「美味い」のか。たかが液体だ。発酵したぶどう汁のどこにそこまでの違いがある。区画だけで値段や価値が違う?ぶどうだぞ?
最高級中華レストランの締めの炒飯を食べたって、直後に母親が作ってくれていた記憶のなかに存在する焼き飯の方が美味いかもしれない。たかだか米を具材と炒めて調味料を加えたものでしかない。なのにどうして、これほどまでに「美味しい」を求めてしまうのだろうか。
そうか。じゃあ、記憶も、味覚も、感覚も、「全部一つ」にすればいいんだ。そうだ。そうに違いない。そうだろう?分かってくれるかい?分からないわけがないだろう?だって、君たちは私を天才であり、食の淵、同時に頂に立っていると認めているじゃあないか。
そう料理に対しての愛が枯れ、同時に縋るのが今作の「シェフ」であるスローウィクだった。
彼は料理を愛し、料理に尽くし、可能な限りの全てを料理に注いできた鬼才であり、天才シェフ。孤島に唯一あるレストランが彼の城。そこでは彼を信奉するスタッフたちによる徹底した調理や素材への慈しみが込められ、同時に1人1250ドルのみのコースだけを提供する徹底された至上のコースを追求する真摯さによってレストランが成立していた。
そこにやってきたゲストたちは誰もが皆、情報としての美味さに傾倒した高慢なバカ舌のセレブであり、唯一の異物とすれば、人数合わせで連れられたマーゴットだけ。
セレブたちは漫然とこれまでの過去による経験から積まれた教養で提供される飯を食らい、特権階級であることを食べることで再確認していく。
『ザ・メニュー』を観た。最高の料理人による、これまでのお客様への絶望と復讐であり、ー(伏字)ーの映画だった。これだけではネタバレにならないはず。そんな映画だと思っている。ここからは結末には触れないけどなんかちょっとネタバレされる。みたいな感想になるので、初見で観たい人はBB推奨です。
スローウィクによる人生を懸けた芸術作品は、次々に提供されていく。
そんな中、彼氏の数合わせに連れられたマーゴット(以下マーゴ)だけはそんなあたかも「セレブたちにとってウケのよさそうな皿」に苦言を呈し続けるも、異物であるが故にホールにいる人間からは相手にされない。ただ、そのマーゴに対して何かを見出したのはシェフであるスローウィクだった。
最新の調理機器を使ったイノベーティブ料理に、旨味だけを抽出したパンが存在しないパン用ソース。かつての秘めた記憶を全員に共有させる悪趣味なグリルに、ゲストをまな板の上に載せる「工夫のある」一皿。ゲストたちはそれらに対して驚き逃げ惑いながらも、食べることを強制されていく。
いつからセレブたちは忘れていたのだろうか。レストランはゲストは神ではなく、料理の神による寵愛を受ける距離を最も縮めた人間によって出力される何かを「戴く」場所であったことに。
口に入るもの全てに歴史が込められ、芸術家たちがその瞬間に至るまでに込められた時間を食んでいるということを人が忘れたのは、一体いつからだったのだろうか。
ただ「美味い」とすればいい一言を修飾するための言葉を紡ぐことに必死になる、情報で飯を食う人間たちが増えたのはいつからなのだろうか。
美味さへのアプローチとして用いられた「映え」が、それをキュレーションした存在そのものが褒めそやされる手段へ変わったのはいつからだったのか。
提供するものと、されるもの。鮮やかな立場の逆転の最中、マーゴだけは両方の立場の中間地点に立たされる。
提供することに真摯であった存在が、社会的立場によって料理そのものが虐げられ、強いられ、圧され、屈服させられ、冒涜され、蹂躙されたことによる絶望を精算するにはどうすればよかったのだろうか。そして、その復讐すらも美食へと至らしめるには何をすればいいのか。
生きるために食べる。それだけのシンプルな摂理を高尚なものであると昇華され続けること。その生物としての気高さを簒奪することに慣れきった人間は、どうあればいいのだろうか。
画面越しにありありと伝わる至高の料理人による葛藤の結果が映るにつれ、多分きっと自分も食どころか全てを奪う存在であるのだと再確認させられた。
何を言っているのかわからないだろうし、これを観て何をどう感想として書けばいいのかもわからない。それでも、万人ウケすることがない読書感想文のように、慈しみのある消費者によって何かしら判断されることを自分は望んでいる。
きっと、ふとした瞬間に二郎系のジャンクで脳髄に響く旨味を体が欲しながらも上質な美味しさを求めることは同じなのだろう。純粋な旨味とかとは異なる、ただの何の変哲もない「美味しい」を認め感じられることこそ、生きるために、食べるために間接的に奪い続けている自分たちがやらなければいけないことなのかもしれない。
チーズバーガー食べたい。何の変哲もない、チーズの溶け出して肉汁が溢れ出る、クラシックなチーズバーガーが食べたい。あぁ、腹が減った。