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晴れの日も雨の日も#315 常識

見たことがあるものを想像するのは難しくない。見たことも触ったこともないものを想像するのは至難の業だ。そういう意味で、人の想像力というのは、自分の身近に考えられるあたりに限界があると言える。それは言い換えれば常識の範囲内で人は暮らしているということでもあるだろう。

ところがややこしいことに、この「常識」というヤツは常に誰でも同じとは限らない。

たとえば、江戸時代の人に「宇宙旅行に行こうぜ」なんて言ったら、こいつきちがいか?と思われるのがオチだ。
今ならどうか。
令和の現代人でも宇宙旅行は決してポピュラーではないが、宇宙開発は実は現実に進んでいて、もうあと数十年もすればこんな会話が決して夢ではなくなってくる。あるいはいまだって、ちょっとマジメな顔をして「宇宙開発の仕事に携わっています」と言えば、「ほほう?」と好奇心を持たれることはあっても、狂人扱いはされないだろう。

時代と共に技術が進化することで常識が変わっていく、ということはもっと身近にいろいろある。自動車の普及や通信手段の進化などはその最たる例かもしれない。
が、のみならず、同じ時代に同じ空気を吸っていても、国が違えば文化が異なり、そうなると常識が全く変わってくる。さらに言えば同じ国民同士でも、同じ常識を共有してるとは限らないし、特に価値観が絡んできたりすると話はもっとややこしい。
アメリカの民主党VS共和党、もっと端的に言えばトランプ賛否論に代表される分断などはその最たる例だ。日本の政治だって目クソ鼻クソを笑うようなもののような気もする。

だから、多様性の受容ということが声高に言われるようになったのだが、これがまたこういう言葉にすると急速にウソっぽくなる。ウソっぽいが言い過ぎだとすれば薄っぺらいというべきか。で、なんでも受容しなければ、ということに目が行き過ぎて、他者への無関心を生んだりする。


「常識」ということを柱に筆を進めてきたが、その延長で考えるならば「自分の知らないことがある」という前提に常にたつことが大事なのかもしれない。逆に言えば、なんでもかんでも簡単にスマホでパパッと調べることができて、ホントはちゃんと知らないことでも知ったような気になってしまうのがいろいろ悪影響を及ぼしているという面もありそうだ。

違う文化のことは、ネットで調べれば知識としては「ああ、こういうことか」というのはわかるかもしれない。しかし、本当にその文化の中で毎日を過ごしている人たちの思いや感覚はまた別のものだ。わかるはずがないのに知識を少しかじっただけでわかった気になるのはホントはコワイ。
「もっと想像力を働かせて」なんて言い方を聞くことも少なくないが、しょせん知らないものは知らないものだ。想像するには限界があるし、勝手な想像が的外れな可能性だってある。

むしろ「自分が知っているもの、常識と思っているものは、針の穴から大宇宙を眺めているようなものだ。自分の知らないことがいっぱいあるのだ」ということを肝に銘じておいたほうがいいようにも思う。

(ここまで本文1,247文字)


金色に輝く鳳凰2羽。最近空の写真が多いなあ?

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

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(続く)

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