晴れの日も雨の日も#325 答え わかりやすさの罠
私達は何につけても、これでいいのだろうか、どうしたらいいのだろう、と考えがちだ。いわば毎日毎日答えを探して生きていると言っても過言ではないのだろう。
たとえば、今日のお昼は何を食べようかな?みたいに、簡単に答えが出る場合はいい。自分で考えてもなかなか答えが見つからない時は困る。
手っ取り早くは人に聞いてみたりする。あるいはネットの世界で情報を探してみる。
ちょっと簡単には人には聞けないようなビミョーな問題だとさらにやっかいだ。親にも家族にも話せないこと、あるいは親や家族だからこそ話せないことなんていうことは、実は、フツーにころがっている。
「答え」と近い言葉が「解」だ。
問題を解く。
うまく解ければそれが「正解」ということになる。
1+1はいくら?ということなら正解は一つでわかりやすいが、人生とか生き方という話になると何が正解かわからない。今は正解のように見えても、先々情勢が変わってしまい、結果的に違う選択のほうが良かった、なんてことも当然ある。
さらには、何がいいか悪いかという話になると、これは完全に主観の話で、絶対解はない。極端に言えば大金持ちが本当にいいかどうかさえ、わからない。Aさんの考える正解とBさんの考える正解が違っても全然おかしくない。
そう考えてくると「正解」もしくは答え、それも「もっともらしい答え」を求めること自体が、それこそ「正解」なのか甚だ疑わしい。
「人は『わからない』という状態におかれることに耐えられない」という説がある。「わからない」に直面すると、一生懸命答えを探して、早く「わかっている」という落ち着いた状態になろうとする、というのだ。なるほど確かにそうだなあと思う。「わからない」というのは安定していない状態であり、不安を呼び起こすのだろう。ところが、焦って答えを追い求めると、結果的に良くないことに陥ることも少なくない。早く「わかっている」という安心できる状態になろうとして、まさに藁をも掴む感じとなって、何の助けにもならない藁にすがってしまうというわけだ。
わからない、をわからないのまま置いておくにはある種胆力が必要なのかもしれない。あるいは耐力と言ってもいいかもしれない。3日も飲まず食わずでは健康を害するだろうが、今日の昼メシぐらい何を食うか決められなくても死にはしない。大方のことは答えなんかなくっても別に生きていけるのではないか。といいつつ、コーちゃんは今日も昼メシはちゃんと食べるのだが🤭🤣
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今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之
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<予定(但し、臨時差し替え頻発😂)
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(つづく)