![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/31967123/rectangle_large_type_2_08537d07005a98de3590dbad57d4e22b.jpg?width=1200)
現地に赴くことの価値(1)~ピーター・ドイグ展に想う
会期延長されたピーター・ドイグ展(2/26~6/14→10/11@東京国立近代美術館)を訪ねた。
本展は緊急事態宣言下で、いち早く展示作品をオンラインで公開。展示室内の様子を360°閲覧可能(!)とし、withコロナ時代のミュージアムの姿を、早い段階から模索・検討する姿勢が見られた。再開となってからは、日時指定券にて対応。エントランスでの検温、マスク着用の義務化など、他のミュージアムとも同等の処置をとられた。
「現地に赴いて体験する」ことの価値
オンラインではすべての展示作品を閲覧できたわけだが、やはり「展示室に赴いてそこで鑑賞する」ことの価値は、大きかった。
ミュージアムという空間。建物に一歩足を踏み入れると感じる、非日常の香り。展示室内の、少し緊張感も混ざったような、静かなにおい。
そして、相見える作品たち。現物のサイズ感、質感。近くでまじまじと筆跡を解読したり、離れて眺めることで、全体のスケール感や印象の変化を楽しんだり。
作品がこの場所に届けられるためのプロセスを想う。そこに、期待をしながらここまで足を運んだ自らのプロセスが重なる。それらを包含した時空が交差するのが、ミュージアムでの企画展という体験なのだと、足を運ぶことであらためて思う。
他者の存在
そこに欠かせないのは、他者(他の客)の存在なのだった。知らない間柄の・限られた人数が、自分と同じように、ここへ足を運ぶ時間をつくって、同じものをそれぞれに鑑賞して、それぞれの生活へ戻っていく。つかの間のクロスタイム。もしかすると以前もどこかですれ違っていたかもしれない、そして今後もどこかでクロスオーバーするかもしれない、その時そのタイミングで居合わせた他者。
その他者の、ささやかなひそひそ声、作品への熱心な視線。
それらすべてが触媒となって、私は展示室の中で、深い思索の淵に潜ることができる。
瞑想にも似た、至福の時間
自分ならどう表現する?その色にその色を重ねることでこんな効果を生み出すのか!などなど、インスピレーションの泉は留まることを知らず、あぁこうしてみよう、と他の領域にまで好影響を及ぼしていく。
フッと我に返り深呼吸。また違う作品の前に移動し、違うイメージを取り込み、先ほどとは違う思索に耽っていく。その繰り返しだ。
瞑想にも似た、自らの内面を耕していくような、滋養を与えていく至福の時間。
深遠なるインナー・ジャーニーへ
個展の魅力は、その作家の芸術性に浸れるところだ。
それは例えば1人のDJが、最初の1曲から最後の曲まで、壮大なサウンド・ジャーニーに連れて行ってくれるようなもの。
展示室の入り口に飾ってある作品から、最後の作品まで、時間をかけて向き合っていく。大作の合間に、小粒の作品があったりする。なかには「日展」に単体で出品されていたら、歯牙にもかけないような佳作も。それが全体の中で見るとアクセントになっていたり、文脈に沿って見ると、不思議とチラリと輝いたりする。
年代ごとに作風も変わっていき、作家の過ごした時間に寄り添う。その世界観に没入したとき、自分とは違う土地で、自分とは違う人生を歩んだ他者の視界をあたかも追体験しているようで、私を深い深い旅へと連れて行ってくれるのだ。
オンラインでは代用不可
こうした体験は、やはり、オンラインでは叶わない。現地に足を運んで、そこに浸ることで、感じられる価値がある。
美術館、博物館、劇場、芝居小屋…つまりそれら施設は、これまであまねく「場」に依拠していたことになるのだが(寺などの宗教施設も然り)、このコロナ禍を経て、その価値はどう転換していくのだろう?
思うところは、追って記していきたい。
<→2へ続く>