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【料理エッセイ】天下一品であえて塩ラーメンを食べる的な

 天下一品のこってりラーメンは好きだ。とはいえ、そんな頻繁にお店へ行くわけではない。だから、たまに訪れるときはメニューにあっさりとか、こっさりとか、定食とかいろいろあるけど、いつも迷うことなくこってりを注文してきた。

 ところが先日、久しぶりにお店へ行ってみたところ、期間限定なのか、塩ラーメンが載っていた。当然、直前までこってりを食べる気だったというか、こってりが食べたくて天下一品に来ているので、塩ラーメンがあるからってどうってことないはずだったのに、ふと、天下一品であえて塩ラーメンを食べる的なことが「これからの人生で必要なのかもしれない」と天啓を得た。

 で、塩ラーメンを頼んだ。さすがは天下一品らしく、塩ラーメンと言っても脂は多め。ただ、それに負けないだけの真鯛出汁は旨味がたっぷりで美味しかった。トッピングのワンタンも喉越しが気持ちよく、これはこれで看板になりそうな一杯だった。

 結果的に満足だった。これはなんなのだろう。だって、最初はこってりを食べたかったはずで、その目的は達成されていないのに問題がないなんて。

 たぶん、空腹が満たされればいいのかも。単純。もちろん、そうは言ってもラーメンが食べたいという気持ちだけは本当なので、麺がすすれて、スープが飲めればわたしの脳みそレベルではこってりだろうが、塩だろうが、本質的な違いはないのかもしれない。

 その上で天下一品の塩ラーメンがちゃんと美味しかったというのは大きい。予想していた美味しいではなかったけれど、新しい美味しいには出会えている。大袈裟だけど、自分の中の世界観が広がった。

 ここに「これからの人生で必要なのかもしれない」という天啓の意味がある。

 わたしも齢三十を超え、徐々に保守的になってきている。若いときと違って、食べログで出てくるオシャレそうな雰囲気だったり、異様にお得なクーポンだったり、わかりやすい餌に釣られて怪しいお店を予約し、バカ高いお通し代を払うことはなくなった。食べ放題のはずなのにまずは大量のフライドポテトと唐揚げを食べなきゃいけない謎ルールを課されたりはしなくなった。どこで流行っているのかよくわからない流行りのスイーツを買わなくなったし、詐欺広告は一目で詐欺広告だとわかるようになった。

 思えば、失敗したなぁとへこむ回数が減っている。一見すると経験によって賢くなったからのようである。しかし、同時に想像を超えた感動を味わうことも減っているので、シンプルな話、チャレンジをしなくなっているだけだと気づかされる。

 それが大人になるということなのかもしれない。子どもの頃はなんとなく走り出したり、なんとなく不安定なところにのぼったり、なんとなくを重ねて多くを学び、多く傷ついた。痛かったけど楽しくて、一日一日がちゃんと濃かった。対して、いまでは朝から晩まで知っていることばかりしている。

 たまにゾッとするのはスーパーまでの道のりをちょっと変えてみたところ、近所の古いマンションが解体されていたりすること。うちから距離にして100メートルも離れていない場所なのにまったく認識していなかった。そうやって自分のお決まりパターンに閉じこもっているうち、身近なところで起きている大きな変化も見えなくなっているのかもしれないと怖くなる。

 だから、冒険をしなくてはいけない。別に富士山に登るとか、海外のスラム街に行ってみるとか、ジャングルで自給自足生活をしてみるとか、危険を伴う冒険じゃなくてもかまわない。それこそ、天下一品であえて塩ラーメンを食べる的な冒険でいいから、いつもと違うことをしてみるというのが大切だ。

 ちょうど1年前ぐらい。わたしは適応障害で仕事を辞めたんだけど、部屋にこもっていると鬱々としてしまいそうだから散歩をするようになった。その際、自分の住んでいる街をいかに知らないまま過ごしてきたか、気づかされて驚いた。

 たとえば、うちのマンションの裏には教会があった。近所にスパイス専門店があった。駅前に美味しいコーヒーを焙煎している喫茶店があった。意外なところに学校があり、意外なところに図書館があった。川沿いに激安の八百屋さんがあり、「もっと早く教えてよー」と言いたくなった。

拙記事より

 他にもちょっと歩いたところの公園で子どもやお年寄りが集まって、楽しそうに探していることを知った。

 特別な公園ではありません。あくまで普通。遊具に、原っぱ、ちょっとした池。それから、みんなが休む数脚のベンチが並ぶだけ。
 ある日、そこに腰掛け、のんびり本を読んでいると、ジャージ姿の男の子たちが、
「あれ? 菊竹コーチ?」
 と、駆け寄ってきました。でも、すぐに、
「いや。菊竹コーチじゃないか」
 と、恥ずかしそうにさようなら。
 なるほど、人違いをしたのだろう。なんの気なしにまわりを見れば、そばにいたのは電話中のおじいさん、ヤクルト飲んでる外国人、妙に色っぽい中年女性。
 え? 誰を菊竹コーチと間違えたの?!

 別の日には女子中学生の集団が近くを通るおばあちゃんに、
「すみません。よかったら一緒に恋バナでもしませんか」
 と、声をかけていました。マジか! マジか! こちらの驚きに反し、おばあちゃんは平然とその輪に加入。早速、盛り上がり始めたのです。

 まったく……。愛しい人々が集まり過ぎだろ……。
 気づけば、わたしはその公園に大ハマり。休みのたびに通っています。

拙記事より

 不思議なもので、そうやって仕事を辞めて、近所の意外な一面を見て回るにつれ、一日の密度が若かったときのように凝縮さを取り戻し始めた。

 働いていると似たようなことの繰り返しで、段々楽にはなっていくけれど、流れていく時間を受け流しているだけのような惰性作業と化していき、なんのために生きているのかわからなくなりがちだった。でも、こらをやるだけで給料をもらえるうちは死ぬことはないと逆に安心している節もあり、辞めるという選択をなかなか取れないでいた。

 その頃、どうして人間は年齢を重ねると保守的になってしまうんだろうと疑問を抱いた。調べたところ、『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』というぴったりの本を見つけて、早速、読んでみた。

 これを読んで目から鱗が落ちた。保守化は脳がダメになっているのではなく、ひとつの機能である可能性が提示されていた。
 人は死を意識すると恐怖を覚える。死にたくないので死を否定しようとする。死は非日常の存在なので、日常が堅固であると信じたくなる。これがいわゆる保守化のメカニズムなんだとか。
 本文ではこのことを「恐怖管理理論」と呼び、根拠となる実験がいくつか紹介されていた。
 例えば、判事が軽い罪に対し、刑の判決を出すとする。普通だったら罰金50ドルを請求するのが妥当である。しかし、その直前に「自分自身の死について想像してください」「死後の世界はあるか?」と質問した場合、請求額が平均で450ドルに増えたらしい。
 要するに、死を意識したとき、判事の中で日常の社会を脅かす犯罪者を許せない気持ちが強くなってしまう。そして、過去の判例よりも重く罰したい衝動が高まるというのだ。

拙記事より

 なるほど、保守化するのは歳をとったからではなく、死を恐れているからなのかもしれない。世界が変化し、自分の得てきた知識や経験が通用しなくなる現実が怖いため、昔ながらに過失してしまう。そうやって、昔ながらでやれている間は世界が変化していることを忘れられるから。

 でも、それって抜本的な解決ではないんだよね。だって、こっちがいくら保守的であろうとも、世界はお構いなしに変わっていってしまうから。

 だとしたら、保守的になるのってバカらしい。

 そう思っていたはずなのに、わたしもなんだかんだで保守的になっていたわけなので、死の恐怖って普段は意識ないけど、潜在的にジリジリと脅かされているらしい。たぶん、放っておくとますますチャレンジのできない身体になってしまう。

 リハビリが必要。衰えてしまったアントレプレナーシップに。別に新たに起業をするわけじゃなくても、日常の密度を濃くしていくためにもチャレンジをする筋肉を鍛えていかなくては。

 そう。天下一品であえて塩ラーメンを食べる的なやり方で。




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