この桜を見ることももうないのかな
朝起きて、ご飯を食べて、コーヒーを飲みながら新聞を読む。これが毎朝のルーティーン。
加えて、気分が乗ると散歩をします。普段運動量が少なすぎる生活をしているから「体を動かさなきゃ」と思い、去年の春からはじめました。すでに2年弱。けっこう続いています。
そして今朝も散歩をしました。最近は夜歩くことが多くて、朝歩くのはひさびさです。
歩くときスマホは持たない派です。家は「The・郊外の住宅街」にあるのでうるさすぎず、畑ではすでに作業をしている人がいます。毎回「のどかだなぁ」と思うだけで、思考力がゼロになっています。貴重な時間です。
今年の夏にもたくさん朝散歩をしていて、草花が生き生きとしていたのが印象に残っています。私と言えば今年の夏は、将来について考えすぎて落ち込むこともあったので、その対比で余計に草花が輝いて見えたのかもしれません。
カメラを持って歩いた日に撮ったひまわり。小さいながらも、太陽に向かって力強く咲いていた姿が印象的です。
今朝、このひまわりが咲いていた場所を見ると跡形もなくなっていました。そりゃそうか。もう10月も半ばですもんね。そしてふと「たぶんこの先、あのひまわりを見ることもうないな」と思いました。というのも来年からは地元を出るので。
♢♦︎♢
その瞬間、地元の桜を思い出しました。冒頭の桜です。生まれ育った町はお世辞にも都会とは言えず、「生活するには過ごしやすい」の言葉が似合います。
ほとんど唯一、褒めるところがあるとすれば、町に流れる川沿いの桜。隣町や市にもまたがり全長7.8kmある川の両側に、合計1,700本ほどの桜の木が立ち並びます。
22年間生まれ育って何度も見てきたのに、毎年近くで見るたびに綺麗だと思います。まるで初めて桜を見たかのような感動を、何度も何度も覚えます。
今朝の散歩中に思った「あのひまわりを見ることはもうないのかな」と同じように、この桜も見ることはもうないかもしれません。地元は好きだけど、住みつづけたいとは思わないので。地元を出て戻らないとすると、1週間しかない桜の時期にこの場所を訪れることなどないはずです。
こうやって「気づいたら最後だった」が増えていくんだろうな。これまでもありましたけれど。「あの場所へ行くのはあのときが最後だったのか」とか、「あの人に会うのはあのときが最後だったのか」とか。
そのときは最後だと思わないけれど、最後だった。それってすごく寂しいなと思いつつ、普段通りに接した楽しい記憶が残るので幸せなことだとも思います。
桜の写真を撮ったときも「この桜を見るのは最後」と思っていなかったので、素直に綺麗だと感じられた気がします。そしてその記憶が私にとって、地元での良い思い出の一つになっています。
なんだか朝から感慨深くなっちゃいました。社会に出るのはわりと楽しみにしていますが、恐怖もあります。不安はないです。恐怖と不安の違いは何だ。まぁこの際どうでもいいです。
大学を卒業したら、これまで以上に早いスピードでたくさんの出会いと別れがあるんだろうなと思いますが、一つ一つを、できれば良い思い出にして記憶に残していきたいです。
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