芸術の商業主義批判から、その名を偽り語った拝金主義批判へ
今日における芸術の「商業主義」批判というのは全く意味をなさず(それは、業界内における旧態依然とした一種の虚仮威し的・圧力機能を一部で持つのみである[1])、意味をなすのは芸術の名を偽り語った「拝金主義」批判であるというのが私の考え。
[追記1] この圧力機能内部での、(集団的)腐りが私には見える。つまり、美術史の正統性(勿論、ポップ、ミニマル、シミュレーショニズムまでもを含んだ)に照らして、およそ「芸術」とは呼べない、その基礎が成立していないものを、「芸術」の名で語り、その領域に招き入れ、盛んに褒めそやすことを生業としている(カッコ付きで)「美術評論家」が存在するからだ。その代表例は、私の主にSNSでの知己だが宮田徹也氏がいる。一方、芸術の商業主義批判をしない美術評論家は今日では多数派であるが、それらの人々が実際にやっているのは、宮田氏と同じことである。つまり「およそ「芸術」とは呼べない、その基礎が成立していないものを、「芸術」の名で語り、その領域に招き入れ、盛んに褒めそやすことを生業としている」ということ。その例としては、同様に「美術評論家」の椹木野衣氏や、これも私の主にSNSでの知己だが三脇康生氏がいる。これら前者・後者の人々をひっくるめて、私は「全体主義」体制と呼ぶ。芸術の商業主義批判をする/しない、で前者・後者と別れるが、やっているのは同じことである。これらの人々と協働する美術館学芸員・ギャラリスト・アーティストも同様の体制内部であるが、これらの人々も本来カッコ付きで呼ぶべきであろう。総じて、「芸術」の名を語る、「芸術」の内容的・破壊集団である。もっと端的に言えば、現代において死にかけた「左翼」文脈の、「芸術」領域に辛うじて寄生した、その最後の姿でもある。