私の、ギャラリスト神野公男、三潴末雄体験

私の視野に、現実的に日本の現代美術/現代アートが入ったのは、大学院を出た’90年代以後なので、体験としてリアルなのは、やはり私が所属した名古屋のギャラリーHAMの神野公男さんや、そこから影響を受けて始めた三潴末雄さんらの「全共闘」出身のギャラリストの作ってきた世界がベースにありますね。三潴さんはギャラリストに転身する前は’70年代初頭に新宿で「ステーション’70」というライヴスペースをやっており(ここには西武の堤清二などからの資金が流れ込んでいた)、そこで私の大学院での師・工藤哲巳さんも、当時パリからの一時帰国展と同時に関連イベントをやっている。その話は私は三潴さんから直接聞いた。曰く「フリッツ・べヒト(工藤哲巳の、フランスのポンピドゥと並び称されるオランダのコレクター)のカタログを見て、当時買っておけばよかったなと思ったよ。」と。近年は値段が上がっているという意味。アートと金に関する生々しい話は、私はこうして耳に馴染んでいる。神野さんが工藤さんにアプローチしたのは、名古屋のギャラリー高木の番頭時代に、社長を伴って、パリのアトリエに買い付けの交渉に行った時。おそらく’70年代の後半。神野さんの提示したのは、オランダのステデリック・ミュージアムの大規模な回顧展で展示した一番大型の作品を買って「アメリカに売り込みたい」ということで、工藤さんがこれを拒否したと。理由は私は分かりませんが。神野さんは、このことについて私にかなり恨みがましい口調で語っていたと記憶する(’90年代後半)。現在は、工藤作品はアメリカに、私の知る範囲では10年以上前から流れ始めている。また、工藤さんの晩年に近くにいた真島直子さんが私に語ったところでは、「工藤さんは本当はフランスではなく、アメリカに行きたかった」ということなんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三潴末雄
「大学卒業後、学生闘争の仲間の牧田吉明とともにライブスペース「ステーション'70」の共同支配人となる[5]。1971年1月に「ステーション'70」の店舗が閉店すると、牧田の経営する編集プロダクションで海外向けPR誌『Σ』を手がけるようになり、この雑誌の制作を通じて本格的に美術の世界に接近していくようになる[6]。やがて1974年9月に牧田が大麻で逮捕されると1975年に編集プロダクションも閉鎖を余儀なくされ、1976年、みずからの会社「フロントオフィス」を設立、PR誌の仕事を継続[7]。海外の現代アートを表紙に起用していたことからコレクターの道に入り、黒田アキや神野公男から触発を受け、1989年に西麻布で小画廊を開く[8]。1994年、青山にミヅマアートギャラリーを開廊。2008年、北京にMizuma & One Galleryを、2012年、シンガポールに
Mizuma Galleryを開廊。」

[追記1] 実は、私がギャラリーHAMを出ようと考え始めていた’90年代後半、それを知った三潴さんが私に接近してきたんですね。私の作品に「興味があります」と一度。どこから伝わるのか、それを察した神野さんが私のアパートにやってきて、「三潴はやめておけ」と直裁に言ってきたんですね。そう言われる以前に、私は三潴さんのモーションを受け流しており、こうして、私は日本の現代美術/現代アートの(陰の日向の)両ボスを無下に扱った作家、という形になっているんですね。

[追記2] 全共闘世代の人たちは、「誰々に見初められて(その世界のボス的存在に)、自分は道が開けた」と語るのが、私の見方では紋切り型なのですが、私は馬鹿馬鹿しくて、また直感で、こういう道を革命的に先駆けて破っているんですね。

[追記3] まあ、私のスタイル(種別性ではない、個別性)というものがある。

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