22 病床のダルマパーラ オルコットの催眠療法、亡国の民の叫び|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇
ダルマパーラの入院
閑話休題。知恩院での歓迎の後、ダルマパーラ青年はいよいよ病状が進んで京都療養院に運び込まれた。闘病生活を送る彼のもとには、多くの青年仏教徒が訪れた。高楠順次郎は、昭和八(一九三三)年、ダルマパーラの訃報に寄せた文中でこう述べている。
ダルマパーラが病床で繰り返したというけなげな言葉は、感じやすい青年仏徒の心に強く訴えた。当初ダルマパーラの容態は、医薬が役立たぬほど重かったという。これを軽癒せしめたのは、高楠によれば、なんと「オルコット大佐の催眠術」だった。
オルコットの霊能力
ここでようやく、オカルトっぽい雰囲気の話題が登場した。オルコット大佐はスリランカで仏教復興運動をオーガナイズしたが、その過程で神秘的な病気治しの「秘蹟」を行っていたことは案外知られていない。彼はスピリチュアリスト時代から催眠療法を嗜んでいたが、その素地は南アジアにおいて神がかった治癒力となって開花したのだ。彼自身、自分の行為が単なる暗示によるものか霊能力によるものか半信半疑だったようなのだが……。とにかく一八八二年後半から翌年にかけ、オルコットはスリランカ・インド各地を巡業し、数多くの病人や身体障害者に病気治しの秘蹟を施したのである。
「ヒマラヤのマスター」との交信を一手に引き受け、天性のカリスマ性で神智学協会を引っ張ったブラヴァツキー。それに比してオルコットは実務家としての側面ばかりが強調される。その彼がスリランカやインドで大衆の間にカリスマの地位を築き得た背景には、霊能力による(と信じられた)病気治しの実践があった。
つまり十九世紀末に始まった仏教復興運動を初動で支えたのは、一面ではオルコットのカリスマ性へのスリランカ民衆の盲目的帰依でもあった。オルコットは啓蒙的な「生き仏」の役回りを引き受けたのである。若いダルマパーラのオルコットや神智学協会への耽溺ぶり、「この時期において、大佐への特別な献身が彼の人生のおもな情熱の一つであった」と語られる背景も、おそらく、そんなところにあったのだろう。
日本人の熱心な称賛者
オルコットの催眠療法によって危機を脱したダルマパーラのもとには、医者や僧侶、仏教学生や教師・作家・哲学者・事務員までがひっきりなしに慰問にやってきた。「大佐の場合はマホメットが山に会うために行ったとすれば、ダルマパーラの場合は山がマホメットに会うためやって来たのだ。」彼の伝記は大げさな表現で伝えている。そしてダルマパーラは退院が近づく頃には日本について知識を増し、日本人の熱心な称賛者になった。
ダルマパーラは日本では病に伏せっている時間が長かったが、小康を得ると川上貞信(のち、オルコットに従ってセイロンに留学した青年僧)の翻訳で『愛理者之殷鑑』と題したパンフレットを出版した。また退院したダルマパーラが、帰国直前に日本で行った演説記録もいくらか残されている。
英語文献を通じた「伝統」との再会
病気の癒えたダルマパーラは四月の下旬からはオルコットとの旅行に同行し、五月六日から西日本巡行に向かうオルコットを見送った。この時京都で開かれた両者の送別会は知事等が出席する盛大なものだった。次に四月二十七日、知恩院でのオルコット告別演説会に病身をおして出席したダルマパーラの演説を紹介したい。
のちの粉飾美化された伝記の記述とはずいぶん違って、ミッションスクールでの教育によってシンハラ人仏教徒としてのアイデンティティを喪失しかけたところで、神智学協会の「雑誌」を通して仏教を再発見するに至ったというダルマパーラの魂の遍歴が素直に告白されている。
このような変則的な、英文テキストを通じた伝統文化との出会い・再発見は、ダルマパーラに限らず、当時の南アジア知識人にある程度共通した経路だった。かのインド独立の父マハトマ・ガンディー(モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー)も、弁護士になるために十八歳で留学した英国の地で神智学徒から読書会に誘われるまでは、ヒンドゥー教の最高の聖典たる『バガヴァッド・ギーター』を読んだことがなかったのだから。神智学徒の二人とギーターの読書会を始めたガンディーは、あらゆるギーターの英訳書を手当たり次第に読みふけり、特にエドウィン・アーノルド(一八三二〜一九〇四)の訳文に心酔したという。彼は同じアーノルドの『アジアの光』(〝The Light of Asia〟釈迦の生涯を綴った無韻詩)を通じて、仏教からも影響を受けた。神智学関係者がいまも誇らしげに語るエピソードだが、ガンディーのインド思想への目覚めは、皮肉なことに母国語ではなく英語の訳本によって、そして異国の神秘主義サークルのなかでもたらされたのだ。
仏教復興は民族独立ヘの道
話をダルマパーラの演説へと戻そう。
この後ダルマパーラは『大王統史マハーワンサ』の伝説に基づくセイロン島史を詳述するのだが、紙面の関係で略す。釈尊入滅と同じ日にスリランカに上陸した「ビイジヤ公子」とは、現在もシンハラ人の間でスリランカ建国の祖とされているウィジャヤ王のことだ。スリランカはその建国神話のなかでも仏教との密接な関係が暗示されている。ダルマパーラはランカーの栄光の歴史に引き続き、祖国が西欧の侵略によってこうむった屈辱について語り出した。ここからは迫力満点の、文語体の速記録から引用しよう。
最後の一節は特に印象深い。ダルマパーラはこの時すでに、仏教復興がシンハラ人の精神的な独立を促し、「身体を圧制する束縛」つまりイギリスの植民地支配を打ち砕くに至るであろう事を強調していた*48。
また、その際に引き合いに出しているのがイギリスからのアメリカ合衆国の独立であるところも、現代人から見ると興味深い。オルコット大佐がセイロン仏教の復興運動に参画した当時、「アメリカ人は、イギリス支配に対して反乱を起こしそれに成功した、西欧列強とは対立する偉大なる反植民地主義者だと考えられており、そのためオルコット大佐は、シンハラ人の闘争を助け、西洋の組織技術を提供しうる、政治的・文化的同盟者として歓迎された」*49 のである。
ダルマパーラの講演を筆記した日本國教大道社(後述)藤本重郎は、「嗚呼オルコット氏やダンマパラ氏や実に能く勉たり実に正法を恢興して他日セイロン独立の基礎を立てたり。苟も護国護法の心あるもの誰か二氏を賛せざらんや」とパトリオットらしい直情的な賞賛を附記している。ダルマパーラのメッセージは、亡国の民の諄々たる訴えとして、あるいはオルコット以上に日本人の琴線に響いたのかもしれない。
註釈
*42 「ダンマパーラ居士の訃音」『現代仏教』第一〇六号、一九三三年八月
*43 『愛理者之殷鑑』ダンマパラ著、川上貞信訳、菊秀堂、明治二十二年四月、前書きより。原文を現代語訳した。
*44 「ダンマパーラ居士の訃音」
*45 『浄土教報』第八号明治二十二年五月二十五日 適宜句読点を追加するなどの修正を加えた。
*46 『浄土教報』第十号明治二十二年六月二十五日 右に同じ。
*47 日本國教大道叢誌第十一号抜粋「神智学会書記ダンマバラ氏の演説」藤本重郎記 明治二十二年十二月
*48 しかし『浄土教報』第十三号明治二十二年八月十日に掲載された口語速記ではこのくだりが載っていない。スリランカで仏教婦人組織が始動し始めたことを報告し、「私が先日来病症に懸りまして皆様の浅からぬご厚情を受けましたが、実に末永く難有感謝致します。シーロンに皈りて多くの人々に此事を話す積りで今日よりそれを楽みに致して居ります。」と終わっている。藤本重郎は、ダルマパーラの熱誠から、それ以上のものを聴き取ってしまったのだろうか。
*49 『スリランカの仏教』ゴンブリッジ、オーベーセーカラ、三〇八頁