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家の記憶と天国の食べ物

9月の最初の日記。9月5日から6日にかけて。


彼女のうちがわ

わたしの仕事場にも、ちいさな本屋にもできるような物件を探して、定期的に不動産情報を見たり内見したりして2カ月が経過。

昨日、とても素敵な物件を内見した。70年前に建てられた平屋のおうち。
畑のなかの細い道をずっと進んで、進むのをためらってしまうような薄暗い竹林と紅葉樹の緑のトンネルを抜けると、その先にぱあっと開けた平地があって、わたしの子どもたちよりもわたしよりも長く生きているのびやかな梅や銀杏や紅葉やソテツに守られて、そのおうちがあった。
ひと目で好きになった。

素敵すぎる



土間とつながっている台所、掘り炬燵のあるちいさな和室、仏間のある和室、床の間のある欄間のうつくしい和室に、古材と白壁のコントラストが上品な、ちいさな洋間。
薄氷みたいにうすっぺらくて波打つように透明な昔のままのガラス窓の先には、かつて誰かが迎え入れた草花と、まわりの雑木林からはこばれてきた種たちの芽吹きでいっぱいになった、緑の庭。おうちの裏には、鎌倉でよく見るやぐら(横穴式墳墓、鎌倉時代の貴人のお墓)なのか、防空壕の跡なのかわからない、ちいさな四角い洞穴があった。

古い畳がたわんでも、表具や建具の立て付けが悪くなっていても、大きな蜘蛛がじゃんじゃん卵を産んでいても、大切に大切にされてきたのだということがすぐにわかる。それってすごい。この建物には魂が宿っていて、産まれてから今日までの素敵だったことややるせなかったことを記憶しているように感じた。成熟した、老成した魂。「お邪魔しています」となんどかこころのなかで呟く。

そういえば、なぜか、このおうちの魂は女性だと思った。からだの内側に、他者を迎え入れる、育むことができる空間を持っているからなのだろうか。

***

あのおうちのちいさな洋間の古い木の棚に古書や新書やZINEをならべて、土地の風景やひとびとを映した写真やいろいろなイラストを展示して、すこしの花器や季節の草花を飾ることができたらとても素敵だと思う。

そうして、わたしはいつ来るともしれない来訪者を待っているような待っていないようなふりをして、ひとりで、誰かが残したことばたちや生命の息づかいにかこまれて、調べものをしたり書きものをしたりする。
来訪者たちにはひとりで来てほしい。すきなものを手に取って、望まれればお金を受け取って手渡す。それで、この家のお庭の木々や草花や木漏れ日をながめて、畑の方角から聞こえる耕運機や鳥たちの声を聞いて、お茶を飲んで、心地良く過ごしてほしい。

けれど、わたしにはあのおうちといっしょに踏み出せない理由がふたつある。
まず、駅やバス停から歩いてくることは限りなく難しい立地であること。街のひとにも、観光客のひとにも来てほしいけれど、来訪者なんて一生来ないかもしれない。
次に、家賃はわたしがひとりですきに管理できる上限の3倍くらいであること。宿泊事業はNGな物件なので、ちいさな本屋のような形態のビジネスが成立するかどうかが判断材料になってしまう。ビジネスとして成立することによる持続可能性はとても大切だけれど、最初にそこを目的にしてしまうとわたしは容易に間違ってしまうので、いったんおいておきたい。

やっぱりご縁がないのかな。
でも、こういうおうちがこの場所にひっそり存在していることを知ることができて、ラッキーだった。この街の秘密を知った気分。

午後のドライブ

内見が終わって、午後はたまった仕事を片付けたいと思っていたのに、子どもたちが体調を崩して、予定よりずいぶんはやく保育園へお迎え。でも、その予感は朝からあった。

迎えに行くと、次男はおひるねをはじめていて、中途半端に起こしてしまったので、半分眠りながらぐずぐずしていた。先生たちが準備してくれているのを待ちながら遠目に見る次男は、遠目だからこその気楽さで、ぐずぐずしていたってとってもかわいい。
車に乗ってから、長男とひそひそ相談して、すこしドライブして帰ることにした。運がよければ車でもういちど寝てくれるかも!

・・・まあそんなにうまくいくはずもなく、ちょっと疲れて帰宅。
夏の終わりの海岸には、もう海水浴客はいなかった。みんなどこへ行ってしまったんだろう。日差しはだいぶやわらいで、水面のひかりがきらめいて、空気ににじんで、消えて行った。

明日は保育園をおやすみしようねと言ったら、長男は「ああ、そうだね、それがいいね」ともっともらしくうなずいて、満足げだった。
明日はなにをしよう。君たちがおなかを壊していても鼻水を垂らしていても元気そうだから、ほっとしたぶん、母は自分がしんぱい。

天国の食べ物、ハンバーグ

内見のあとに、スーパーであらびきのいいお肉が安くなっていたのを買っていたので、晩ごはんにはハンバーグをつくった。あらびきには脂身の粒もたっぷりまざっていて、じゅうじゅう焼くと透明な肉汁でフライパンがひたひたになった。それから、冷蔵庫中の野菜をひたすら刻んで煮込んだミネストローネと、フリルレタスとトマトときゅうりとツナのちょっと陽気なサラダ。

夫が子どもたちをお風呂にいれてくれているあいだに、そういういろいろなものをお皿に盛りつけて晩ごはんの準備をすませた。

明日は保育園をやすむことがわかっているからか、長男はずっと機嫌がよかった。いそいそとテーブルについて、ハンバーグを器用にナイフとフォークで口に運ぶ(切り分けるのが突然うまくなった!)。ひとくちたべて、
「ああ、おいしい。天国にいけちゃうみたいだよ。」
と言う。夫もうまいうまいと食べる。次男はだいすきな納豆ごはんで満足そう。夫がハンバーグをひとくち口に入れてやったら、納豆のじゃまするな!と言いたげに怒りながら食べていた。
結局長男は、夫と同じ数だけハンバーグをおかわりした。

わたしは、天国でごはんを食べているみたいだと思った。

我が家の記憶

うちの夫は、気づけばいつもトイレにいる。
夏の間はいつもパンツいっちょで家の中をうろうろしているのだけれど、なぜかトイレのなかではいつも全裸。

夏の間、日の出とともに起きていた次男は、9月に入って朝5時半までは寝るようになった。
今朝もそれくらいに起きて、次男といっしょにリビングにいく。電気をつけて、さて、とトイレの扉を開けたら、全裸の夫が狭い空間に体を押し込んだみたいに座っていて、あまりに驚いて「ぎゃっ」と叫んだらうるさいと怒られた。

まったくもって納得いかない。

そういえば、ゆうべ遅く作っておいた彼の今日のおべんとうのおかずは、昨日おいしいおいしいと食べていたハンバーグ。
長男が「ぜんぶちょうだい!」と言って、もちろんわたしは夫より長男にすきなだけ食べさせたいので言われるがままおかわりをよそっていたら、「お弁当のおかずが・・・」とぶつぶつ言っていたので、ちゃんとひとつだけ残しておいた。
昼ごはんのときお弁当箱のふたを開けたら、ちょっとうれしいだろうな。

全裸ですきなだけトイレにこもる夫と、長男の好物のハンバーグをひとつだけ明日の夫のために残しておいたわたし(わたしはひとつしか食べてないのに!)。

夫とわたしは出会ってもうすぐ10年。ずいぶん遠くにきたなという気もするし、まだまだ中継地点にさえ到達していないとも思うし、あっさり来年離婚する可能性だってあるけれど、自分がいちばん自然でいられる相手が良い結婚相手だとするならば、夫とわたしはお互いにそれなりに良い相手を選んだのかも。

***

ふと、わたしたちが選んで建てたこの家が、どんな記憶を宿していくのかが気になった。わたしたちの家は、まだまだ子ども、という感じがする。
それはわたしたち夫婦それぞれが、まだ成熟しきっていないからなのかもしれない。

いつになったら落ち着くんだろう。

わたしはもう36歳にもなるのに、いまだに、どうして今ここにいるのか、これからどうやって生きていくのかがわからなくなることがある。そういう想いは、子どもたちが起きているあいだは消えている。

夫は出勤して、長男はまだぐっすり眠っていて、次男はここぞとばかりに長男のおもちゃを引っ張り出している。

今日なにをして、なにを食べよう。

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