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やさしい雨を待っている

異世界に迷い込んだみたいに季節と気温がちぐはぐ。さたに3連休にほぼワンオペで2児をみていて、生きも絶え絶えにむかえた新しい一週間が、もうすぐ終わる。これは、自分を労わるために書く文章。


てきとうがいい

先週末は3連休だというのに、初日と最終日がワンオペで、5歳と2歳のちびっこを連れてどちらもイオンへ行った。
朝から3人で歌いながら車を走らせて自宅から20分。イオンに着いたらみんなでアイスを食べて、ひとくちずつ交換しあった(次男は延々と「あ。」と口を開けて催促してくる)。
それから長男はゲームセンターでマリオカートとポケモンのゲーム。ゲームが終わったら子どもたちの下着を新調して、お昼にはうどんを食べるかチャーハンを食べるか吟味。
イオンには子育て中に必要ないろいろなものが詰まっている。

ところで、こうやって書いているとたのしい一日だった気がするけれど、当日は夕方には疲れ切ってどうでもいいことで子どもたちを怒ってしまった。

「休日は部屋を片付けないといけない」とか「夕食は17時には食べたい」とか、なんなら「お風呂には毎日入らないといけない」とか、いつのまにか自分ルールのようになっていることがいろいろある。誰が決めたんだろう。いつのまにかそれが「まともな生活だ」と思っている。

そんなことてきとうにやりすごしてしまって、のんびり笑いながらごろごろしていればいいのだ。

やさしい雨を待っている

イオンで、次男にはじめての雨傘を買った。

赤い、アンパンマンの絵が書いてある、おもちゃみたいなちいさな傘。
アンパンマンがだいすきな次男はおおよろこびして、自分で持ちたくて、いちど持ったら離したくなくて、レジでお会計するために取り上げたらこの世の終わりのような顔をした。

レジの年配の女性が、
「いいねえ、はやく雨が降るといいねえ。」
と言って、やさしく傘を渡してくれた。

おもちゃみたいな雨傘が宝物になる、人生のうちのほんのちょっとの期間。
はじめて傘をさして雨音を聞いて、雨に煙る木々を見る日は、君にとってきっと素敵な一日になると思う。わたしはその姿をちゃんと目に焼き付けたい。

愛のぎょうざ

わたしは(おそらく)料理がすきだけど、普段は手の込んだ料理はつくらない。牛すね肉とか豚バラを煮込みたいときは圧力鍋を使う。

だから、わたしのレパートリーのなかでいちばん手が込んでいるのは、いまのところぎょうざだ。

皮からつくったりはできないけど、キャベツとにらとしょうがとニンニクを細かく細かくきざんで、豚ひき肉と混ぜ合わせて、50個くらいを黙々とつつむ。わたしは本来壊滅的に単純作業ができないので、大学生のとき一日中コピー機の前で資料を印刷するバイトをしたときは1日で精神が破壊されそうになり、半泣きで「もうやめたいです」と連絡をしてしまったのだけれど、ぎょうざをつつむのは割と続けられる。

行動の結果が変化として目に見えるからかもしれないし、夫がわたしのぎょうざをだいすきだからかもしれない。

ちなみに、わたしが夫をだいすきかは産後のたくさんの喧嘩でわからなくなっていたし、正直いまも「はあ?」と思うことは日々ちょこちょこあるんだけれど、がんばってぎょうざをつつんでいると、その料理ができるのをたのしみにそわそわしている夫を思って「わたし、結構夫のことすきなのかもしれないな」と思えてくる。

ひとの心理は不思議だ。

手をかけたぶん、苦労したぶん、たいせつに思う気持ちが増すだなんて、よくできている。それは救いなのかしら。それとも呪いなのかしら。でもすくなくとも、わたしたち夫婦のあいだにはぎょうざがあってよかった。

産み残している気がする

たくさんのベビーグッズをメルカリで売りたいのに売れない日が続いている。我が家の収納は臨界点を突破しかけていて、そろそろまずい状態になるのに。なかなか踏み切ることができない。

それは、第3子を「生まない」という決断ができていないからだ。
なんとなく産み残している気がして、我が家は5人家族のような気がして。特に根拠はないんだけれど。

でも大企業の安心と安定と福利厚生を捨てて、成長するかもしれない(しないかもしれない)ベンチャーのストックオプションをもらえる可能性も捨てて、しがないフリーランスになったわたしと、いまだに「貯金額はひ・み・つ」と言い張る夫(たぶん、あんまりない)の組み合わせで、子ども3人。
いけるのだろうか。

小学校受験と親力テスト

わたしが住んでいる街には私立の学校はないし、近隣の街の私立の学校を受験させようという価値観の持ち主にもとんと出会わない。

でも、この1年一緒に仕事をしているクライアントは都内に住んでいる。子どもを小学校受験させるらしくて、最近打ち合わせのたびに、その過酷さと大変さと家族一丸となった歴戦の記録をおしえてくれる。

わたしは田舎の公立学校しか知らないので、ほほーと聞いている。ネットでしか読んだことのなかった世界が実在するのだと知った。

わたしが家族と暮らす街にはちょうどいい感じに選択肢と情報がないので、こころやすらかに暮らしているけれど、これが都内のちょっとハイソな土地で、限られたコミュニティや価値観のなかで生きていたら、私立受験させないことや私立受験させられるほど稼げないことを親の責任を果たしていないかのように言われるのかもしれない。それに、教育機会が細分化されて家族構成や世帯収入や子どもの発達度合いでカテゴライズされている情報と選択肢の海にのまれたら、わたしはそのまま自分らしさとか息子らしさとかを見失ってしまうのかもしれない。

小学校受験ってすごいなあと思う。子どもたちも頑張るし、保護者さんたちも頑張る。そのさきに、その家族にとってぴったりの環境を選べる可能性もある。
でもわたしはそこまで頑張れないと思う。だから、この街でちょうどよかった。頑張らせようとしてこない街で、よかった。

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