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きれいごとばかりの道徳授業を脱却する
道徳の授業をしていて、「なんかきれいごとばかりで授業が進んでいるなぁ」と思っていた時期がある。
「命は1つしかないから大事だ」
「ルールを破ると人に迷惑がかかるから守らないといけない」
たしかにそう。
でも、何だかそれだけでいいのか。
子どもたちは小学校に入学してくる前から周囲の大人からこれらのことを言い聞かされて育ってきている。
だから知っているし、頭では理解している。
でも、実感を伴った納得感のある理解には至っていないのだろうと思う。
道徳の授業では表面的なきれいごとばかりを並べるような授業ではなく、子どもたちが
「だから命って大事なんだな」
「やっぱりルールって大事なんだな」
と腹落ちして理解できるようにしていきたいと考えている。
そのためにこれまでの自分の授業で意識してきたことをまとめてみようと思う。
①どんな意見も一旦受け止める
きれいごとばかりで進む授業は、「先生が求めているだろう答え」を子どもたちが探して「多分これなら外さないな」と思えたものを発言するような授業で起こるのだろうと想像している。
教師がねらいとする道徳的価値へ直線的に向かっていくために、子どもたちの発言の幅を狭めてレールからはみ出さずに進んでいくようデザインされた授業が、「先生が求める答えを探す」という授業観を子どもたちの中に作っているのではないかと思う。
教師としては「どんな意見も一旦受け止める」というスタンスでいる方が子どもたちは素直に自分の考えや思いを表現することができるのではないかと考えている。
※「どんな意見も」の中に他人の人格を否定するような発言などは含まれていない。そういう発言はすぐに指導する必要がある。
例えば「靴を隠した人には仕返しをすればいい」という考えが出てきた時。
この考えを「それはダメでしょう」「やり返したらやり返した人も悪くなるよね」と頭から否定すると、発言した子は自分の考えを受け止めてもらえずに発言の意欲が下がったり教師の求める答えを探したりようになるのではないか。
一旦受け止めるというスタンスを取るならば、「仕返しをすればいいと思うんだね」とその考えを出したことについては認めるようにリアクションする。
そうすれば発言した子は「先生は自分の考えを聞いてくれた」という思いを持つのではないか。
しかし、「靴を隠した人に仕返しをすればいい」という考えのままで終わらせてしまうのでは道徳的価値に対する理解が深まらない。
そこで教師は
①他の子どもたちに返す
「みんなはどう思う?」と他の子どもたちに尋ねる。
②教師から違う視点を示す
「〇〇という部分が心配なんだけどどう思う?」と考えられていない視点を示しながら尋ねる。
という二つの手立てで道徳的価値理解を深めていく。
②「弱い心」を教師から示す
子どもたちの実態によっては「仕返しをすればいい」「知らんぷりをする」など人の「弱い心」と言えるような発言が出てこないことがある。
人は「こうすることがいい」とわかっていてもできないことがある。
それを全て弱さという言葉でまとめることはできないが、長くなってしまうので「弱い心」としておく。
「靴を隠した人に注意すると怒られそうだから知らんぷりしたくなっちゃうかも…」などのように価値の実現を阻む弱い心を教師の方から示していく。
こうすることで「たしかに自分もこわいな」「それでも注意した方がいい」「別の方法を考えてでも止める方がいいんじゃない?」などとさらに考えを広げたり深めたりすることができる。
終わりに
最後まで読んでくださりありがとうございます。
今回は「きれいごとばかりの道徳授業を脱却する」というタイトルで書いてみたけれど、道徳の授業だけでなく他の授業にも通じるところがあるなぁと思いました。
こうやって何かテーマを決めて言語化するのって難しい…。
きっと自分が思いつかない手立てや道徳ならではの方法があると思うので、もしよかったらコメントしてもらえると嬉しいです。
ぶっく📚