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読書ノート:「個性とは幻想である」

いきなりハイライトから

 「生きることの困難を取り扱うのが精神医学」――ここで取り扱うと中立的に言及されているものの、その目的は当然困難を少なくするため。だからサリヴァンは「(個性という)幻想を取り除くことができれば、生きることはずっと素朴に、そして喜びの多いものになります」と言う。


 医学の側面から言い換えられているのが、「新しい医学(=精神医学)の進歩」の「最大の障壁」が――

個々独立した、ひとり立ちする、確固不変でシンプルな「自己」がある妄想です。

ということになる。続く文脈でさらっと触れられている(ものの重要なの)は――

この幻想と並走している誤解、与えられた愛や優しさが受けとられたものと「同等」であるという誤解も直さなくてはなりません。

愛や優しさというものも二者の相互作用であること。あるいは、交流的な性質をもっている……この部分のニュアンスを正確に理解するには厳密には原文をあたりたいところだが……サリヴァンは続けて

私たちが観察するべきは、個人ではなく、人間が互いに何を取り交わしているかであります。互いに取り交わすものを互いにどうやってコミュニケートしているか、と言い換えてもいいでしょう。

と言う。「何を」「どのように」、コミュニケート=取り交わし=共有しているか、が(精神医学の)観察の対象ということだ。

 私たちの「シンプルな」幻想フィクションは、まず個人である。そして、もう一つのフィクション――コミュニケーションという言葉について、私はマジックワード(この言葉を使うことで実質的に意味を失う、あるいはトートロジーを引き起こすもの)であると以前から考えているが、サリヴァンに引き寄せるならそれがコミュニケートの内実を覆い隠してしまう安易な言葉だからだろう。

「個性とは幻想である」と私が言うのは、そう考えることが実際の対人関係に手を入れることをずっと簡単にしてくれるという意味においてです。これ以外の仮定に基づいた操作をするのでは、理論的にも相当な無理が生じます。別の言い方をすれば、議論の出発点としてどこが一般に都合がいいか、ということを私は言っているのです。

対人関係に「手を入れる」というのは、それが良くなるように(医者として)介入するということだが、サリヴァンのプラグマティズムがよく表れている言明だろう。繰り返しになるがサリヴァンには「生きることを楽にする」という目的がある。その際、最大の障壁が「シンプルな」幻想と表現され、より良い生が「素朴」と表現されていることを強調しておこう。つまり、私たちは、本来複雑なもの(人間関係、社会、文化)をシンプルに考えることで、素朴さから遠ざかっている――もっといえば、(精神医学的な)病理に陥っているということだ。
 そして、もう一点、科学哲学的なプラグマティズムが、「個性とは幻想である」というのも、一つの仮定であるということだ。もう一方に確固不変の「自己」という仮定があり、サリヴァンは、どっちが一般に(つまり病の治療の局面だけでなく普段の生活において)便利ですか、と言っているのだ。
 私なりの比喩で言い換えるなら、人生=生活は、平面(あるいは立方体/ユークリッド空間)ではなく、曲面があったりドーナッツ上になっていたりする。それをユークリッド幾何学で記述するから、理論的な無理が生じる。適切に記述できる非ユークリッド幾何学で考えるべき――といったところだろう。たしかに非ユークリッド幾何学は常識からズレているという意味で複雑なのだが、その計算は専門家(ここでは精神医学者の介入)の仕事であって、結果として得られる人びとの生活は素朴になる、ということだ。

分人主義との類似と相違

 分人主義が何かは、解説しない。平野啓一郎さんが2012年ぐらいに提唱していることのようだ。その中身は一見、サリヴァンの主張と似ているか、ほとんど同じである(例えば「私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます」107頁)。ここでは、内容の類似点よりも大切なポイントを押さえておくことにしよう。分人主義はその書き方ディスクールから、個人individualではなく分人dividual行為主体者エージェントとして考える、そういう主義=考え方という印象を受けるし、ある程度そうなのだろうが、あくまで「新しい人間のモデルとして提唱された概念」である。「新しい」という(シンプルな)形容に、古いものに取って代わるというニュアンスを持たせているのが、いってみれば学者かそうでないかの違いになるかもしれない。
 サリヴァンは、まず自己、個人、個性という仮定の都合の悪さ(役に立たなさ)を明確にし、別の仮定を試してみる。その別の仮定のコンテンツとしてサリヴァンの言う「自己」がある。「自己とは人格内部のシステムの一つ」(103頁)と書くのだが、原注(サリヴァン自身による注釈)で「人格」がそもそも仮説なので、そのコンテンツである自己とは、「仮説内仮説に過ぎないと留意しておくこと」(114頁)――このような位置づけである。だからこそ、サリヴァンは自己の代わりに自己という同じ言葉を(フロイトの自我などと混同しないように注意を促しつつ)使う。個人の代わりに分人といった、別の言葉をあてがっていない。
 このように、丁寧に見るなら、先の引用「対人関係の数と同じだけ人格の数」というのも、分人主義が主張する(私の過去の記事で「問題含み」としてきた)人格=ペルソナ(仮面)の付け替えという意味ではないことも分かるだろう。サリヴァンが人格というとき、個性とほぼ同じ意味で使っている。
 言うまでもなく「仮面の付け替え」という(分人主義の)分かりやすいアナロジーは、「仮面を付ける」主体としての自己や、「仮面を付けていない」自己などを想起させてしまう点で、言葉の厳密な意味でサリヴァンの水準より劣っている。

総論(感想)

 ここからは、「個性という幻想」に限らず、『個性という幻想』(に収めされた他のテクスト)を読んだ上での感想をまとめます。

サリヴァンの学的ポジションの特徴整理

 1つ目は、組織論的側面です。(ナチスを含む)「プロパガンダ」分析などで、幻想がリーダーシップに利用されることに言及しているように、特定の語や、それを含む主張が虐殺器官になるという――伊藤計劃もサリヴァンからヒントを得たんじゃないかと思えるようなことを言っています。そして、(明らかにフランクフクト学派の成果を経由して)幻想による組織化は、西欧的理性の帰結だとした上で、そうではない組織化(サリヴァンは機動化という言葉を使います)のガイドラインを示します。時代的には、対ナチス、対共産主義といった背景があるのですが、いわゆる議会制民主主義こそ正義(という現代ですら繰り返される)デマゴーグをきちんと退けています。
 2つ目(それぞれの特徴は互いに関係しますけど)は、精神医学の一般化です。フーコーであれば、間違いなく距離を取ったであろう、国家、人生、生活に対しての精神医学的介入をサリヴァンは肯定している……というより、それを推し進めた第一人者でした。ただし、目的は明確で、より良い人生、より良い国家(アメリカ)のためです。例えば、(良い)リーダーシップの組織化について……

〈知識にあふれ、利害にとらわれず、クリアな発信を継続的に行える人物を政府は探している〉ことと〈自分から行動したりオピニオンを公表することを通して将来の選択肢を増やすことが市民には期待されている〉こと

223頁

これなんかは、実に真っ当な見解……というか、現代の私たちにとってはガチで切実に求められることですよね。
 3つ目は、アーレント的複数性、あるいはサイコロジック・ガダマー(地平融合)といえるようなものです。社会には、そして世界(国と国=国際関係)には、様々な文化があるのですが、お互いに理解を深めていくことで「一体となろうとする」(一体になれる)という主張です。この点についてもサリヴァンは極めて現実的で、相互理解は時間もかかるし(文化人類学の役目とも言いつつ)学的専門性も必要だとします。しかし、(より良い世界のために)目指していくべきはこっちだよねと、はっきり示すわけです。それで、

ここまでに述べた手続きは、「永遠の世界平和を達成するまでの青写真」から全くかけ離れているに違いない。

284頁

と言っているのは、微笑ましくもしっかりしているなと思いました。微笑ましいというのは、カント(『永遠平和のために』)をさらっと流しているということです。ちょっと真面目に書くと、ポスト・カントの水準で、かつ学問的、現実的な主張を言っているということです。これは、当たり前のように思うかもしれませんが、そうではないですよ。哲学を教養程度にしか知らない学者(医学者)で、いまだにカントを有難がっている人なんてザラですからね(ぶっちゃけ哲学者にすらそういうのがいますが)。カントの理性主義(およびその世俗的派生概念)こそが、社会の困難の原因――「うまく生きている感触ウェルビーイングの減退」(271頁)の原因だと、はっきり言っているのは、単に優れた精神医学者であるだけでなく、生活を、世界を良くしようとする本気、気迫を感じるところでした。

現代とのギャップ

 当たり前ですが、現代はサリヴァン以後です。ここでは、私なりの絶望ポイントを並べてみます。
 まずは大きな話から。DEIとか部分的にSDGsもそうでしょうが、現代のある種の理想とそれに向かう「公式の」ロードマップは、根本から間違っています。それゆえ、「必ず」その理想に辿り着かないだけでなく、非常にしばしば、その逆方向に世界を動かします。私は(サリヴァンに同意して)学問的エビデンスをもっと重要視すべきだと思います。そういう意味で、例えばニューロダイバーシティに反対しているわけではないですよ。それはエビデンスが整っていきつつある分野ですから。そうではなくて、きわめて世俗的な、しかし強力に発せられるシンプルな政治的メッセージのほとんどは、サリヴァンの水準のはるかに下です。だからどんどん、ウェルビーイングが下がっているのです。この大きな流れは変えられないでしょう。
 今度は(サリヴァンも言及する)教育の現場について。個性を活かすという教育方針――これは間違っています。それがファクトに基づいていないということだけではなく、(教育の)役に立ってないです。むしろ(さっきの話と同じように)個性(という幻想)にこだわるから、個性や人格を尊重することができないんです。私の感想なんで、適当なことを言いますけど、教育者は(サリヴァンのように)本気で(生徒およびその集団を)良くしようとは思っていないのではとすら思います。この古びた常識も変わることはないでしょう。
 さいごに、グローバルに競走があり、失敗はしつつもトータルとして勝っていかなければならない民間企業において。「自分らしさ」を大事にするとか、それこそ「個性を発揮する」とか、サリヴァンの言葉では機動化(あるいは一体となろうとする)ことについてシビアなはずのビジネスの場で、なぜいまだに全くのトンチンカンがマジョリティを占めているのでしょうか。この点は、「本気」である点で、さっきの話とは違います。ビジネスシーンの行為主体者エージェント(それは経営者かもしれませんしリーダーかもしれません)は本気です。……ここがポイントだと思うのですが、彼らはビジネスの成功に本気なのであって、人間や人間関係、生活をより良くすることに本気なわけではないのでしょう。つまり、ビジネスの現場で使われる「個性」とは、人格を剥奪して、人を駆り立てるための言葉であるということです。言い換えると、「個性を尊重すること」で個性が尊重されないことを、エージェントは知っています。そしてまた、「個性を尊重すること」が人を駆り立て、生産性を向上させるのに役立つことを知っています。知っていながら幻想を駆使している――と考えるのが妥当でしょう。この流行は洗練されることはあっても、幻想を手放すことはないでしょう。

さいごに

 学校が、会社が、社会が、世界が、このような理屈で動いているなら、私たちに何ができるというのでしょう。対抗戦略――私はいくつかのテーマから最近の記事でこの周辺を探っているわけですが、それは一旦置いておきましょう。サリヴァンを読むことについて……サリヴァンが答えを与えてくれるわけではありません。いや、部分的にはほぼ答えといえるアイデアもあるのですが、それは一定水準以上の学者や哲学者の本にもあるわけです。そして、サリヴァンが正しいわけではありません。良い意味でプラグマティストであり、彼の主張(仮説)は役に立つかどうか試されるものです。また、彼のアプローチ(機動化など)にも賛否はあると思います。だって、ベースは戦時下(正確にはポスト戦時下)の理屈・戦略ですからね。
 その上で、素朴に次のように言えます――私たちが自分自身信じており、一対一の人間関係においても、社会関係においても潤滑油になっている、社会規範なり常識そのもの、ウェルビーイングを減退させている。一定の知的関心がある人は、これだけでも参考にすべきです。
 「個性」だけが幻想ではありません。また、(サリヴァンも言うように)幻想が即、悪いものではありません。その幻想、意味あんのか? 悪い効果しか無いなら(社会常識に反対表明するのは難しいので)無視しよう。こういったように考えることができるでしょう。そして、私のように悲観主義者ペシミストでないならば、より良い社会に役立つ幻想を探してみたり、見つかったものをなんらかのかたちで生活に取り入れることで実践してみることもできるでしょう。

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松岡鉄久
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