あの百合作品もすごい! 2023下半期
原則として、2023年下半期に発売された作品を対象とする。
書籍であれば、続刊がかさねられていないもの(5巻以内を目安)を優先的にあげていく。
各小見出しのほかに、大見出しの下に気になった作品を書きとめてある。そちらも参考のほど。
(サムネイルは『Little Goody Two Shoes』〈AstralShift〉よりお借りしました)
上半期からレイアウトを改良しました。
来年の2024年はこっち↓
【小説】
『神に愛されていた』
「推し活/オタ活」はいまの百合ジャンルを語るうえで欠かせない要素だ。
オーソドックスな部活動モノの系譜。
創作活動に打ちこむ”わたしたち”の物語化。
SNS・配信文化などで即座に/全世界から参照され、身近になったファンと表現者の関係性。
ライフスタイルや年齢層の変化にともなって、学生間にとどまっていた青春はいまや老若婦女を問わない環境にひろがっている。
プラットフォームからスポイルされ、衆目に晒される感想は一種のパフォーマンスとして進化する。
「限界オタク」とは情報社会に適応したドラミングのようなものだ。
「無理」「尊い」「😭」「(なんらかの奇声)」。パンチドランカー・アンセムはもっぱらファンコミュニティの盛りあげをもくろんで発せられている。
「感情の制御ができないほど人物Aへの愛が超越している状態」。
「人物Aが好きすぎるがゆえに、語彙力や表現力が限界を迎えてしまった状態」。
キャッチーなペルソナに扮することで、感想伝達の簡略化をはかる。本来ならば素面で入力されているであろう「限界オタク」ムーブだが、こう言いかえてみれば、誇張されたキャラクターとして百合ジャンルで流行しているのも不思議ではない。
「ファン⇔表現者」の関係性はいうまでもないが、いわゆるギャップ萌えの一環として「表現者→表現者」の関係性に限界オタクムーブが導入されることもある。
ベテラン表現者Aに、やたらと反応がつめたい新人B。実はAの大ファンであり、感情が臨界点に達しているがゆえ反応を返せないだけだった。こうしたコミカルな類型をVTuberやアイドル、同人作家モノでよくみかけることだろう。
『神に愛されていた』〈木爾チレン〉は、しがない女性小説家の回想をたどっていく。
全能感にあふれ活動していた20代前半。若さと美貌をたたえて文壇デビューした主人公。その目の前にあらわれたのは、おなじ高校、おなじ大学、おなじ部活を出て、おなじ新人賞をとった、自分よりも若くうつくしく、才能にあふれた天使だった。
授賞式。
ありがとうございます、光栄です。どんな相手にも「神対応」を返していく、アイドルのような彼女。そうして主人公の順番がまわってくる。
受賞おめでとうございます。と、懇切丁寧に声をかけた主人公に返されたのは、あきらかな作り笑いとぎこちない所作。「光栄」のひと言もなく、名刺の交換もない。あからさまに雑な対応だった。
創作活動とは骨身をけずって行われるものだ。
ああでもない。こうでもない。と、自問自答のすえにひねり出された血肉。自身の延長線上にある作品が、鑑賞者たちの「公正」な目によって他者の作品と比較され、順位づけられていく。たとえ些細なことばだったとしても、創作者を一生苦しめる生傷になりかねない。
ノイローゼにやつした表現者のまえで失言はご法度だ。ほんの些細なボタンの掛けちがいだったとしても物騒な物言いにとられ、以降の人間関係にゆがみをもたらしかねない。
語彙力が限界? 感情が抑制できない? そんなのが許されるのはコメディ世界だけだ。
『神に愛されていた』は生ぬるい限界オタク観をひっくり返し、コミュニケーション不全から流血沙汰まで発展する、未曾有のサスペンス小説である。
独特の語り口からわかる人にはわかってしまうものの、「ミステリ」を銘うっているため、ことの仔細を逐一ひろって論じることはできない。
タイトルの「神」がいったい何を指すのか。そうした仕掛けも本作の魅力である。ぜひ手にとって確認してみてほしい。
個人的に気に入ったのは、オタク特有の大言壮語がシリアスな響きをともなって発せられ、クライマックスを飾るカギとなるところだ。訓戒とともに本項目を〆たい。
オタク! 推し作家のまえで限界になるな
オタク! 感想はきちんと伝えないと死傷沙汰になる
オタク! 身体に気をつけてね
オタク! 首を洗って待っていろ
オタク! おれ以外に殺されるな
『沈没船で眠りたい』
バッドエンドとは、なにか。
バッドエンド好きなんです~っ。そんな百合好きどうしで語りあっていたはずのに。バッドエンドを迎えたのはわたしたちなのかもしれないね。そんなシャレも通じないくらい離散していく。
バッドエンドのなかで残ったきらめきをすすりたい人間と、バッドエンドのなかで恋人の真似事をしてグズグズになってしまう女女をすすりたい人間。
えーっ! わたしもバッドエンド好きだよ。愛がないがしろにされるシーンとかめっちゃ好きだし! ―――ないがしろにされたのは?
2023年。ストーリーもなかばの百合作品が「鬱作品」と喧伝され、賛否両論が巻きおこる。そんな経験を2回あじわうこととなった。
リリース初期からプレイをつづけている『アークナイツ』と、本稿でも後述することになる『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』のふたつだ。
(『アークナイツ』〈Hypergryph〉は男女混合のスマホゲームなのだが、2023年に実装されたストーリーのほとんどが女どうしの入りみだれた関係に徹している。実在した同性愛者かつ女性宇宙飛行士をモデルとする女が、まわりのあらゆる女を狂わせて宇宙へと旅立っていく『孤星』は『アークナイツ』屈指の名イベントとして評判を呼んだ)
「鬱作品」の定義は人それぞれだが、傾向としてはキャラクターの死やグロ描写の多寡による基準、鑑賞者自身が鬱々とした感情になるかどうかを基準にしていたりする。
バドエン厨の個人的な意見としては、やはり主要人物たちの行動が無に帰す作品を鬱作品とよんでいきたい。あれだけ頑張ったのに……という徒労感こそ無上のカタルシスをもたらす。
どれほど苦しい経験にまみれていたとしても、報いやご褒美がある作品はいただけない。人生に希望があるのはよくないとおもう。というわけで、上記の2作品は苦しさにあらがって希望をつかむ物語であり「鬱作品」ではない。そういった言説がよくみられた。
なぜこんな与太話をするかといえば、このバッドエンドがすごいぜ! と宣伝するにはどうしてもオチに言及しなければならないからだ。ネタバレも甚だしいので、関連する話をしてそこはかとなく言及するにとどめなければならない。
……そんなこんなで、『沈没船で眠りたい』〈新馬場新〉は下半期に発売されたバッドエンド百合作品のなかでも特筆すべきSF小説だ。
舞台は2040年代の日本。AI技術が発展し、生身の労働者から職業がうばわれてしまった世界。
機械によってうまれた余暇をつかい、反機械の学生運動にうちこんだりする。そんな同年代を傍目に冷笑する、冴えない女子大生・奥谷千鶴が主人公となる。
彼女が人付きあいを苦手とする理由は、痛々しい顔の傷だけではない。
医療が発達したとしても、誰もがそれにありつけるわけではない。「ましてや、日本では」とは作中のことばであり、高額な医療費を税金でまかなえるほど裕福な国ではなくなってしまっている。「美容医療は自己負担」。目立つ傷は貧乏人のあかしとして刻まれる。
そんな彼女とはあきらかにカーストがちがう美少女・美住悠。一体なにがお気に召したのか、とまどう主人公のパーソナルスペースにずかずかと侵入し、素知らぬ顔で話しかける。まるで旧知の間柄だったかのように。
「これいいよね。でも、ほとんどは苦しいだけだよ」。あたらしくも目減りした鎮痛剤のラベルや、今となってはめずらしい人力制作のバンドを共通の話題にして、ふたりは惹かれあう。
千鶴に思わせぶりで、それでいてどこかに消えてしまいそうな悠との関係。彼女はきっと弱い千鶴を必要としている。そんな想いとは裏腹に、生まれつき脆弱な悠の身体はすこしづつ機械に置きかわっていく。
対話型AI「ChatGPT」の力をかりて執筆された本作は、少々複雑な構成をしている。
上記のあらすじは一部を抽出したものにすぎず、本来の物語は男刑事による視点からはじまる。過激派反機械団体の幹部・奥平千鶴はなぜあのような行動をしたのか? 警察の視点から謎めいた主人公の足どりをたどる本作は『その女アレックス』〈ピエール・ルメートル〉や『容疑者Xの献身』〈東野圭吾〉のようでもある。
後者の結末を本作と対比したい。『容疑者Xの献身』ではハッピーエンドともバッドエンドとも取れないような「きらめき」を繋ぎとめる幕切れが飾らていた。ラブ・ストーリーに殉じるのは『沈没船で眠りたい』もかわらない。しかし繋ぎとめられたのは……? 人の尊厳について考えさせられる一作だ。
『沈没船で眠りたい』の書籍情報ページ
『きみと雨上がりを』
『可哀想な蝿』
2023年11月、『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』〈ゲームフリーク〉の書きおろし短編小説『きみと雨上がりを』〈武田綾乃〉がWebで公開された。
原作ゲームは3つのシナリオを自由に行き来しながら攻略できる。
学校生活に馴染めなかった子どもたちを追う「スターダストストリート」。
機能不全家庭で育った不登校児・ペパーとともに食材を探す「レジェンドルート」。
前述のふたつにくらべて、従来の『ポケットモンスター』シリーズに則り8つのジムを攻略する「チャンピオンロード」の主役・ネモは描写不足が目立った。
ゲームシナリオの攻略対象が掘りさげたいキャラクターそのものだったり、直接関わったりする前者ふたつとちがい、後者の攻略対象はさまざまなキャラクターがトリをつとめるジムとなっている。道中でネモとの交流がなされていくものの、その内面に踏みこめるほどの尺を割くことはできない。
発売当時はネモの妄執的な戦闘欲求ばかりに目をむけられ、3シナリオ攻略後の一幕や、シリーズ過去作との習俗比較などから内面が考察されるにとどまった。
『きみと雨上がりを』はその不足部分をネモ視点から補足するとともに、主人公との友情もディティール豊かに描かれている。
慣例として、主人公の性別がえらべるゲーム作品のメディアミックスは男主人公になることが多い。『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』の主人公はおよそ10歳ほどと噂されており、それくらいの年齢層であれば男女の友情もめずらしい題材ではない。そこで女主人公をえらんだ株式会社ポケモンと株式会社ゲームフリークの慧眼に敬服の念がある。
親友/ライバル、おなじ悩みを共有するふたりを書くにあたって、同性という下地はほどよく馴染んでいく。
(逆にいえば、友情を書くにあたってあえて男女をえらぶというのも求められていくのかもしれない)
なによりも衝撃を受けたのが作家のチョイスだ。
青春群像劇の書き手、武田綾乃である。
京都アニメーションによってアニメ化がつづけられている代表作『響け! ユーフォニアム』シリーズの吹奏楽にはじまり、カヌー部や放送部など部活動を舞台にしつつ学生たちのきらめきを追う。
その視線はもっぱら女子どうしの感情にあてられており、部活動そのものではなく、思春期に部活動を体験することで人生観にどう影響をもたらすのか、という観点で綴られているようにみえる(最近では男子の内心にも目を向けられているようだ)。
ジュブナイルかつスポ根をテーマにするだけあって、ストーリーにはしばしば挫折がともなう。吹奏楽や放送部の大会サイクルが緩慢で、明確に勝敗を決するわけではないのも一因だが、勝った負けたでつまずくよりも、人間関係や部活動へのスタンスのちがいなどが障壁として取りあげられる。
『きみと雨上がりを』で掘りさげられていくネモの内心は憂いをたたえている。
舞台「パルデア地方」は過去作『ポケットモンスター ソード・シールド』の「ガラル地方」などとくらべてポケモンバトルが盛況な土地柄ではない。
ガラル地方では専業のポケモントレーナーたちが軒をつらねていたが、パルデア地方のポケモントレーナーたちはおおむね兼業であり、巨大なバトルスタジアムなどは備えられていない。
ほか地方では勝ちぬき制の王者として君臨しているチャンピオンという称号も、ここではあくまで優れたトレーナーという意味あいでしか付与されない。
ネモは類まれなバトルセンスを持ちながらも、それが生かせない土地に生まれついてしまった。そうした考察は以前からなされていた。
半端な努力しかしていない人間に「才能」を敬われ、雲のうえの存在として崇められる。そこへやってきたのが主人公という逸材である。
小説全体をながめてみると、武田綾乃の長所と噛みあいながらも、ふだんの作風とはちがう点がいくつか見受けられる。
たとえば似たものどうしの物語であることだ。ネモは主人公に対し自身とおなじ領域にあがってくることを期待している。これは従来の武田綾乃作品にはあまりない傾向だ。
どちらかといえば、おなじ性別おなじ年齢おなじ分野で活動しながらもすれちがっていくふたり、それでもぶつかりあうことでズレを視認しながらもおたがい認めあうふたり、など「おなじになれないふたり」が代表的な造形といえる。
上記に引用した武田綾乃原作マンガ『花は咲く、修羅の如く』では、渦中のネモと正反対の話をしている。
「他人に真似されるのは好きじゃない」とこぼす強者。このページに『花は咲く、修羅の如く』の主人公は描かれていないものの、このあと強者のスタイルにガッツリ影響されてしまい、キツめのガンを飛ばされてしまう章の回想である。
強者目線というのもめずらしい。
代表作『響け! ユーフォニアム』シリーズの主人公は演奏経験こそ長いものの、上位層やいずれプロになる部員とくらべると見劣りする。
『君と漕ぐ―ながとろ高校カヌー部―』の主人公はまるっきり初心者で、シリーズ初頭は置いてきぼりにされている印象がぬぐえなかった。
放送部マンガ『花は咲く、修羅の如く』の主人公は子どもへの読みきかせ歴がながく、持ちまえの声音を褒められることはあるが、放送部大会でもとめられるような技術はからっきしだ。
『響け! ユーフォニアム』シリーズの番外編では、ほかの登場人物に視点がゆずられる。ここで選出される人物も、どちらかといえば実力の足りていない、劣等感をかかえているキャラクターが多い。
武田綾乃作品において強者とは見上げるものであり、その内心は強者自身の口からでしか伝えきくことができない。
こうして比較してみると『きみと雨上がりを』は武田綾乃の諸作品と似ているようで似ていない。大人気ゲームシリーズのスピンオフというアプローチで、氏の秘められた一面が引きだされた。そう考えるのも乙なものだろう。
では『きみと雨上がりを』に取りいれられることのなかった、武田綾乃のドロドロとした部分はどこへいったのだろうか。
2023年9月に発売された短編集『可哀想な蠅』〈武田綾乃〉にその答えが詰めこまれている。
氏の作風は青春群像劇にかぎらない。社会風刺的なシスターフッドはもちろん、ぬめつくような読了感をもたらす「嫌ミス」もお手のものだ。
『可哀想な蠅』全四編の短編小説はすべて女性ふたりの関係性に焦点をあてており、そしてそのほとんどが苦々しい終わりをむかえている。
SNSの愚痴垢を飼いつづける表題作「可哀想な蠅」や、ご地域の猫好きとの交流に”鼻をあかす”「まりこさん」。
なかでも短編集書きおろしの「呪縛」は特に筆がノッている。
DV彼氏を惹きつけてしまう女性を保護し、女性ふたりの同居生活を心の拠りどころにする。いままで自我を抑える生きかたをしてきた主人公が、自分よりも立場のよわい彼女に感化されてDV気質へ変貌していく……。
諸行無常、まるで人間の自由意志を愚弄するかのような物語に身の毛がよだつ。これこそ本短編集の醍醐味だ。
四編のなかで唯一「重ね着」は前向きな姉妹愛を抱きとめている。
十年ぶりに地元へかえってきた、マリッジブルーの妹。
十年づきあいの彼氏と喧嘩した、実家でだらける姉。
仲むつまじい姉妹らしく、悪態づきながら近況を報告しあうすがたに、作者の近況も見てとれる。氏は2021年に結婚し、その後のインタビューで結婚をとおした人生観の変化を語っている。そのしずくが「小説新潮」2022年3月号に書きおろされた「重ね着」なのだろう。
上半期でも言及したが、2024年4月からTVアニメ『響け! ユーフォニアム』シリーズ最終章が放送される。
女性どうしのドロドロとした感情……ではなく、”善意”による関係性の亀裂。部活内の人間関係に視線をそそぎつづけた武田綾乃の、真骨頂ともいえる青春群像劇に期待したい。
『ココロノナカノノノ』
出生時に死にわかれた双子の妹をずっと信じてる。
『ココロノナカノノノ』〈戸森しるこ〉は奇妙なメタ認知をもって語られていく。
毛利正夫。父親。
毛利奈菜。母親。
毛利寧音。主人公。
毛利野乃。生まれくることができなかった妹。
毛利家の食卓には野乃の席がある。主人公には野乃の声がきこえるし、野乃のにおいを嗅ぐこともある。
児童文学作家・戸森しるこの語り口。わたしは本作と、同作者の『理科準備室のヴィーナス』しか読んだことがないので大それたことは言えない。
「あなたたちの心の動きに興味がある」とは『理科準備室のヴィーナス』で主人公たちをかどわかす先生のことばだが、同時に主人公もその視点とファムファタールの気質をもっており、自身を嫌う少女にわざわざかまいにいったりする。
そうした眼差しは作者本人の視線とかさなるようでもある。
『ココロノナカノノノ』も多分にもれず、主人公は妹の実在をうたがいつつも、妹を信じつづける自分が他人とはちがうことを理解したうえで人間関係に身を投じるし、物語としても、主人公とひびかせあうようにさまざまな一石を投じていく。
序盤に登場するイマジナリーフレンドをもつクラスメイトは、本作の方向性をほどよく指示してくれる。
このクラスメイトもメタ認知をたずさえて、自身のイマジナリーフレンドが架空のキャラクターであることを指摘する。野乃は実在した妹であり、けっして架空の存在ではない。だからあなたとわたしは同じではない。
こうした手つきで似た属性をならべていくのが本作の特徴だが、序盤も序盤に残酷な一石が投じられる。
母親が再度妊娠し、生まれることができなかった妹の席が、これから生まれてくる妹によって奪われていく。
両親が浮きあし立つなか、主人公の内心はおだやかでない。
浮かされるのは夢のなかの自我だ。自分が野乃で、死んだのは姉の寧音。熱病に蒸されるような意識のなかで発したことばは誰のものか。
『ココロノナカノノノ』のプロットのひとつは「妊娠・出産」にまつわる意識の話なのだが、ここで小話をしたい。
11月にX(旧:Twitter)である出産レポマンガを読んだ。マンガ家・古山フウによって描かれたものだ。
「イマジナリー赤ちゃん」にまつわる表現がおもしろく、投稿ツリーのなかばでも多数の共感コメントがつけられている。
このページはふたつの意図で受けとれそうだ。
イマジナリー赤ちゃんがじわじわと実体を得ていくのではなく、唐突に現実化する。そのスピード感に驚いた。という意図と。
イマジナリー赤ちゃんが生まれてくるのではなく、肉体をもった別の赤ちゃんが投下され、イマジナリー赤ちゃんがどこかへ消えていく。という意図だ。
ページ中央の「あーれー」とことばを発するぽわぽわが、一回転して腕のなかに落ちてきたのか、それともどこかへ飛んでいっているのかで解釈が分かれる。
コメントを見ると後者の意図で受けとっているひとが多いように思える。
本稿としても後者を採用したい。
というのも毛利家における野乃のあつかいは、肉体をもつ現実的な赤ちゃんに弾きだされることのないまま「イマジナリー赤ちゃん」として保持されつづけているようにも取れるからだ。
それは母親の想像上にとどまらず、家族全員の心で孕んだ共同意識である(あえて共同”幻想”とは言わない)。
戸森しるこは恐ろしいことに、ここで生じたひとつの懸念を取りあげる。
こうした「イマジナリー赤ちゃん」を喪失できるのは実際に出産を経験する母親だけである。とするならば、母親(と、もとからそんなに信じてなさそうな父親)の手をはなれた共同意識は誰に課せられることとなるのだろう。
魅力的な枝葉をはぶいて足早に本作の結末へ目をむけると、読者を放りなげるかのような勢いで断たれている。
主人公のあたらしい妹・るるの視点でつづられる未来の話だ。
この世に生まれてくることができず、母親から受けつがれた妹の存在を、自身の身体から産みなおす。その後生まれるであろう現実的な赤子に「野乃」の概念を宿すことができるのか。続きが語られることはない。それともただ単純に、心のなかの妹に語りかけているだけなのだろうか。
戸森しるこ作品にとって名前とはたいせつな概念らしい。『理科準備室のヴィーナス』でも重要なファクターになったが『ココロノナカノノノ』も違わない。
なな、ねね、のの。るる。五十音順での距離をあらわすように、るる視点で語られるエピローグはどこか疎外感をともなわせる。
あたらしい妹によって変わっていく野乃の立ち位置や、るる自身の立ち位置になぞらえるように、本作にはもうひとつストーリーラインがある。主人公・寧音とそのクラスメイトの籾山/まりものグループ。その流動だ。
籾山とまりもは幼なじみで、寧音は新参だ。籾山と寧音がその距離を縮めていくなかで、まりもと寧音の仲はいいとはいえない。
ある日グループで水族館へ行くことになるが、籾山が急病をわずらったため仲のわるいまりもと寧音の組みあわせで進行することとなる。百合作品は水族館に行きがちだとか言われるが、仲がわるいふたりで、というのもめずらしい。
クマノミとイソギンチャク。野生と飼育下でかわる依存関係に着目するシーンも筆舌に尽くしがたいなかで、まりもから打ちあけられる籾山への気持ちは。
百合好きとして、近年の児童文学/ヤングアダルト小説は見逃すことができない。
10月にエモーショナルな表紙をひっさげて出版された『9時半までのシンデレラ』〈宮下恵茉〉は、束縛のつよい親から逃避する主人公と神秘的な不登校児との恋愛が彩られている。
5月に出版された『YA!ジェンダーフリーアンソロジー TRUE Colors』はメルクマールとして輝かしい。カミングアウトするかどうかをなやむ女性カップルの話を筆頭にして、シスターフッド的につながる友愛や、男性どうしの恋愛、MtFの図書委員とギャルの友情も注目にあたいする。セクハラしてくる父親との関係や、男子と生理との距離感の話も好印象だ。
9年前にある百合作家が「百合ではない」とことばを濁しながらも同性愛に近似する物語をつづっていた角川つばさ文庫。前述の作家とはちがう人だが、青春群像劇『一年間だけ。』〈安芸咲良〉の続刊で2021年から女性どうしの恋愛に取りくみはじめ、2022年には女性カップルをメインにするなど躍進がつづく。
熱心な児童文学の読み手いわく、女性同性愛を取りあつかう作品が今年はもうすこしあるそうだが……(令丈ヒロ子によってリプレースされた『吸血令嬢カーミラ』だろうか?)。来年も諸手をあげて浸っていきたい。
『教室のゴルディロックスゾーン』
(上半期の補遺)
『教室のゴルディロックスゾーン』〈こざわたまこ〉は女子中学生たちの関係を渡りあるく連作短編集だ。
対象年齢としてはヤングアダルトの領域だろう。それぞれの短編は舞台と登場人物を共有し、視点や時間軸がバトンのように手渡されていく。どちらかといえばチャプターわけされた長編小説の趣がつよい。
発売日は6月28日で、わたしの目には下半期にみえる。
「ゴルディロックスゾーン」とはなんだろう。大仰な響きとはうらはらに、イギリスの童話『ゴルディロックスと3匹のくま』に由来することばだという。
童話のあらすじは簡素なものだ。大中小のクマが暮らす家に少女が侵入する。テーブルには大中小の粥が冷まされており、大きなお椀は熱すぎ、中ぐらいのお椀は冷たい。小さいお椀は「ちょうどよい」あたたかさで、少女はすべて飲んでしまう。同様にして大中小の椅子とベッドにもこれを繰りかえし、やはり小さいサイズが「ちょうどよい」。
家へ帰ってきたクマをみて、少女はおどろき逃げていく。
英語圏ではそれなりに知名度のある童話のようで、各分野で「ちょうどよい程度」をあらわす言いまわしとして「ゴルディロックス(Goldilocks)」が使われている……らしい。
では『教室のゴルディロックスゾーン』とは、玉石混交の教室で「ちょうどよい」居場所やナワバリを見つける物語なのだろうか。その推測は半分……いや1/3程度しかあたってないかもしれない。
本作の文章内でも「ちょうどよい居場所(生息可能領域)」という意味で「ゴルディロックスゾーン」がタイトルコールされるが、連作短編に共通するテーマは「嘘」あるいは「罪」のほうがふさわしい。
妄想へ浸りがちな女の子に、拒絶する女の子。モノを盗む女の子に、モノを”ゆずった”女の子。クラスを支配する上位カーストは、いびつな四角形で繋ぎとめられている。
すなわち本作の「ゴルディロックスゾーン」とは、元童話の「盗み食い・器物損壊(椅子)・不法侵入がバレて逃げだす少女」たちの関係性を意味する。
わたしたちが子どものころ、世界はおぼろげで不確かなものだった。
まわりの事物はわからないことだらけで、理解できるほど賢くもない。真実がわずかばかりしか存在しない子どもたちの世界で「嘘」はたやすく行使される。
巻頭の短編「胡蝶は宇宙人の夢を見る」は本作でもっともインパクトのある章だろう。
信頼できない語り手によって夢と現実がないまぜになり、どちらが真実なのかわからなくなる。「胡蝶」の名にふさわしい本章は、ささくれだった世界から子どもを守る膜としての”嘘”を取りあげる。
視点人物の依子は「さきちゃん」との友情を取りもどそうとするが、肝心の「さきちゃん」にとってはどうだろう。またあの頃みたいに仲良くなりたい、と依子は願うが……。ふわふわとした世界のなかで、読者はあらぬ方向から足場を失っていく。
本作はライフステージにともなう交友関係の変化も焦点にある。小学生から中学生、世界の明瞭度があがるにつれて付きあう人間もかわっていく。つづく短編「真夜中の成長痛」ではそれでいて、明瞭になることが必ずしも正しいわけではない、と視点人物を叱責する。やさしい嘘によって守られる関係もあれば、鋭利な嘘によって自らをも傷つけてしまう少女もいる。
前半の短編は二者間の関係性に焦点をあてている。しだいに関係性は四者間に拡張され、さらなる混乱を少女たちに押しつけていく。
『教室のゴルディロックスゾーン』の読書体験はお世辞にもお砂糖とスパイスでできているとは言えない。煮詰められすぎたカラメルの味を知って少女たちは大人になる。
【オーディオブック】
「覗き窓の死角」
/『invert II 覗き窓の死角』
【この項目は『medium 霊媒探偵城塚翡翠』の間接的なネタバレがあります。ご注意ください】
・『medium 霊媒探偵城塚翡翠』
・『invert 城塚翡翠倒叙集』
・『invert II 覗き窓の死角』
〈すべて 著者:相沢沙呼〉
第20回本格ミステリ大賞受賞。
『このミステリーがすごい! 2020年版』国内編1位。
『2020本格ミステリ・ベスト10』国内ランキング1位。
Apple Booksの「2019年ベストブック」ベストミステリー。
「2019年SRの会ミステリーベスト10」1位。
「すべては、伏線」。一作目『medium 霊媒探偵城塚翡翠』に授与された5冠が輝かしい城塚翡翠シリーズは、二作目『invert 城塚翡翠倒叙集』から女探偵と女助手のバディ小説になる。
現三巻からなる本シリーズは、オーディオブック配信サービス「audiobook.jp」によって全作品オーディオブック化されており、二作目は同サービスのユーザー投票によって大賞に選ばれるなど好評を博しているようだ。
本来ひとりまたはふたり程度の朗読になるオーディオブックにしては豪華な一キャラ一声優のフルキャスト方式、丁寧なSEやBGM、さらにオーディオブック限定の書きおろしボイスドラマなど、話題作だけあって相応の作りこみがなされている。
ところで、一般文芸のオーディオブックでアニメ声優はどのような演技をするものだろうか。
TV番組のナレーター、吹き替えドラマ・映画、あるいは展覧会の音声ガイドなど、声優の仕事は多岐にわたり、たとえ聞きなれたアニメ声優であっても違う人物のように聞こえることがある(奇妙なたとえだ!)。
そもそも声優ではなく、俳優を採用することも珍しくなく、さまざまな兼ねあいのなかで、その場にあった演技が選択されているはずだ。
そんなこんなで、オーディオブックで城塚翡翠を演じる大人気アニメ声優・古賀葵は……恐ろしいほどに耳なじみのある、高音域の萌え萌えアニメボイスを響かせている。
作中でも美少女と評され、アニメ声を指摘されている探偵「城塚翡翠(CV:古賀葵)」と、ずぼらな主人をたしなめて補佐するマニッシュな助手「千和崎真(CV:田澤茉純)」の掛けあい。
ふたりが気心知れる仲なのもあるが、何よりもその声質によって、本格ミステリの雰囲気にまるで似つかわしくない、百合アニメのような様相を呈していく。
2023年11月、三作目『invert II 覗き窓の死角』のオーディオブック化にともなって書きおろされた『invert 番外編』三作品は、いずれも女主人公と助手の休日を掘りさげるものとなっており、さらに「#ひすまこ」というハッシュタグをもって宣伝されるなど、カップリングを楽しみたい層へのファンサービスに力が入れられている。
(上記試聴動画のほかに、2024年2月14日まで『invert 番外編 城塚翡翠のナビゲート』が全編公開されている)
しかしここで取りあげたいのは番外編ではなく、本編三作目のほとんどを占める表題作「覗き窓(ファインダー)の死角」だ。
城塚翡翠には友達とよべる存在がいない。
探偵として本心をさらけだすことは少なく、かかわる人間はことごとく事件に巻きこまれていく。浮世ばなれした振るまいは女ウケがわるく、邪な男たちを惹きつける。
千和崎真は助手、家政婦のようなものであり、翡翠いわく友達という肩書きはしっくりこないようだ。
そうした環境に身をおく翡翠にとって、本格ミステリ小説という共通の趣味によって知りあった「江刺詢子(CV:福原綾香)」は、一生の友になりうる女性であった。
行きつけのカフェのささいな出来事から。女性ポートレートを中心に活動する写真家・江刺詢子と、あどけない容姿にミステリアスな雰囲気をただよわせる翡翠。春の陽気もほどほどに、ふたりで撮影に出かけるほどの仲になる。
道すがら、車内にて。本格ミステリトークに花を咲かせるなかで何気なく投げかけられた冗談が、蜜月にわずかな歪みを生みだしていく。
霊媒探偵にして奇術師。あるいはスピリチュアル・カウンセラー。城塚翡翠の捜査は超心理学的な”推理”によっておこなわれる。
『invert』シリーズに特有の作劇は「倒叙ミステリ」。犯人がわかっているにもかかわらず、物証がないため逮捕することができない。そこでカギとなるのが翡翠の対話術だ。
思わせぶりな演技、わずかな淀みも見逃さない観察眼。さまざまな”トリック”によって言質をかすめ盗る。物語はもっぱら翡翠と犯人の語らいによって進行していく。
翡翠を突きうごかすのは、殺人への妄執的な戒めの感情。そこには何かしらの過去がにじんでみえるものの、真相はいまだうかがい知れない。
すでに詢子はその手を汚している。が、よりにもよって「翡翠と過ごした休日」がアリバイになり、完全犯罪が成し遂げられようとしている。友情と正義。翡翠ははたしてどちらを取るのだろうか。
ファインダー越しにことばを交わし、被写体の心を引きだしていく撮影術と、妹を死に追いやった人間に対する冷ややかな復讐心。そんな江刺詢子の二面性と、探偵・城塚翡翠の複雑な内心が、声優によって情感たっぷりに再現される。
息づかい、言いよどみ。わずかな声色の変化はもちろん、一人称視点で語られる殺人鬼の内心に、ぴったり添いとげるSEとBGM。パチパチ、さわさわ、と。春風のなかでシャッター音がきざまれる、ミモザや桜のゆれる情景にかぐわしい女性ふたりの共鳴と、まるで似つかわしくない殺人鬼と探偵の舌戦。
華やかな語らいが、一瞬にして凍えていく。数時間にもおよぶ探りあいに、鑑賞者はただ息を殺して聴きいることしかできない。
駆けひきにみちた会話劇が、本作を至極のオーディオブックにたらしめる。
著者・相沢沙呼が主演声優・古賀葵との対談で語るように、本作はもとより声を意識してつくられている。原作を読んだことがある人間も、オーディオブック版ではちがう印象を受けるかもしれない。
百合ボイスドラマと倒叙ミステリって相性めちゃくちゃいいんですよ!!! そんな狂人の訴えが聞こえてきそうな本編「覗き窓の死角」とは裏腹に、書きおろしボイスドラマ『invert 番外編』三作品はストレートな主従百合のオンパレードになっている。ここで「audiobook.jp」の料金体制に注意したい。
「audiobook.jp」にはサブスクプランがふたつあり、聴き放題プランとチケットプランがある。聴き放題プランは文字どおり契約期間中聴き放題。チケットプランは月1,2枚とどくチケットで作品が購入できる。
ただしこれらで視聴できるのは旧作だけであり、新刊は買いきり購入しかない。
留意しておくべきなのは、『invert II 覗き窓の死角』を買いきり購入したとしても『invert 番外編』はついてこない点だ。番外編は聴き放題プラン専用であり、個別購入することもできない。
もっともお得な視聴方法は、聴き放題プラン初回利用時の、2週間の無料期間をつかう方法だ。聴き放題プランには500円分のポイントもついてくるので『invert II 覗き窓の死角』も安く買うことができるし、旧作を読んだことがないひとも聴き放題で履修できる。
よりお得に視聴したい人間なら、数年ほどまって聴き放題に入るのも手だし、硬派な人間であれば原作小説を直接手にとるのもありだ。
ともかくとして、『invert II 覗き窓の死角』が至高の百合ボイスドラマであること覚えていただけると冥利につきる。
本シリーズ一作目『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は、数々のミステリ小説をコミカライズしてきた実力派マンガ家・清原紘の手でマンガ化されており、2023年9月に全3巻で連載を遂げた。
本シリーズが女探偵女助手のバディ小説になるのは2作目からであり、2023年12月現段階では続報などは無いものの、同マンガ家による続編のコミカライズも期待したい。
また、原作者の相沢沙呼はアニメ文化にも親しんでいる作家だが、氏の著作がアニメ化されたことは未だない。そちらの方面でも目が離せないシリーズである。
【マンガ】
短編マンガを記憶するものは少ない。短編集の表題作にでもならなければ塵芥のように忘れさられていく。
上半期の補遺として「愛と苺」〈湯切優〉を記載しておかなければならない。
「佐藤 苺瑠衣(ベリィ)」と「田中 愛の記憶(スイートメモリー)」。キラキラネームのふたりは、好悪さまざまな関係性を経由しながらも特別な関係として結ばれていく。
たしかな描写力やすぐれた構成などに目を見張るが、その結末は誰しもが呆気にとられることだろう。ふたりをつなぐものが失くなったとしても、築きあげられた友情は不滅である。
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『ガールクラッシュ』〈タヤマ碧〉はK-POPアイドル・オーディションマンガだ。
御時世のアイドル作品にしてはめずらしく、不祥事などの場外乱闘がない、純粋な実力主義の世界。作品にならうように主人公もマジメ腐った性格をしており、カリスマモデル風の容姿があるだけの器用貧乏キャラクターとして設計されている。
電子のみの発行をつづけ7巻となる最新刊(2023年12月現在)は分水嶺となった。主人公の上位互換でありながらも年齢的に後がない先輩との揺すりあいがじっとりと描かれる。
人気男性アイドルとの色恋沙汰をでっちあげられるまであと一歩……というところで、今まで切磋琢磨してきた同期生ふたりとの友情が主人公を繋ぎとめる。それでいて、ゴシップに手を染めようとした先輩すらもあたたかく抱擁する作劇は、個性豊かな少女たちのぶつかりあいを扱いながらも、やましいところのない本作の美点を強調するようであった。
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『みょーちゃん先生はかく語りき』〈作画:無敵ソーダ / 原作:鹿成トクサク〉はいわゆる性教育風エロコメ(?)である。そんなジャンルが存在するのかはわからないが……。
マジメだけどおっちょこちょいな保健室の先生が生徒たち(女子がほとんどだが男子もたまに)の性の悩みに答えていく性欲全開の本作。そこまで厭らしさをまとわないのは、みょーちゃん先生が生徒たちへ真摯に対応するからだろうか。
少女たちとのやりとりも見どころだが、固定カプ(?)となる女性教師陣のOLモノっぽい絡みもツボ。なかなか顔を映してくれない夫の性生活もあるし、百合か? と問われると迷うところだが……。
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『とくにある日々』〈なか憲人〉は脱力系ギャグマンガだ。2023年の終わりに人気エセエッセイ作家・犬のかがやきとの同一化を発表した氏だが、ギャグマンガ家でありながら女性どうしの関係性にも造詣がふかく、さまざまな著作で百合を確認することができる。
2023年の最新3巻では「ふたりだけの世界」をテーマにド級のエピソード投下されていく。が、これを見て『とくにある日々』って百合マンガだったんだ! と気づく人間は周回遅れだ。
そもそも本作は最初から主人公ふたりの距離がやたら近く、パーソナルスペースをガッツリと絡みあわせながら行動をともにする姿がよくみられる。なぜそこまで仲良くなったのかは語られることがないが、ふたりが一生を誓いあった仲なのは容易に察することができるだろう。
よく関係性が成就したら連載のおわりだとか言われる百合マンガだが、それならば成就するいきさつを描かずにその後の世界からはじめればよい。簡単な話だったようだ。
ところで、中憲人となか憲人は同一人物なのだろうか?
『恋より青く』
前作『春とみどり』〈深海紺〉。
百合好きの知人におすすめしたところ、その母から感想がかえってくるなど老若男女をとわないプラトニックな愛が好評を博した。
旧友の葬式に参加したら瓜ふたつの娘を引きとることになった……。キャッチーな書きだしをこさえた前作とは違い、新連載『恋より青く』〈深海紺〉は放課後のまどろみに留まっている。
熱中できるほどの「何か」がない。
怪我で部活を引退した女子高生が、おなじミステリ小説を取りちがえたことから、他校の少女と帰り路をともにするようになる。
読切から連載に発展した『恋より青く』は、木漏れ日のように曖昧な日々をすくっていく。感情のたゆたいを柔和にとらえる深海紺氏の手法もあいまり、本作をひと言で評するのはむずかしい。
いわゆる心理描写多め、モノローグ多めといわれる類のテイストだが、ときたまにくどく感じられてしまうこれらを『恋より青く』はうまく捌き切っているように思える。
たとえば、モノローグといえどもある程度の使いわけがみられる。丸いフキダシに丸いシッポは、オーソドックスにキャラクターの今の思考を表現している。シッポのない四角いフキダシはキャラクターが枠内に存在しないときにつかったり、やや俯瞰的な思考をあらわすのにつかう。
これらはほかのマンガでも当たり前にみられる表現だが、本作はフキダシのない、背景に直接書きこまれた抒情文をよくつかう。ここで発せられる言葉は、キャラクター自身が未来から自省するかのような響きをともなっていたりする。第一話も直書きの抒情文で締められるが、だれのセリフともとれないような、CMなどでよく口ずさまれるポエム/コピーのような情緒がある。モノローグはモノローグでも、単調な語りにはなっていない。
ほかにも、コマ割りに工夫がみられる。上記のページも背景が擬似的なコマ割りになっており、ちょっとした機転がうかがえるが、本作で特徴的なのはむしろコマ外、空白の部分だ。
コマとコマの隙間をたっぷりもって時間経過をあらわしたり、セリフやモノローグをコマ外に書きこむことで、空白がキャラクターの息づかい/思考領域のようなニュアンスをふくんだりする。時間軸によって、ときには空白のうえにコマがあるのではなく、コマのうえに空白があるかのようにもみえる。余裕のある構図が、これもまた単調さを消す一助となっている。
しかしこれらは枝葉で、本作の郷愁にも似た雰囲気をかもしだしているのは、もっと別の部分だ。
2023年12月現段階で1巻しか刊行されていない『恋より青く』だが、その1巻のなかで繰りかえし印象づけされている描写がある。
それは「背中」と「視線」だ。
キャラクターがなにかしらの望郷や逡巡をにじませるとき、しばしばその視線のさきに背中が描かれているのである。
その背中は遠くかすみ、とどかない距離にあることを強調する。
これにかぎる話でもないが、マンガにおいて正面顔というのは複雑な意味をもつ。
絵の特性上、表情を描くためには顔をアップにうつすしかないので、キャラクターに信念を発信させたいときや、キャラクターが目の前の情景をどうとらえたのかを伝えたいときに正面顔が選択される。
面白いのは、読者をしっかりと見据えているにもかかわらず、しばしば物語内では対話相手を見据えていることになっていることだろう。複数のキャラクターの正面顔をならべることで面向きあった対話を表現するのはいまや当たり前といってもよい。
しかし『恋より青く』だと事情がかわってくる。主人公とヒロインの逢瀬はもっぱら電車通学の帰途にあるからだ。
車両長辺側の内壁に沿うよう設けられたロングシート。そこには肩をならべる形でしか腰かけられず、相手をみて話そうとするならば、横を向くか、身体ごと捻らなければならない。すると自然に、身体をひねらない正面顔は、ここではないどこかを眼差すような視線をたたえるようになっていく。
遠く郷愁をにじませる背中や、それをながめる視線などを踏まえていくと、『恋より青く』1巻でもっともインパクトのあるシーン、第5話の結末で暗黙裡に語られようとしている意図や文法を読みとけるはずだ。
共通のミステリ小説から帰り路をともにしはじめた主人公(黒髪)とヒロイン(白髪)が、やがて通学路の外へ足をのばし、本屋であたらしい本を買おうとする。そこで主人公の元部活メンバーと遭遇し、主人公の心にくすぶる過去へ踏みいり、ふたりは閉口してしまう。このさきにページはなく、背中だけが写しだされてエピソードが終わる。
思うにこのシーンでもっとも重要な所作は、横を向いていたヒロインの顔が正面を向くところである。これまでの条件づけによって、その視線は自分たちの背中を追っているようにみえる。
また単純に、キャラクターの背中は伏せられた状態をあらわすのかもしれない。
本作は奥行きを強調することがあまりなく、キャラクターたちを斜めからナメるようなダイナミックな構図もとらない。空白との距離感を考えながら、平面であることを意識してキャラクターが配置されている。
朴訥した物語によくなじむこの絵柄は、意識すれば紙人形劇にも見えなくはない。
たとえばつづく第6話の冒頭、過去を話しはじめた主人公が、背中から徐々にななめ、横顔と振りむいていく描写に、カードをめくるようなニュアンスを感じることもできる。第2話の終盤、立ちさりぎわの背中が呼びとめられ、手をそえて会話を継続する意志をしめしたあたりから、ふたりの背中→横顔と移行していき、最後に正面からふたりをみるかたちで終わる描写などもそうだろう。
また第2話の該当シーン、ふたりの背中→横顔と移行するシークエンスの間に、主人公のバストアップの正面顔がうつされ、そむけた顔の方向に次ページがあり、そのページの横顔の向きと合致するシーンに、物語世界内での方向と画面演出上の方向の交差をみることができる。マニアックすぎ!?
本来ならばごまかしの意味をもつはずの「顔をそむける」という動作が、物語世界内の方向とは逆の「ヒロインのほうを向く」という意味に変質する。作者の平面的なとらえ方をよくあらわす一幕だが、「横を向く」という動作がポジティブな意味になるのもおもしろい。
前述したように本作の舞台はおおむね電車内のロングシートになり、正面顔だからといって必ずしも対話相手をみている意味にはならない。とするならば本作は正面よりもむしろ、横を向いている状態にこそ関係性を意識する意図があるのかもしれない。たとえば第1話の結末や、第1巻の結末などがそうだ。
『恋より青く』はこのように独特な表現技法が作品の雰囲気をささえている。ほかにも空気遠近法やひかえめに散らされた少女マンガ風のトーンなどがあるが、黒にかけられたカケアミは本作でも目を惹く表現だろう。
過去に未練をのこす主人公は長髪をたたえ、登場人物のだれよりも黒い。カケアミがささくれ立つような、煤けた印象をあたえている。
主人公だけではなく、主人公にただならぬ感情をいだく元部活メンバーも黒いジャージを着てあらわれる。主人公をふくめた校内の女子グループのなかではやさぐれた、つっけんどんな付きあいをする彼女だが、もともと部活に誘ったのも彼女が主導であり、主人公の未練について思うところがあるようだ。
前作『春とみどり』で強烈なヒラエス(もう戻れない場所への郷愁)を焚きつけた深海紺。本作は後悔や未練といった後ろむきの感情を、電車という舞台をうまく生かしながら表現に落としこんでいる。言葉にされないまま避けられている何かを絵であらわしたり、フラッシュバックするかのような思い出の差しこみもまた画面の緊張をたもっている。
しかし作品の骨子となるのは人間関係だ。ひかえめな少女たちが尾を引かれながらも自分たちのペースで交流をかさねていく。その様子を見守ることに徹しよう。
『守娘』
纏足。あるいは胎児を男児にかえる数多の呪い。
『守娘』〈シャオナオナオ/小峱峱〉は古く台湾を支配していた男尊女卑の歴史とともに、ある心霊を夢想する。
まず目を引くのは、その謎めいたストーリーテリングを引きたたせる、黒のめざましい筆致だろう。
コントラストのきいた画面は清朝時代の呪術的な側面をきわだたせ、女性たちを蝕んでいた閉塞感をあらわにする。
ミステリ風のプロットと、ダイナミズムを重視する画面を補足するように、『守娘』の幕間には注釈がびっしりと記されている。
いわく「守娘」とは台湾三大伝説のひとつ「陳守娘(タン・シュウリョン)」のことを言うらしい。
未亡人のまま政略結婚をしりぞけて貞操を守りとおし、むごたらしい死のあと悪霊となって復讐をなしとげた陳守娘。女性たちの願望を一心に祀られる彼女の位牌は、いまも台南孔子廟で見ることができる。
では本作はおどろおどろしい心霊ホラーマンガなのか……と勘ぐられるかもしれないが、意外にもそうではない。
『守娘』は怨嗟による復讐譚をのぞまない。
悪霊として崇めまつられる作中の陳守娘はむしろ、ホラータッチの端々から浮いてしまうほどに人間味があり、死に永らえてなお苦悩する人のかたちを保っている。
伝承では、陳守娘は守護聖人・廣澤尊王ですら収拾がつかないほどの騒ぎになり、観音菩薩の手によって沈静化がはかられた。
一切の復讐を水にながすとともに、貞節を守った女性たちの祠にまつられよ。これが語りつがれてきた仔細だが、マンガ『守娘』ではそこに独自の解釈をくわえる。
「許可なく人に危害を加えることを禁ずる。もし関われば消す」。悪霊ではなく、非力な御霊にすぎなくなった作中の陳守娘は、復讐を祈られながらも手をこまねいて見守るしかない。
と、ここまで陳守娘のことばかり語ったが、本作の主人公は裕福な家の娘・杜潔娘(ド・ゲリョン)だ。
長く健康的な足をもち、因習にとらわれることのない彼女は、読者と近世異国の橋渡しをしてくれる。人一倍霊感がつよく、霊の怨念を感じる彼女からしても陳守娘は人間にみえる。
『守娘』は表現で魅せるタイプの作品なのでこれ以上の解説は必要としないだろう。陳守娘の苦しみと、杜潔娘にむけられる慈愛のまなざしはシスターフッドのようなきらめきを持ちつつも、儚い発露をむかえることしかできない。本作がどのような哲学でしたためられているのかは、ぜひ上下巻で。
『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』
壁になりたいだとか、観葉植物になりたいだとか。
わたしが百合作品を語るにおいて散々持ちだしているミームにそういうのがある。百合作品鑑賞の心理を面白おかしくこじらせた言いまわしである。
百合作品の全体的な傾向として、主人公に自己投影するのではなく、主人公とヒロイン(ないし主人公と主人公)のやりとりをほほえましく見守る……そういった鑑賞態度が持てはやされており、そういう見方を補助するようにキャラクターの立った主人公が設けられている。
そうした観点からすると『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』〈ネコ太郎〉は奇妙な作品に思える。というのも、主人公の個性づけがあまりなされておらず、読者とかさなるような凡庸な属性を付与されている……すなわち自己投影しやすいようにつくられているからだ。
下半期の百合作品にちょうどいい比較対象があるので比較してみよう。
2023年秋アニメにもなった『私の推しは悪役令嬢。』〈いのり。〉は『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』とおなじようにゲームの世界に転生して悪役令嬢との絆を深めていく百合作品だ。
『私の推しは悪役令嬢。』の主人公はかなりエキセントリックで、セクハラに抵触するような行為も辞さない。悪役令嬢への想いをおおっぴらに宣言しつづけ、本人に嫌がられてもやめることはない(弁護のため言っておくと、ギャグの要素を多分にふくむ作品である)。
その背景には前世の苦々しい記憶があり、異世界ファンタジーから脇にそれ、現代でのいざこざに紙面が割かれることもある。
『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の主人公は控えめでおとなしく、キャラクターへの愛情もおおっぴらにすることはない。自身の優しさからゲームシナリオを歪めようとはするものの、人道から逸脱するような献身はさほど見られない(比較対象が悪すぎるだけで、十分お節介焼きではある)。
彼女がお節介焼きになった前世世界の出来事が語られないというわけではない。が、頑張ってるひとのサポートをするのが生きがいだった、一生主役になれない人生だと悟った、というのはある程度の歳をかさねた人間にありがちな人生観ではある。結局のところ、主役とはひと握りの人間しかなれないものだ。
またヒロインとの付きあいかたも180度ことなる。前述するように『私の推しは悪役令嬢。』がアグレッシブに愛をつたえるのに対し、『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』はかなりの奥手……というよりも自身が攻略されるようなかたちで進行していく。
後者は(どちらかといえば、主人公を攻略するという意味での)攻略対象も複数人存在し、タイトルに銘うたれているように悪役令嬢はもちろん「ゲーム上の女性主人公」との交際も前面に押しだされている。なによりも印象づけられているのが、攻略対象から守られるように抱擁されるシーンの多さだろう。守る側と守られる側が明確になったこの構図は、彼女の受動性をほどよくきわだたせる。
こうした比較をとおすことで『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』主人公の受動的な態度が浮きぼりになっていくわけだが、結局のところ「自己投影」とは何なのか疑問におもえてくる。
物語への没入度に注目した論文が国内外に存在するものの、しばしば自己投影だと揶揄される「小説家になろう」の作品や、オリジナル主人公を登場させる二次創作小説「夢小説」などに適用した例はなく、路端の討論から実態を推測することしかできない。
(ちなみに『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』はweb小説のコミカライズなどではなく、マンガ家・ネコ太郎によるオリジナル作品である)
乙女ゲームでは、プレイヤーのスタイルとしてふたつの陣営があげられている。「自己投影派」と第三者視点でたのしむ「ヒロイン派(あるいは見守り派など)」だ。
識者によれば近年は自己投影派が支持するような無個性の主人公がへり、キャラの立った主人公をすえる乙女ゲームが増えているそうだが、ともかくとして、無個性なら自己投影派、キャラが立っていればヒロイン(見守り)という見立てはおおむね一貫している。
持論として、ここには「蓋然性」という観点があるのではないか。
自己投影先として見られやすい主人公のタイプが「自分に似ている」ではなく「平凡」や「無個性」という形容詞でくくられているのに注目してほしい。
当然だが、作品の鑑賞者として現実世界を生きるひとびとは、誰ひとりとしておなじ人生を送ってないし、独自の体験/独自の感覚によって形づくられた個性をたずさえている。「平凡」「無個性」といわれる主人公と、必ずしもかさなる面があるわけではない。
傲慢な話だが、わたしはおよそ普通の人生を送れていない、という負の自負がある。統計と比較すれば確実に小数点以下におさめられるであろう自身から見ても、自己投影しやすいなあと感じる主人公は「平凡」といわれる類のものだ。
予想するならば、自己投影先としてえらばれやすい「平凡」は鑑賞者自身から抽出されたものではなく、統計的な蓋然性にもとづく「平凡」なのではないか。
「もし自分が主人公とおなじような境遇で育てばこうした人間になっただろうし、こうした人間であればこういう思考/反応をするだろう」。自身を主人公に投影するのではなく、主人公の立場に自身を”投入”する見方。蓋然性にもとづいた「平凡」は、このような視点を手助けする。
『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の主人公・名取翠は、25歳にして夢見た「大人」にはなれず、主役にはなれないことを早々に悟った人間だ。突出する「なにか」をもたない彼女はまさしく「平凡」な主人公といえる。
とはいえ、物語が良い物語たるには、なにかしらの機転や一歩踏みこんだ視点を要するものだ。ストーリーが進行するにつれ、本作主人公の「平凡」ではない部分があきらかになっていく。
すぐれた事務能力。「先にいる人」への気遣い。極端にお節介焼きな彼女の美徳。つまるところ社会に居場所がない、という悩みは業務内容の不一致、秘書業務にリーチできなかったのが原因では? と勘ぐらせる内容だが、これこそが主人公の「非凡」な部分といってもよい。
しかしその人格形成の経緯が、ある程度万人に共通するような体験になっているのが本作の憎いところだ。学生のころ裏方仕事をして、輝いているあのひとの力になれた。就職先でパワハラをうけ、正解がわからなくなった。主体性のない、脇役にもなれない自分。
そうした普遍的な体験に『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』はなぐさめをあたえる。「平凡」な主人公を入りぐちとしながら、読者の「普遍的」な悩みに手をのばし、慰労する。こうした手つきこそが、『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』が自己投影を可能とさせる、読者を抱擁するような、懐のふかさを保持しているゆえんだ。
つまり「先にいる人」への気遣いとは、本作自身にもいえる美点なのである。
『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の特徴的な部分として、「悪役令嬢」の造形にも言及したい。
前提として、概念としての「悪役令嬢」と作品としての「悪役令嬢モノ」には大きな差がある。
概念としての「悪役令嬢」は以下のようなものだ。
さきほどから「概念」と念おすように、これらの元となるキャラクターがはっきりと存在するわけではない。乙女ゲームにありがちな悪役像だったり、少女マンガにありがちなライバル像だったりが混濁し、万人にうっすらと共有される集合的無意識となって立ちあがった姿が「悪役令嬢」だと言われている。ちなみに、大抵金髪で長い髪(しばしば縦ロール)をしている。
「悪役令嬢モノ」の萌芽は2010年代前半の「小説家になろう」だ。
もともと「乙女ゲーム転生」が流行しており、その亜種として悪役お嬢さまを主人公とした『謙虚、堅実をモットーに生きております!』〈ひよこのケーキ〉が、当時女性向けの肩身がせまかった「小説家になろう」では異例の大ヒットを記録する。これが「悪役令嬢モノ」のルーツとされている。
おおまかな骨子を引きつぎながら、さらに二の矢がヒットする。
前述の『謙虚、堅実をモットーに生きております!』が果たせなかった書籍化/マンガ化を通過し、悪役令嬢モノとして初のアニメ化までをもなしとげた、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』〈山口悟〉である。
これらの作品に共通するのは、悪役令嬢たる主人公がコミカルに描かれていることだ。というか、厳密にいえば主人公は悪役令嬢ではない。本来ならば悪役として活躍するはずの「悪役令嬢」に、人格を塗りつぶすかたちで転生してきたプレイヤーである。当然、悪として裁かれるわけにはいかないので、あの手この手でフラグを回避する。いわば俗っぽかったり、あるいは誠実だったりする。
概念としての「悪役令嬢」からかけ離れた人物が「悪役令嬢モノの悪役令嬢」をやる。こうした作品がヒットすることで、「悪役令嬢」の概念汚染が発生する。悪い人間ではないし、ちょっと抜けてるところがあるし、趣味も俗っぽい。とても悪役とはいえない、ギャップのあるキャラクターが悪役令嬢になっていく。
今となってはこうした悪役令嬢が多数をしめ、悪役らしい「悪役令嬢」はたまにしか見ることができない。
こうした背景を踏まえて『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の悪役令嬢さまを見てみよう。
めっちゃ悪そうな顔しとる……。 発想もヤバいぞ!
そう、本作は「悪役令嬢モノ」に汚されることのない、オリジンの「悪役令嬢」をとらえており、そのカリスマを存分にあじわえる作品なのだ。
前述した自己投影型の主人公もあいまり、全人類に共通するある願望……高貴な「悪役令嬢」さまにつかえたい、という根源的な欲求にこたえてくれる。それが『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』なのである。
……ところで、本作のある記述がX(旧:Twitter)で取りあげられ、ちょっとした話題になったりした。
「この国の『庶民』は読み書きと簡単な算数程度の知識しかない」。これは作中の悪役令嬢さまの発言だが、引用で言及されているように庶民がこの水準の知識をそなえるようになったのは、公教育制度が敷衍される19世紀後半から20世紀あたりの話となる。
『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の舞台は近世ヨーロッパを彷彿とさせる文化体系をしており、わたしたちの世界と比較すると突拍子もない教育水準にみえる。もちろんこれは作者・ネコ太郎みずからによって「現代日本で作られたなんちゃってヨーロッパのゲームが舞台」と説明されており、「小説家になろう」をはじめとする異世界転生系の作品にありがちな、俗に「ナーロッパ」とよばれる世界観に則ったものと推測できよう。やれ、異世界になんでジャガイモあるんだとか、この世界にもサンドウィッチ伯爵がいたのかだとか言われるが、そういう細かい部分を省略しないと本題に入れないのが物語という媒体の枷だ。
このとき、作者・ネコ太郎がのこした端書きに興味をひかれる。
前述したように『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』の悪役令嬢さまは今となってはめずらしく、悪のカリスマとして君臨なされている。作中でもその心中のおだやかでない様子……庶民に対する粛清的な思考がうかがい知れたりする。一種の私怨や自己犠牲、破滅願望にも似た感情もみてとれよう。
「人は自分の観測範囲を世界の全てと思い込む」。なぜ作者はこのような補足をしたのだろう。もし悪役令嬢さまの認識がなにかしらの歪みをふくんでいるとするならば……。別世界で庶民だったことを表明する主人公・名取翠や、「ゲーム上の主人公(庶民あがりの聖女)」などといった上澄みの庶民に囲まれている現状は、そのバイアスを強化する傾向にある。
主人公・名取翠は「庶民粛清計画」を知りながらも、悪役令嬢さまの信念であるならば、と添いとげる覚悟をつげる。はたして庶民を賢く見積もりすぎた……損得勘定がまるで庶民にもそなわっていると信じているかのような……視点は、どのような破滅をむかえるのだろうか? 今後から目が離せない。
……というのはバドエン厨の妄想で、本編は恋愛マンガとしてめちゃくちゃピュアッピュアの様相を呈している。これでバッドエンドはないっしょ。むしろ伝説になれるかもしれないが……。バドエン厨はすぐ悪い方向へ妄想する!
『恋じゃねえから』
『恋じゃねえから』〈渡辺ペコ〉のあらすじは複雑だ。
本作の人間関係は以下のようになっている。整理のため、主人公を最後尾に記載する。文中に登場する「学生時代」は26年前の話となる。
・元塾講師。男性。主人公とその親友の学生時代に講師として関わる。
現在は彫刻家で、親友の学生時代の裸を模して作品をつくり、発表する。
・主人公の親友。女性。胸に特徴的な手術痕がある。
学生時代に塾講師と交際しており、そのとき裸の撮影を許可した。塾講師および主人公とはもう何十年も会っていない。
・主人公。女性。
知人のツテで塾講師の今の活動を知り、親友に伝える。
つまるところ親友と元塾講師、それらの弁護士/代理人にまたがる問題であり、場末の翻訳家にすぎない主人公にできることはない。
そうはいっても旧友の寄りそいは心のささえになるのでは? と思うかもしれないが、主人公と親友のあいだに発生する空気は微妙な温度をたもっている。
主人公と親友、あるいは家族との会話で印象付けられていくことだが、主人公は「その情報を伝えることで相手がどう思うか」を考えるまえにことばを発してしまう性格だ。実の娘には交際関係やダイエットについて口出して嫌がられるし、元塾講師の今の活動をつたえることで親友を苦しませてもいる。そもそも学生時代疎遠になったのは親友のSOSを主人公が無視したからで、それによって親友は姿を消すこととなった。
そうしたお節介にも思えるかかわりとは裏腹に、26年ごしの再会から何度も逢瀬がかさねられ、過去の回想もはさまれながら、シスターフッドと呼ぶには濃密な友人関係がつづられていく。
件の彫像について、親友の受けとめかたはハッキリとしない。
怒りのようなものはある。でもあのときの私たちは確かに恋人だった。ただただ裸を間接的に公開されたことに動揺しただけのようにもみえる。主人公の不器用な付きあいに苛立ちつつも支えられているのだろうか。積もり積もっていく鬱憤は、はっきりとしない元塾講師サイドや、マジメに問題として取りあつかってくれない社会へむけられているのでは。いや、怒りの矛先をしぼることで元凶を明確にしようと試みている? 作者・渡辺ペコの無表情な筆致もあいまり、心情を察するのがむずかしい。
元塾講師やその妻でもある秘書の内心などにも目をむけられ、群像劇めいて思惑が錯綜する。そうした作風に煙を巻かれていくが、それ自体が被害者の感じているモヤモヤを再現しているのではないか。
晦渋な展開と、独特の温度感でしたためられていく友情。疑念もほどほどにむかえた2023年最新3巻で、物語が一気に動きだし、主人公の役割を知ることとなる。
元塾講師サイドは穏便にすませたい。親友はムカつきをだれかに認めてほしい。主人公は親友のために手を尽くしたい。それらを一点に集約するブレイクスルーとは。
不可逆的なカタルシスに興奮が冷めやまらないが、物語はまだまだ始まったばかりである。連載中の百合/シスターフッドマンガのなかでもとりわけ続きが気になる作品だ。
『ホラー女優が天才子役に転生しました
~今度こそハリウッドを目指します!~』
原作未読。
『ホラー女優が天才子役に転生しました ~今度こそハリウッドを目指します!~』〈作画:樫谷 / 原作:鉄箱 / キャラクター原案:きのこ姫〉。
本作は小説投稿サイト「小説家になろう」で連載中の転生小説、そのコミカライズになる。
転生といっても現代社会から異世界への転生ではなく、現代社会から数十年後の現代社会に生まれかわる「現代転生」というジャンルのひとつである。小説家になろう特有の転生モノというより、古今東西で類型がつくられている「生まれかわり」といったほうがシンプルかもしれない。とはいえ、細かい文法は転生モノに由来する。
かつて日本を震撼させ、ホラー女優の名をほしいままとしていた主人公・桐王鶫。ホラー映画の呪いとでも言うかのように、その生涯は若くして閉ざされる。
そうして5歳の少女・空星つぐみに魂を宿し、ホラー女優の道を再出発するわけだが、前世と現世をわけへだつ20年の歳月が物語に箔をつける。
表現者の名声はどうしてか死後増すものだ。特に若き才能がついえたとなれば、その悲劇性が一層猛りをみせる。生きていればと勝手に未来を想像され、一生越えることのできない壁としてライバルの心に禍根を残す。
20年(5歳に転生したので実際は15年)は主人公のかつての同期たちが所帯をもつのにちょうどいい。本作の登場人物は「桐王鶫の同期」と「その子どもたち」の二層にわかれつつも絡みあいながら進行していく。
桐王鶫にただならぬ情をいだく大人たちと、空星つぐみの才覚にはじめての感情をいだく子役仲間の姿。転生前の知識をもってまわりの人間たちを圧倒するのは転生モノの醍醐味で、転生先から転生前の世代を確認するのは同世界転生の特徴といえる。
なによりもその”情”が、女性どうしに交わされる嫉妬とも憧れとも言いきれない”何か”なのがグッとくる。ただひたすらにホラー女優としての頂を目指す主人公とは裏腹に、新星のまたたきに周囲はかき乱されていく。
本作の見どころは、桐王鶫に狂わされた親世代のスティグマが、そっくりそのまま子どもたちに植えつけられていることだ。母親になったとしても過去の感情を引きずりつつげる女性と、その血を受けついだ子ども。二世代にわたる負の関係性はそれだけで独自の重力場を築きあげるが、それを摘みとるのもまた主人公なのである。
役者を題材した作品群のなかでも本作品は「ホラー」に視点をしぼっている。「ホラー女優」とは幽霊/怪物役専門、つまり悪役を中心に演じることを意味する。その役のイメージが役者の風評にも影響し、ゆえに好んで演じられはしない。
それでも「ホラー女優」に惹かれつづける主人公の目的は、人を怖がらせることでも、消えないトラウマを植えつけることでもない。むしろその逆、強烈な感情を焚きつけ、大切な人たちとの絆を再確認してもらう。恐怖をつうじた精神の浄化にある。
だからこそ主人公はスティグマによって友人が苦しむ姿に手を差しのばそうとする。それでいてその手段が油断の隙、心のスキマにすっと侵入するホラーの手口というのも、本作を魅力的な作品に仕立てあげているのだろう。
【アニメ】
『ポールプリンセス!!』(エイベックス・ピクチャーズ/タツノコプロ/ポールプリンセス!!製作委員会)は上半期に言及するか迷ったアニメーション作品だ。
エイベックス・ピクチャーズとタツノコプロによって企画され、2022年末からYoutubeにて順次公開されていた本シリーズ。見どころはなんといってもモーションキャプチャによる3DCGポールダンスだろう。
ふしぎな力で飛んだり跳ねたりが日常茶飯事だったアニメーションにおいて、あえてポールを導入することで嗅覚・味覚についで未開拓だった「重力」をいかんなく表現する。
ながらく陽の目を見ることがなかったポールダンスのアクロバティックさにせまる本作は、もう少し百合要素が強ければ……! という思いであえなく記事から漏れてしまっていた。
その思いは、2023年11月末に公開された『劇場版 ポールプリンセス!!』(エイベックス・ピクチャーズ/タツノコプロ/ポールプリンセス!!製作委員会)で一気に花開くこととなる。
既存アニメでは匂わせ程度だった女女関係はもちろん、複数人によってひとつのポールを共有するダンスムービー、極めつけには「女が女の穴をくぐり抜ける曲芸」まで披露する。身体が知恵の輪でできてんのかい! 女女関係もこんがらがってバラバラになったら嬉しい!!!
惜しむらくは配給がかぎられており人によっては視聴がむずかしいことだろう。かくいうわたしも恥ずかしながら断念した身で……。座して待つ。
『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』
物語はなんかものっそい修羅場からはじまる。
どうやらガールズバンドが解散するようすらしい。
さすがの離別百合好きとしても開幕別れ話は攻めすぎではないか? と震えあがるが、薄暗いトーンが冗談ではないことを強調する。
中心人物らしき少女が解散を切りだしてはいるものの、その理由について明らかにすることはなく、メンバーは動揺を隠せない。
伝播する戸惑いは憤慨へとかわり、怒声まじりで矛先をなすりつけあう状況に発展する。
そこを颯爽と斬りつける「私は……バンド、楽しいって思ったこと一度もない」というメンバーのセリフ。
『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(BanG Dream! Project)は随時このような緊張感で進行する。
本作(以下『MyGO!!!!!』)は2014年よりブシロードで発足したメディアミックスプロジェクト『BanG Dream!』のTVアニメ第5弾にあたる。
長寿コンテンツとなり新参でも楽しめるかどうか不安……という方もご安心。
『MyGO!!!!!』では既存キャラクターが本筋に介入せず、完全新規キャラクターによる群像劇となっている。
わたしも過去にちょろっと触れてたくらいの人間(?)だったが、前提知識の要求もないまますんなりと視聴できた。新規キャラクターたちの開幕解散話でひっくり返ることをすんなりというのかはわからないが。
『MyGO!!!!!』を牽引するのは不完全なコミュニケーションだ。
驕り、嫉み、はかりごと。「駆けひき」とよべるなら生易しい。
実際のところは未成熟で、感情の抑制/伝達がつたないまま言葉をぶつけあってるにすぎない。
第一話で視点人物をまかされる「千早 愛音(ちはや あのん)」は例として適任といえよう。
冒頭で引用した解散劇とはまったくもって関係ない彼女の素性は”喋れもしない”英語圏へ留学し、”発言もできないまま”スピード帰国したなんちゃって帰国子女だ。とんでもないビッグマウスで、つい力量以上に自身を騙ってしまう。
帰国後、転校初日。流行ってるからという理由でガールズバンドをはじめようとする。当然希望は主役のギターボーカルである。ちなみにどっちも素人のぺーぺーで、演奏が好きなわけではない。
バンドアニメの主人公が音楽好きじゃなくてどうすんだと思うかもしれないが、安心してほしい。主人公は他にもいる(定義による)。
与しやすそうなクラスメイトの「高松 燈(たかまつ ともり)」に目をつけるものの、自閉気味なこの少女こそ、冒頭の解散劇でもっとも深いキズを負ったボーカル作詞担当だ。そうとも知らずあのんは地雷原を総ナメしていく。
そうした態度は燈を神聖視する「椎名 立希(しいな たき)」に敵視され、心に一物をかかえる「長崎 そよ(ながさき そよ)」に利用される。
本作の特徴は、こうした千早愛音の傲慢な内面や、椎名立希の敵意、長崎そよの奸計をガッツリ描写するところだ。おもて向きは品行方正にふるまうそよの穏やかでなさそうな内心は、食い気味になるセリフや落ちつきのない指先のアップで匂わせられる。
ほかにもバンド最後のメンバーとなる「要 楽奈(かなめ らあな)」は神出鬼没の放浪猫だし、冒頭の解散劇にとどめを刺した少女はもちろんとして、冒頭のバンド・CRYCHICを結成し登場人物たちを泥沼に叩きこんだ「豊川 祥子(とがわ さきこ)」自身が一方向的なコミュニケーションを代表する。結局のところ、みな彼女の物をいわせぬ牽引力に心酔し、身を託したツケを払っているにすぎない。
こうしてエゴ丸出しの人間関係が火の車になって進行し、毎回インシデントに尾をひかれながら迎えるEDの「――ああなんて生きづらい世界なんだろう」というフレーズが重くのしかかる。バンド結成後に撮られたであろう息のあったMV風のOPみて「なにがどうなったらこうなるんだよ」と叫びながらつづきに食い入るしかない。
まるで火遊びのような会話劇が『MyGO!!!!!』の魅力だ。バンドアニメといいつつ初ライブは第7話までお預けされ、もっぱらビートを刻んでいるのは鑑賞者の心臓である。
だとしても『MyGO!!!!!』は罵りあったり歪みあったりするだけではない。「迷子でもいい。迷子でも進め」と謳われるように、不器用なりに藻掻きながらもバンドとして結実していく過程に本作の真髄がある。
コミュニケーションの哲学者・三木那由多は自著『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』でふたつの概念を軸に「会話」を解剖した。
「コミュニケーション」を「発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営み」と定義し、「発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営み」として「マニピュレーション」と名づけた。
わたしもまだ完全に咀嚼できているとはいいがたいが、簡単にたとえるとこうだ。
これからデートにいく百合カップルのあいだで「雨降りそうだね」ということばが交わされる。こうした確認行為によって、ふたりのあいだで天気が崩れそうだと認識していることを約束する。これが「コミュニケーション」。
「雨降りそうだね」の先にある(雨降りそうだから別のことをしたい)という目的が「マニピュレーション」だ。(あわよくばおうちデートにしたい)
きちんと伝えられたにもかかわらず、このあと「雨が降るなんて知らなかった」とでもいえば「雨降りそうだね」で共有された約束が反故にされてしまう。それが「嘘」と呼ばれている。
そう考えてみると千早愛音は嘘つきではない。彼女は「留学する」という約束事を反故にしなかった。ことばを濁しながらも不本意なことには口をはさむし、燈の「一生、やろう」という誘いに唯一真剣になやむ。動機が邪なだけで「コミュニケーション」でできる約束事に人一倍真摯なのが彼女だ。
長崎そよはその弱さで本編中盤を牽引していく。代名詞ともなった「なんで春日影やったの!?」で激情をあらわにする彼女だが、ごくごく冷静に「(やらないなんて)そんなこと言ってないけど」と返されてしまう。過去のエピソードをさかのぼってみれば、適当なことばでごまかす彼女の声が聞けるはずだ。その後の「なんでもするから」には約束を守る手立てすら無いことを見破られ、「私が終わらせてあげる」と言いながらも手持ち無沙汰で参上する。
長崎そよのコミュニケーションには「約束」という概念がない。そもそも約束を反故にするための前段階すらできているか怪しい。
千早愛音が部外者にもかかわらず仕切りたがりで物語序盤をかき乱したように、長崎そよのディスコミュニケーションが中盤から終盤への行く手を阻む。だからこそ千早愛音が長崎そよをひっぱりあげ、壇上に立たせなければならない。
こうして並びたててみると『MyGO!!!!!』にはまともな登場人物が……もとい、個性豊かなキャラクターしか存在しないことに気づく。その尖りかたには従来の『BanG Dream!』シリーズとの違いが見てとれる。
『BanG Dream!』といえばやはり、アニメキャラクターらしく天真爛漫な少女たちが多い。彼女たちは自分の世界を持っていて、それが不特定多数にチャームポイントとして受けいれられている。もちろん鬱屈した気質をかかえるキャラクターも少数おり、大抵は陰を陽でおぎなうような組みあわせがなされている。
『MyGO!!!!!』では前述したようにマイナス面を強調したキャラクターが軒をつらねる。千早愛音や長崎そよのほかに、ドラム/作曲担当の椎名立希は人一倍あたりがつよい性格をしている。セリフのほとんどは暴言か、高松燈をおもんぱかる言葉だ。音楽面でも、かつてみなを率いていた豊川祥子や吹奏楽部部長をつとめる姉ほど器用に指揮できない。
だれよりも主人公らしく描かれるボーカル/作詞担当の高松燈はひときわ異彩を放っている。同級生よりも発達が遅れ、常にうつむいており、コミュニケーションには独特のテンポがある。自分だけの世界を持っており、ものを収集する癖が目立つ。彼女の悩みは「人間になりたい」。
従来でも発達障害の傾向があるキャラクターが居たことには居たものの、チャームポイントではなく”生きづらさ”に多大な影響をおよぼしているあたりが『MyGO!!!!!』らしい造形といえよう。
本編第3話は示唆にとむ内容だ。高松燈と豊川祥子の出会い、CRYCHICの結成と初ライブ、そして第1話の冒頭につながる。これらがすべて高松燈の一人称視点によって傍観される。
発達障害者のコミュニケーション不全の要因に、メタ認知能力の低さがあげられる。彼女はみんなと同じようにできないと嘆くが、そもそもとして自分自身を客観的に視認できていないのだ。ズレを比較し矯正するためにはまず対象を認識しなければならないが、鏡にうつる自分を疑わしげに見つめることしかできない。友人とともに写真を撮ることもあるが、彼女の視線が自分をとらえることはない。自身の身体感覚が世界と溶けこみ、暗闇に手と足がくっついてるようにしか認識できないために、ついうっかりでその身を投げだしそうになってしまう。
それを引きとめたのが豊川祥子だ。祥子によって集められた少女たちとの繋がりのなかではじめて、高松燈は他者と自身がおなじ世界にいることを認識する。
千早愛音、長崎そよ、椎名立希、高松燈ときて、最後のバンドメンバー要楽奈は4人とは一味違うキャラクター造形をしている。
物語終盤や脚本家インタビューにて語られるように、彼女は『BanG Dream!』シリーズ初期の舞台となったライブハウスの、オーナーの孫として初登場し、過去シリーズと『MyGO!!!!!』をつなぐ架け橋として、音楽面でメンバーを牽引していく。音楽性ならぬ女癖でバンドをえらび、天性の音楽センスを披露する彼女は、シリーズ従来のキャラクター群に似た天衣無縫さがみとめられるだろう。
彼女がその化身をつとめるように、本作を成りたたせているのはある種の音楽信仰だ。
ここまでドロドロとした人間関係を披露している『MyGO!!!!!』だが、釣りあいを取るように、バンドアニメでよくあるようなライブシーンでの失敗は描写されない。陰の努力があるとはいえギター初心者の千早愛音は素人目にわからないほどの合奏を披露するし、音楽へ向きあう心がまえがときたま欠けている長崎そよもそうだ。特にそよは家庭環境の激変によって中学からお嬢様学校に入学し、作中でも厳しいと言われている吹奏楽部に入るが、音楽面での苦悩は描かれないどころか、豊川祥子の眼鏡にかなうほどの演奏を披露している(これに関しては、祥子が孤独をかかえている人間に目をつけていたからともいえる)。
人間関係で「うわ……わたしもバンド始めてみるのやめようかな」と思わせる素振りはあるが、音楽へうちこむ人間や初心者に仇でかえすようなことはしない。それ以外は音楽やってる人間どうしが勝手にこじらせてるだけなので……。
ライブシーンでの失敗はない。しかしその音楽信仰が逆に牙をむく。
本作のターニングポイントとなる第7話での初ライブは、音楽の強制力を逆手にとる。
「ギター弾くのは燈のMCのあと」という言いつけを律儀にまもる要楽奈の手によってムードがつくられ、彼女たちの過去のバンドの曲がはじまってしまう。盛りあがるライブハウスのなかで演奏を止めることもできず、観客のボルテージと反比例するように過去を踏み台にしたくない一部演奏者の顔色が曇っていく。
ライブ失敗を予想させておきながら裏切り、それでいて作中の人間ドラマをさらなる混乱に突きおとすこの作劇は、挫折を見せつつ良い演奏を聴かせたいバンドアニメのジレンマを斜めうえの発想で解消する。
だとしても、ふたたびバラバラになってしまった人間関係をつなぎとめるのも音楽なのが『MyGO!!!!!』の憎いところだ。何よりもその楽曲が、自閉がちな主人公の朗読からはじまるポエトリーリーディングなのである。不完全なコミュニケーションによってはじまった本作が、不器用なことばの破片を集約した詩とも歌ともとれないような音楽によって修復されていく。もとより音楽とは不完全で一方向的なコミュニケーションのことを言うのかもしれない。
Youtubeではアニメ本編放送前からポツポツと公開されていたミニアニメも視聴できる。高松燈が焼きいもを3等分できないというギリギリの描写が楽しめるぞ! そういう見方するのオタクくんだけだよ。
【ゲーム】
上半期の『火山の娘』によりインディーゲームへの熱意をくすぐられたため、下半期は国内外の百合インディーゲームに手を出すこととなった。
「なあ君、ファミレスを享受せよ 月は満ちに満ちてるし ドリンクバーだってあるんだ」自由律のような文が芳しい『ファミレスを享受せよ』〈月刊湿地帯〉はすぐれた小品だ。
「買うほどではないが、妙に気になる変な本」。ゲーマー向けWebメディア「Game*Spark」のインタビューで、製作者は自身の趣味をそう答えた。
ファミレスとは名ばかりで、実態は出られず死ねずの閉鎖空間。
際限のないひまつぶしとして間の抜けた会話が応酬されていき、次第に百合SFのかがやきを放ちながら収束していく。
フリー版(itch.io)のほか、追加の雑談、設定資料などが追加された製品版(Steam/Switch)も発売中だ。
自身のファミレサビリティに照らしあわせて手にとってみてほしい。
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上半期の補遺としてノベルゲーム『It gets so lonely here』〈ebi-hime〉(Steam/itch.io)を記載しておくべきだろう。
もともと上半期の記事執筆時点でプレイしていた作品だが、下半期でさまざまな百合インディーゲームをプレイするうちに、もしかしてあの作品のクオリティって異常じゃない!? とじわじわ評価をあげてきた例である。
なにより本作は無料だ。フリーである。記載し得だろう。まあ昨今のビジュアルノベル界隈の常として? 日本語はないのだが。
本作はもともとitch.ioのコンテスト「Yandere Game Jam 2023」にむけて開発されたもので、それにともなってヒロインも全員ヤンデレの気質をおびている。
人魚。お嬢様。墓守と、……。複数の攻略対象が存在する『It gets so lonely here』は、同時にインディーゲームらしい仕掛けも楽しめるだろう。
流血をはじめとしたゴア描写が苦手でないならぜひ手にとってみてほしい。 Cannibalism ♥
(ある日突然「これでずっと一緒だよ」と英語で言わなければならない場面になったとしても、もう迷わない)
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下記項目で90年代風ビジュアルの百合ゲーを取りあげる。ので、ついでに70年代少女マンガ風ノベルゲームのことも言及しておこう。
『The Phantom of the Black Rose Revue: Act 1』〈Yamino〉(itch.io)は「宝塚×オペラ座の怪人」といった雰囲気のノベルゲームで、現在はプロローグのみ体験することができる。
本記事の執筆段階(2023年12月)では英語のみではあるものの、日本語版も準備中とのことだ。
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今年10月に百合オメガバースノベルゲーム(not成人向け)のティザービジュアルが発表されたことをうけ、前もってオメガバースBLを読んで予習する記事を書いた。
性的な要素を省略したオメガバースはもっぱら格差と性差別の話になり、そうした社会問題的なまなざしは百合ジャンルの一定層には忌避されやすいのではないか。
上記のオメガバースとは別件になるものの、『早咲きのくろゆり』〈1000-REKA〉(Steam)は上述の懸念を踏襲する作品になってしまった。
異性愛が啓発される少子化社会。煮えきらない男性の恋人。恋人の死はもちろん、同性愛差別的な思想がその口から発せられるのはなかなかにショッキングだ。
実際のところ物語上の「仕組み」によって苦々しい表現のほとんどは否定されていくのだが、プレイヤーがそこまでゲームを続けられるかはわからない。表現とは往々にして切りとられるものであり、未プレイ者が真相を知らないまま不評を流布するといった場面にも出くわすことがあった。
ループ展開が明示されており、選択肢介入という独特のシステムからもうかがい知れることだが、カタルシスをもたらすための準備期間にくらべて褒美となる恋愛描写が些細なものだったのも要因のひとつだろう(どちらかといえば、想像にゆだねられているといったほうが適切だ)。
とはいえこれらはメーカーによる警告不足、アーリーアダプターによる不満などが主たるものであり、発売から時期がたった今では評価を持ちなおしているようだ。
人気イラストレーター・フカヒレによる美麗なCGが多数用意されて2200円というお手頃価格なのもあり、今後も後日談的な追加コンテンツが用意されていくとあって、実験的な佳作として落ちついていくのではないだろうか。
(事もなげにふられるサメ映画が伏線とは……末恐ろしいものである)
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個人的にはそれなりに楽しめた『早咲きのくろゆり』をうけ、世間での評価がふるわない百合インディーゲームに興味がうまれた。
対応言語中国語のみの百合ノベルゲーム『彷徨之街 The Street of Adrift』〈
Caramel-Mocha Studio〉(Steam)もプレイした。成人向けではあるものの、性描写より暴力描写でのR18といったところだ。当時の評価はSteamではめずらしい「賛否両論」であった。
リリース日は2022年9月となっているが、早期アクセスのゲームであり今現在も開発が続けられている。
人口が激減したディストピア社会……その上澄みを牛耳る家庭にうまれた苦学生が、親の金で生涯年収に匹敵するほどのレズビアン風俗嬢を買う。
一週間につづく接待を受けるなかで風俗嬢たちの選択肢のない人生に共感し、社会からの脱却をともにすることとなる……そういったストーリーだ。
ディストピア、暴力、レズビアン風俗、サイバーパンクと一部百合好きを魅了する要素にあふれた作品ではあるものの、やはり慣れない言語でのプレイは負担が大きい。
余談だが、英語圏で『安達としまむら』〈入間人間〉の不評を目にすることがある。翻訳をとおすことで独白調の文体が受けいれられがたいものになってしまうのだろうか。『彷徨之街 The Street of Adrift』のプレイフィールはそれに似たものであり、異国語でつづられた『人間失格』〈太宰治〉を読んでいる気分になった。
完成した暁には再挑戦したいゲームである。
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そのほか、性格診断とは名ばかりに感情デカめのアンドロイド百合SFが展開される『Refind Self: 性格診断ゲーム』〈Lizardry〉(Steam/App Store/Google Play)。
12月に日本語訳が実装された、百合小説執筆の参考に義姉妹と実験してみるオーソドックスなノベルゲーム『要来点百合吗 Love Yuri』〈琉璃花糖制作组/Garakowa Marshmallow〉(Steam)。
mihoyo風のグラフィックにすぐれた日本語訳がそなわったAVG『夢灯華 Noctuary』〈Gratesca〉(Steam)など、百合インディーゲームにどっぷり浸かった下半期であった。
『q.u.q.』
(上半期の補遺)
嘆き。乾き。希死念慮。
『q.u.q.』(Steam)はイラストレーターでもありコンポーザーでもあるmotijanが単独で制作したノベルゲームだ。
リリースは2023年2月27日と上半期の領域にある。もとはロシア語でつくられており、3月に日本語へ対応した。
1時間とすこしで終わる小品であり、ビジュアルと音楽のひしめきあい、テキストから焚きつけられる無力感と焦燥感が『q.u.q.』のほとんどを構成している。
黒白赤のハイコントラストな画面に、シュルレアリスムや象徴主義を彷彿とさせる”使徒”たち。無秩序な幾何学模様は頭痛をもたらすだけだ。
世界は砂漠におおわれ、蜃気楼がひとびとを飲みこんでいく。ビルが建ちならんだ街に人間は残されていない。
それでも主人公・ハッチは大砲を引きずって往く。フラッシュバックによって削りだされていく過去に、煮えたぎるような自責と贖罪の念だけが確認できる。
小規模制作によりビジュアル・テキスト・サウンドが噛みあったノベルゲームは独特の倒錯感をもたらす。が、それは同時にめちゃくちゃコメントにこまったオタクを量産していく。
こうした窮地で類似作品を持ちだし雰囲気を読みとってもらおうとするのはオタク・コメンテーターの名折れだ。そもそも該当の類似作品を知らなければ伝わるはずのない文章であり、ポエムでも詠んでいたほうがマシな可能性も考えられる。
よくあげられるのがアニメにもなった『少女終末旅行』〈つくみず〉だろう。終末世界のなかをふたりの少女が旅する百合マンガだ。すり減っていく資源と希望をゆったりとしたためる筆致に郷愁をにじませている。
個人的には、つい先日(雑誌掲載2023年11月末)完結した同作者の『シメジシミュレーション』〈つくみず〉のほうが近しいと感じる。終末世界というよりかは無秩序さを重視した百合マンガで、ある種のダダイズムは『q.u.q.』にも通じるものがある。
砂粒のように消えさっていく友情と後悔という面で『スペクトラルウィザード』〈模造クリスタル〉も外せない。結末のあの徒労感が『q.u.q.』にも染みついている。
緻密な背景に、簡素なキャラクター。人のかたちをしていないモブたちに、謎めいたストーリーという点で、百合ではないがpanpanya作品も重なるところがあるだろう。
上記のなかの百合マンガたちとちがうのは、『q.u.q.』の主人公・ハッチの友人・テイアが記憶のなかにしか認められないことだ。ハッチ自身が回想をこばむように、「あの日」の仔細はおぼろげにしか掴むことができない。
テイアの苦しみ。テイアの劣等感。自身がその一因を担ってしまっていることに後悔が滲む。
回想がゆがんでいき、ハッチを責めたてる亡霊のようになっていったとしても大切にされていることがわかる、テイアとの日常。
作品を彩るサウンドは……「彩る」とはなんだ? むしろ古ぼけたラジオのような残響が終末世界を強調する。わたしの故郷では『夕焼け小焼け』が音割れしており、赤空をともなって世界の終わりに溶けこんでいくことがあった。
『q.u.q.』のBGMはおおよそ2種類に分類できる。
ゆったりとしていて、物悲しさを滲ませる、印象主義のようなピアノソロや弦楽合奏、日本のファンタジーゲームで俗にケルト風といわれるような曲調など。街の探索や、思い出にひたる際にともなうこれら楽曲は、本作の侘しさを引きたてる。
一転して金属が無秩序にうちならされる、不協和音を孕んだ楽曲群は焦燥感をあおる。本作はノベルゲームでありながら画面が連続して切りかわる演出を多用し、前述の落ちつきつつも謎めいた雰囲気を押しながす。堰をきったように流れこむ音と画面が、ハッチの錯乱した精神を強調する。
物語のトリをかざるのは、「いめ44」の名でボカロPとして活躍する作者の本領が発揮された日本語のボカロ曲だ。歌うのは、外でた瞬間おわることで有名な「歌愛ユキ」と「可不」。いままでの鬱屈を吹きとばすようなその歌は、ぜひゲーム内で聴いてみてほしい。
『q.u.q.』はSteamにて235円で販売されており、50%セールでアイス一個増えるかどうかわからないくらいの値段である。けっこうデカいか!?
やれるときに買え! 買えるときに買うとだいたい積む。
アイスは賞味期限ないよ。
(結局のところいちばん感動したのは、きらら少女が「一緒に死のう!」と笑顔で言いはなつ姿なのではないか)
『ghostpia シーズンワン』
友情百合よし! ビジュアル演出よし! ノスタルジックな音楽よし!
倫理観……なし!
もうパターン化された”エモ”気持ち悪すぎるんだよ、”死”がなくなった世界、別世界の記憶、ニンジャ、粘土の散歩、大親友がマフィアの連れ、雪の降る町、”わたし”の存在意義、地平線の彼方、ニンジャ、観測しつづけないと失踪するAI、ようこそアナタは1025人目の訪問者……。
ゲームのパラメータなどで、各能力が四方向に伸びているレーダーチャートを目にすることがある。バランスよく伸びていればきれいな正方形になるであろうグラフだが、あれは嘘だ。
各能力が尖りすぎてくびれがつき、スリケンめいてプレイヤーの心臓をえぐりとる。『ghostpia シーズンワン』〈超水道〉(Steam/Switch)はそんなノベルゲームだ。
もともとは2014年にiOS/ブラウザでリリースされ、順次エピソードが追加されていた旧『ghostpia』。その後、長い年月をブラッシュアップに注ぎこみ、既存エピソードの大幅な拡充や新規エピソード、ビジュアルをふくめたゲーム部分のクオリティアップが画策される。
ほかに類をみないほどのゲーム体験を引っさげた新『ghostpia』は、2023年3月にNintendo Switchで、同年8月にSteamでリリースされた。
本シリーズは現段階で前後編を予定しており、今回の『ghostpia シーズンワン』はその前編にあたる(以下『ghostpia』)。
本作はレビュアー殺しだ。
シナリオは友情と人情にあふれながらも暴力と混沌がすべて押しながしていくし、そもそも前後編なので語れることは多くない。
ビジュアルはブラウン管エフェクト(画面四隅にかけて歪んでいく効果や、ちらつき・砂嵐)をはじめとして、ノベルゲームにあるまじき総作画枚数1000枚超のアニメーション・コミックが随時はしゃぎまわる。
サウンド面は懐かしくてあたたかいカフェのような音楽と、ザラついたノイズが撫ぜるアンビエントの二種類がノスタルジーをかき立て、『どうぶつの森』シリーズ〈任天堂〉を彷彿とさせるボイスSEが心地よくからみあう。
エピソードの合間合間に挟まれる流麗なカートゥーン・アイキャッチはもちろん、各エピソード終了時にながれるエンディング・アニメーションとシティポップは何度浴びてもあきないし、タイトル画面に戻ったあと、次のエピソードを選択する滑らかなオートメーションは継続意欲を刺激する。
総合力。その言葉がふさわしい。「結局どういうゲームなの?」と聞かれてとまどうこと間違いなしである。
『ghostpia』のゲーム設計でもっとも驚かされたのは「巻き戻し機能」だ。ほかのノベルゲームに搭載されている機能といえば、テキストログからテキストを選択してその地点から再開する機能などだが、本作の巻き戻しは一味違う。
巻き戻しボタンを押した瞬間、何のタイムラグもなしにボイスSE、BGM、アニメーション・コミックをふくめたグラフィックすべてが逆再生されていくのである。
画面に表示される古ぼけた操作説明とともに、こうしたシステムが『ghostpia』の世界が「シミュレーション世界」なのではないか、という普遍的な疑惑をあと押しする。「画面内画面」のそれである。UI/UXすらも世界陳述に巻きこんで『ghostpia』の魅力は混迷をきわめていく。
普遍的、というのも憚らないほど本作の舞台設定は露骨だ。
1024人の幽霊がすむゴーストタウン。雪が降りつづき、夜があけることはなく、特定の時間になると一斉に眠らされてしまう。失くしものはすべて街外れのゴミ捨て場で復活し、住民の死体ですら例外ではない。
「死」が欠落した世界であっても「社会的な死」は存在する。主人公・小夜子がそうだ。
少数人種の異邦人。幽霊づきあいが苦手な主人公にも、手を貸してくれる友人がふたりだけいる。ゴミ捨て場からかきあつめたパーツで車をつくり、腐りきった街の外、地平線の向こうまで走りぬけようとした。
頓挫して帰ってきたのは、血まみれの小夜子と友人の死体ふたつ。それ以来、街ゆく人々からは避けられ、友人関係もギクシャクしている。
そんな小夜子に転機がおとずれる。およそ999……年ぶりに、永らく1024人で定着していたゴーストタウンへあたらしい住民がやってきた。小夜子によって「ヨル」と名付けられた彼女とワンルームの同棲生活をつづけていくうちに、従来のふたりを加えた交友関係や、凍えきっていた小夜子の心へ熱を取りもどしていく。
そんなことをいうと感動的な友情物語のように思える。が、焚き火を囲んで友情を深めあうシーンであっても、その火元が少女の死体だったりするのが『ghostpia』の恐ろしいところだ。
街を牛耳る宗教団体のほかに、違法薬物を蔓延させるマフィアなどが存在し、小夜子たちの命を……命はないのだが、狙う。殺し殺されの毎日は、停滞した街の娯楽のようなものなのだろう。
そのほかにも各章の最後には思わせぶりな別世界の光景が差しこまれる。
本編のさめざめとした銀風景から逸脱する赤。照りつけられた建造物や人々はあまりにも現実らしいすがたをしている。
まるで一世代昔の少女マンガのような、刺々しい言葉の応酬。
本作は体験版があり、第2話までプレイが可能なようだ。製品版にセーブデータを引きつげるらしいので、結局どういうゲームなの? と気になったひとは触れてみてほしい。
どういうゲームなんでしょうね。既プレイでもわからん。
『嘘から始まる恋の夏』
『嘘から始まる恋の夏』〈LYCORIS〉は2023年のコミックマーケット102で先行リリースされた百合ノベルゲームだ。
公式Boothや各種同人ショップ、現在はDLsiteやSteamでも販売されている。
デスゲーム風の『FATAL TWELVE』、異種族ホラーミステリの『しずくのおと - fall into poison -』など、現代×ファンタジー色のある百合ノベルゲームを排出してきたサークル・LYCORISにしてはめずらしく、現代社会の学生たちの青春に視野をとどめた『嘘から始まる恋の夏』。
正統派のビジュアルもあいまって百合作品らしい恋物語が展開される……。そうした予想をたててプレイしてみると、意外にも社会派の切り口がしたたり落ちてくる。
学生らの友情、恋。そして傷の修復などを主軸としながら、子どもたちがその領分のなかで、いかに周囲の大人たちと折りあいをつけていくのか。やや刺激的に描かれすぎていた昨今の家族関係を、本作は繊細な手つきで取りあつかう。
たとえば主人公の橘薫は、中学三年生のころ家出したときに出会った教師とズルズルの関係をつづけている。その家出の原因も、家族関係を切りさくような母親の過去が原因だ。物語冒頭に、どこか退廃的な教師との関係は破綻をむかえる。
ヒロインの御凪栞里は、兄のかつての姿に重圧を感じており、その大元には御凪家の閉鎖的な環境がひさしをつくっている。
クラスメイトでありながら疎遠な関係だったふたりが、思い出の塗りかえというかたちで過去を忘れようとする。恋というよりも互助関係にちかいようなシスターフッドが本作の原動力となる。
本作を特徴づけるのが、主人公母の空白だ。
作中の登場する大人たちのなかでも、最もインパクトのある彼女の罪が償われることはない。なぜそのときそのような行動を取ったのか、という理由も彼女の口から語られることはない。この空白が、本作にある一貫性をもたらす。
『嘘から始まる恋の夏』のタイトルにもある「嘘」。物語のなかでさまざまな嘘が吐かれていくなかで、弁解が受けいれられることはほとんどない。これは何かしらの罪に対しても言えることだ。
本作に一貫するのは、過去に負わせた/負わせられたキズをどう解消していくかは、負わせられた側のみが決められる。そういった哲学だ。「謝罪」とは負わせた側……語弊をはばからずに言えば加害者側からキズを修復しようとする試みであり、被害者側にはそれをつっぱねる権利がある。
これは同時に、過去に負ったキズをどう繕っていくのかも、被害者の手にゆだねられていることを意味する。結局のところキズを忘れさることはできず、登場人物たちは自分なりの乗りこえ方を模索していくうちに、共同体としてのかたちを編みとっていく。
主人公の元恋人であり、先達として生きる霜月深玲は魅力的なキャラクターだ。しかし本作はリニアなノベルゲームであり、選択肢などといったシステムによって彼女との交際をつづけることはできない。
主人公がなぜ彼女との復縁をえらばなかったのか。ここは解釈のわかれるところだろう。論点先取の禁じ手をつかうのであれば、『嘘から始まる恋の夏』は学生たちの物語だから……と納得してしまいそうなところだ。主人公の感じる「恋愛」には肉欲的なものが認められつつも、物語のながれを考慮すると、傷ついた心を補いあえるかどうか、といった意識が滲んでいるのかもしれない。ヒロインが主人公を必要としていて、主人公もヒロインを必要としていた。だから元恋人との復縁はえらべない。
と、こうして感想をならべていくとやや小難しい作品のように思えるが、それでいて小ざっぱりとした清涼感をたもっているのが本作のバランス感覚だ。学生らしい砕けた会話や、お泊り会での賑やかなやりとりなど、難しいテーマを取りあつかいながらも、百合作品らしいポイントをうまく踏まえながらまとめられている。
逆に言うと、優等生すぎるといった印象も見うけられるかもしれないが、あえて派手な解決をのぞまなかった部分に『嘘から始まる恋の夏』の美徳があると信じたい。
『The Cosmic Wheel Sisterhood』
2016年、「選択肢」に革命が起きる。
『VA-11 Hall-A: Cyberpunk Bartender Action』〈Sukeban Games〉の功績はいまなお輝かしい(以下『VA-11 Hall-A』)。
ベネズエラで開発されながらも日本のオタク・カルチャーを多分にリスペクトした本作は、同時に当時不安定だった(そしていまなお深刻化がすすんでいる)ベネズエラの国内情勢を記憶している。
サイバーパンク、場末のバーテンダーとして。客と交わされる会話は小粋でウィットに富んでいる。卓越した日本語訳もさることながら、アニメ風のビジュアル、そしてなによりも当然のように話されていく女性どうしの私情。男女両対応のセクサロイドなど個性豊かなキャラクターたちに、日本の好事家は魅了されていった。
注目すべきはそのゲームシステムだ。
『VA-11 Hall-A』はノベルゲームをベースとしながらも「選択肢」にひと捻りをくわえている。バーテンダーである以上、客との会話のなかで注文をきき、酒類を提供しなければならない。
ここでバーテンダーアクションが登場する。プレイヤーはレシピ表をみて5つの配合液を調合し、必要ならば氷や熟成をほどこしてミックスする。注文どおりに提供できれば今後の展開に好影響をあたえるし、ときには推理をして客にぴったりのドリンクをあてがう必要もある。
ちょっとしたひと手間だが、これが意外にもサイバーパンク世界への没入感を高める。客の注文どおりに配合液をえらんで混ぜるという緩慢な動作が、わたしたちとキャラクターの肌感覚を同調させ、退廃世界のテキストに芳醇な味わいをもたらす。
ゲーム全体のフレーバーが噛みあった『VA-11 Hall-A』スタイルはいくつかのフォロワーを生みだした。
2020年の『Coffee Talk』〈Toge Productions〉はその正統後継者といえよう。
ややコミックスタイルになったキャラクターたちと対話し、適宜コーヒーをはじめとしたアレンジドリンクを提供する。多様性は亜人種間のブロマンス・ロマンシスというかたちで継承され、各チャプターの合間に差しこまれた新聞からは不安定な社会情勢が読みとれる。
このように「選択肢」へフレーバーを染みこませた『VA-11 Hall-A』スタイルだが、実のところその自由度は芳しいとはいえない。
膨大な種類の酒類がレシピ表にかかれているものの、客の注文をうける手前、それに沿うものを出さなければならない。飲みたいものを推理するシチュエーションがあるとはいえ、正解と不正解があるだけで十色の反応があるわけでもない。
すなわち「はい」と「いいえ」が引きのばされただけで、フレーバーを感じることはできてもプレイヤーが介入できる余地はそれほど多くない。
そんなこんなで、2023年夏。
『The Cosmic Wheel Sisterhood』〈Deconstructeam〉(Steam/Switch)は『VA-11 Hall-A』の後継作品にして、「選択肢」の没入度を一次元引きあげた。
客に提供するのは飲食物ではない。「タロット占い」である。
魔女たちの集団社会・コヴンの破滅を予言し、幽閉された魔女「フォルトゥーナ」として、プレイヤーはあらかじめ用意されたオブジェクトを自由に組みあわせ「オリジナルのタロットカード」をつくる。
そうして事前に用意したオリジナルのデッキをつかい、客の悩みにこたえていく。面白いのはひとつのカードから複数の選択肢が提示されることだ。タロット占いにも流派があるそうだが、手元にあらわれた象徴から意味を解釈する点は違わない。
タロットカードの創作がかもしだす没入感に歴史の講釈は必要ないだろう。もとはカードゲーム用の品で占いにつかわれはじめたのはずっと後だとか、デューラーの『Melencolia I』(1514年)を持ちだし、この時代には四体液説と占星術が信じられてて絵に寓意をふくめる文化があったんだよとか念押しするのは無粋である。
単純な話として人は、目の前にどことなく意図が一貫しそうな絵札がならべられればコラージュしてみるだろうし、その意図がだれかに伝わればうれしい。
ゲームとして流行りの画像認識だとか、そんな難解な評価システムは必要ない。なんせこれは「占い」なのだから。
背景・主体・脇役。プレイヤーがえらべる3つの題材から数値を計算し、それっぽいテキストが出るようにしておく。それだけでプレイヤーはゲームと対話した気になれてしまうし、何らかのおぼしめしを読みとろうとする。バーナム効果というやつだ。
「選択肢」の話に200年ほどかけてしまったが、「Sisterhood」を銘うつだけあり物語は個性豊かな魔女たちが登場する。
『VA-11 Hall-A』の特徴であった性の多様性はここでも息づいており、女性たちからは彼氏のみならず彼女との交際関係も語られるし、ストーリーのなかで主人公と女性の恋が実ったりもする。個人的にはもう少し彼女たちとの会話を楽しみたかったところだが、選択肢分岐の都合上、やはりむずかしいか。
物語中盤から政治闘争というかたちでさらにプレイヤーの参加を呼びかけるようになり、各々がどのような結末をむかえるかどうかも、ある程度プレイヤーにゆだねられている。
プレイヤーによって仔細が変わるゲームのシナリオを語ってなんになるんだという気持ちがちょっとあるが、わたしの手札からちょっとした意図を占うことができるかもしれない。
占星術史の専門家であり占い師の鏡リュウジによれば、大アルカナの10番「運命の輪」には昔、女神のすがたが描かれていたらしい。その名は「フォルトゥーナ」中世ヨーロッパで親しまれていた運命の女神である。
『The Cosmic Wheel Sisterhood』の主人公フォルトゥーナは200年幽閉されていたのでもしや……と思い200年前のタロット図版を見てみたが、残念ながらそれよりも前から女神は省略されていた。
しかしタロットの歴史にはもうひとつ重要な点がある。大アルカナの15番「悪魔」の出没だ。
タロットが文献に出没するのはカードゲームが流行った15世紀に集中する。貴族のなかで流行したカードに不道徳な絵が描かれているとして、キリスト教から糾弾されたそうだ(そして占いや呪術を禁止するキリスト教にしては「占い」への言及がない。これがカードゲーム説を支持する)。
つまりこのときタロットから悪魔が欠落した……と考えるのはまだ早い。ここは学者によっても意見の分かれるところであるらしく、もともと悪魔は存在せず後年くわえられたのだという派閥と、不道徳なので抜かれたとみる派閥で議論になるのだとか。
『The Cosmic Wheel Sisterhood』でフォルトゥーナは禁忌の存在「エイブラマー」と契約しタロットをつくりだす。タロットの異端児どうしが世界を定義しなおす……そういうと克己の精神に満ちあふれた物語のように思える。
本作でもっとも印象に残ったのは姉妹関係だ。
主人公の強力な予知能力は人間時代からのもので、その力に翻弄されながらも姉は姉らしく妹の庇護者でありつづける。
世界の理をねじ曲げるほどの愛に姉妹百合好きとしてすっかり魅了されてしまった。あんまりにもよかったので今世紀は姉妹戦争で宇宙の半分が崩壊する運びとなりました。
バドエン厨はすぐ宇宙に迷惑かける。太陽系を代表して謝罪いたします。
コズミックすまん。
『Little Goody Two Shoes』
リリースされるやいなや、90年代風のビジュアルにより絶大なインプレッションを記録した百合ホラーADV『Little Goody Two Shoes』〈AstralShift〉(Steam/Switch_us)。
Japanese anime style、日本語歌詞の楽曲、日本語の掛けあいボイス、Square Enixパブリッシュときて対応言語はもちろん……! 2023年12月現段階では英語のみ。
ビジュアル面が取りざたされる本作だが、女性どうしのロマンスが全面に押しだされていることも見逃せない。攻略対象は主人公・エリーゼと同年代の女の子3人だ。
黒魔術的な凶兆をまえに「運命ですよ、エリーゼ♥」とささやいてくる不思議ちゃん・ローゼンマリネ。
そのへんのパワー系村娘・フレイヤ。
なかでも「やれやれ、キミのことはすべてわかってるよ」とでも言いたげな幼なじみヅラが魅力的なレープクーヘンはじつに罪づくりな聖職者だ。
本作はアンデルセン童話『赤い靴』を彷彿とさせるタイトルだが、どちらかといえば同童話は脇役程度におさまり、もっぱら「魔女」をめぐる諍いが主要なテーマとなる。
少女たちが暮らす「キーファーベルク」は山あいにあり、閉鎖的なコミュニティを形成している。キリスト教のような独自の宗教観が根ざすその地は、一週間後にあるフェスティバルをひかえている。そこで「主」とともに神聖視されているのが「聖ワルプルガ」だ。
目ざとい方なら気づくことだろう。これはかの「ワルプルギスの夜」の語源その人である。
人気百合アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』で一躍有名になった「ワルプルギスの夜」だが、作中で最悪最強の魔女として描かれるそのイメージとは裏腹に、史実の「聖ワルプルガ」は疫病や魔女を討ちはらった聖人として記録されている。それもそのはず、世界的にみれば「ワルプルギスの夜」は聖ワルプルガにあやかる退魔の祭りであり、魔女の祭典として取りあつかわれているのはドイツなど一部地域にかぎる話だそうだ。
それでいて『Little Goody Two Shoes』はドイツ風の世界観を形成しながらも「ワルプルギスの夜」を魔女の祭典ではなく、あくまでもキリスト教的宗教の神聖なお祭りとして執りおこなうという奇妙な光景がひろがっている。祭りの準備期間中に数々の災いがふりかかり、老人の妄言によって魔女の仕業とうそぶかれるにもかかわらず、聖ワルプルガがどういった聖人なのかも言及されることがない。
そうしている間にも怪奇現象はとどまることを知らない。
主人公の畑から出土した赤い靴。「彼」にテスタメント(証/契約)をささげれば望みが叶うとささやく老婆の霊体。
悪夢のような景色がひろがる森林地帯。主人公の出生の秘密。謎めいた存在の聖ワルプルガ……。
非現実的な体験は主人公の正気を削りとり、やがて破滅をもたらす。
村人たちとの信頼を失えば、自らが魔女として処罰されることもありうる。
本作は一日を六つのシーンにわけて進行していく。
夜明け、朝、昼、夕方、夜、魔女時。各シーンはイベントあるいはお金稼ぎのミニゲームか少女とのデートによって次のシーンに移行し、魔女時には悪夢めいたステージを攻略する。体力や空腹度をうまく管理しつつ、サイクルを続けていくなかで「彼」にささげる三つの贈り物をそろえなければならない。
「Tender Flesh(柔らかな肉)」「Sweetest Nectar(甘美な蜜)」そして「The Good Company(良き仲間)」。最終盤にそれぞれが何を指すのか推理してささげていく形だが、エンディング分岐のためのシステムでありそこまでむずかしいものでもない。
ここまでの話でだいたい察するかもしれないが、トゥルーエンディングのためには各ヒロインの攻略が必須だ。主要素ゆえにまあまあな量のテキストとCGが用意されており、ノベルゲームほどではないものの満足のいく内容となっているのではないか。
閉鎖的な村を出ていっしょにやりたいことをしよう! といった内容が主であり、恋の駆けひきなどはないが、直接的には描かれないもののキスなどが仄めかされたりするし、ホラーとだけあって……わたしがオススメしてる時点でなんとなく察してほしい。特に「彼」という存在にピンとくるひとはやめておいたほうがいいかもしれない。ラブラブエンドもあります。
【2024年1月3日 追加部分】
対比するように設けられた(トゥルー?)バッドエンドルートとは違い、ラブラブルートはやや拍子抜けするような容易さで移行する。『赤い靴』がそもそも警句をふくんだ物語であることや、『Little Goody Two Shoes』の随所から指示される「女は魔女で、少女は愚かな生き物であるべきだ」という女性蔑視な願望を考慮していくと、そうした偏見を拒否することで女性ふたりの絆が成就される、シスターフッドの設計思想を根底に見いだせるかもしれない。
【追加部分終了】
本作の魅力はやはりアートスタイルだろう。
90年代風のアニメ絵に、コテコテの厚塗り、ゲームらしい2Dアートもあるし、絵本調のかわいらしい挿絵もあれば、劇団イヌカレーを彷彿とさせるホラーアートもお手の物だ。実写もある! (爆発はしない)。
本作の英語はそれほどむずかしいものはない。そもそもがアドベンチャーゲームなのもあるが、凝った言いまわしをするような作品ではない。
ただし、英文の選択肢を時間内にえらばないといけないボスが存在する。お手つき一回で即ゲームオーバー。選択肢の順番が毎回入れかわるそれを三回連続正解しなければならない。よりにもよって正解がまどろっこしくてわかりづらい。たぶん母国語でも難敵だろう。気をつよく持て!
ホラーゲームだけどジャンプスケアは少なめ。序盤に集中している。
雑記
上半期と下半期の合算で約10万文字あるそうです。
初回の2022年の記事がふくらみすぎたことを受け、分割してお送りした2023年の記事だったが、それぞれが元の3倍ほどの文量になることで合計6倍の長さになった。
一年の振りかえりが文庫本一冊ぶんと考えるとつつましいのではないでしょうか……。
さすがにこれを毎年やると大変なことになるので、2024年については考えます。不定期更新でぼちぼち更新していって、年末にまとめるというかたちでも良いのかな。
2023年の百合マンガを大量に買いあさったので、百合マンガ統計なるものをとれないか模索中。続報がなければないですね。
上半期はこっち↓
来年の2024年はこっち↓