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おいなりさん
私は、無性に、いなり寿司を食べたくなることがある。幼少の頃、母がよく、連れて行ってくれた店があるのだ。
そこで、お稲荷さんを、食べた。
確か、神戸元町の、力餅という、お店だった。
そこのサイドメニューで、おいなりさんが、あったのだと思う。
母は、買い物に、私を連れて行き、おとなしく文句を言わず、待っていると、ご褒美に、おいなりさんを、食べさせてくれたのだった。
また、このおいなりさん、なかなかの美味で。私のお気に入りだった。その頃、私の頭の中には、お稲荷さんは、特別な食べ物だった。
母は、過保護で子煩悩ではあったが、きつい性格で、ちょっと、文句を言えば、かなり機嫌が悪くなり、酷く叱られることも度々で、おいなりさんにありつけるのは、なかなか確率の低いチャレンジだった。
百貨店やスーパーは、今のように、子供が遊べる場所が、そうそう、備えられている環境にはなく、母が買い物をしているときは、ついて回るしかなかった。
文字を知っていて、本でも読めれば、待つ時間も、持て余すことは無かっただろうが、その頃の私には、読書という逃げ場はなかった。
たいてい、ちょっとした手持ちのミニカーなどでひとり遊びをするか、空想で頭を満たすしかなく、そういう癖がついて、私は、空想家になってしまったのだろうと、今になって、思い至ることがある。
物心がつき、成長し、大人になり独立して、あの頃の、ご褒美だった、おいなりさんは、それほど高級で、手の出せない食べ物ではないことは、自然に知るようになった。
むしろ、おいなりさんを食事で所望すると、控えめな印象を、人に与えることすら、あるかも知れない。
だが、この歳になってなお、お腹が空いたとき、数ヶ月に一度ほど、無性に、おいなりさんを食べたくなる。
外回りをしているときなど、昼食に、買ってしまうのである。
おいなりさんを目の前にすると、なんだか、ご褒美をもらったような気になる。
そして、おいなりさんを、思い切り、頬張る。
そんなことが、何度、あったか、わからない。
少し前のことになるが、2月にも、そういうことが、あった。
義弟のお母さんが、亡くなられたのだ。
本来は、大阪の人だったのだが、事情があり、義弟の家の近くに、身を寄せていらっしゃった。
だが、突然、亡くなられた。
時節柄、近親者のみの、こじんまりした葬儀だったが、突然の母の死に、義弟は、泣き通しだった。
火葬場で、火葬している間、昼食の時間になった。義弟は、泣きはらした顔で、私に、言った。
お義兄さん、少し、食べてください。
お寿司が少し、振る舞われたが、私は、その脇にあった、おいなりさんを、所望した。
義弟は、遠慮なさらず、と、他のものを勧めたが、私は、時々、無性に、おいなりさんを食べたくなるという話を、義弟に、話した。
義弟は、母が、四年間植物状態で、その末に亡くなったことを、よく、知っていた。
だから、おいなりさんが、母の思い出であることを聞き、泣きはらした顔から、なお一層、泣いて、泣きはらすことになった。
私は、なんだか、悪いことを言ったねと言いつつ、ハンカチで目を拭う義弟の前で、おいなりさんを、じっくりと、ゆっくりと、食した。
義弟のお母さんも、気の毒な状況のまま、恋しい大阪に帰ることもなく、亡くなったのだったが、義弟は、それを、悔やんでいたのだった。
私は、食べ終わり、ゆっくりと、お箸を置いたが、母のことが、走馬灯のように頭を駆け巡っていた。そして同時に、義弟のお母さんの不遇も、寂しさとともに、思い起こされて仕方がなかった。
心の中の、リトルkojuroが、寂しそうに、つぶやいた。
ご褒美のはずが、今日は、なんだか、寂しいおいなりさんになったね。
義弟がようやく泣き止み、ひとしきり、お母さんの思い出話を出し切った頃、お骨拾いの呼び出しが、かかった。
やはりおいなりさんは、私にとっては、どうしても、苦くも、甘くも、お母さんの味が、染みついているのである。