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カント 3大著書

カント 感想

『純粋理性批判』先験的感性論〜分析論

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分析論を、「認識を吟味する論理的判定の原理」
としながら
「実質的・客観的真理を与えるには不十分」

と、しっかり論理と真理が別物であることを
終始一貫して強調してるところに安心感を得ました。

安易に使われる「論破」や「非科学的」という言葉は
好きではありません、

もちろん物理現象に対して仮説を立て、反証し、
合理的な回答を導き出す行為を
否定する訳ではありません

むしろ科学大好きの宇宙ヲタクです。
しかし科学以外を否定しようとする態度は僕には
カルト教団の信者に見えますし、ムカつきます。

神学において啓示された真理を擁護し立証する議論
についてカントは、「仮象の論理学」と言います。

「論理的判定の規準である一般論理学を
客観的主張の道具であると誤想して使われたもの」

「無知・故意に拵えあげたまやかし物を
真理の外観で装おうとする詭弁術」

このように論理的判定と客観的主張にはそれぞれ
別のものが必要である事を示してくれたことに
安心感を得ました。

147
認識について、
純粋直観(空間および時間)における物が、
経験直観(感覚を伴う表象)である場合に認識を与える

また、
「直観が与えられない場合、
対象をもたないからその物の認識は不可能」
と言います。

五官感覚で感じることが出来なかったら認識できない
なんて当たり前に聞こえますが、
よく考えると興味深いです。

我々の可視光線や可聴域が全体のほんの一部しか
捉えられていない様に、

対象がそこにあっても、感覚を伴わなければ、
認識できないけど、対象はそこにある。

カントは、物自体を認識することは
できないと言います。

我々が認識できるのはあくまで現象に過ぎず、
物自体には到達できない。

「我々は、可能的経験の対象についてしか
ア・プリオリな認識をもつことができない。」

271
カントは幽霊や未来予知、テレパシーなどを
空想的概念としています。

「概念を、
知覚が我々に提供することろの材料から構成する場合に、
実例を経験に仰がないで作り出したもの」

これについては共感できません。
僕は幽霊は見たことないですが、
予知夢を見ることはよくあります。
テレパシーは意図してできませんが、
たまに偶然、シンクロニシティに遭遇することはあります。

経験してると言えると思います。

282
「我々は空虚なものの存在を、
可能的経験の範囲外になら或は思いみることができるかも知れない」

「空虚に関する問題は、
理想的理性の解決すべき課題である。
理想的理性は可能的経験の領域を超出する」

「空虚は先験的弁証論において考察せられねばならぬ問題である。」

カントは先験的弁証論において1つの結論を出しています。

658
「悟性の一切の経験的使用を遥かに超越するような命題に関して
とにかく証明が可能だとすれば、
けっきょく純粋な理性概念のみに基づく存在論的証明が
唯一の可能な証明だということになるのである。」

現代の理論物理学における宇宙論的仮象も
経験を超越した領域と言えます。

ビックバン仮説に基づく宇宙の起源や、
ブレーンワールド仮説に基づく多次元宇宙

私が生きている内に、
科学の力が宇宙の姿や空想的概念を明らかにして欲しいです。

492
「我々は、理性の一切の努力がついに集注し
帰一せざるを得ぬ究極目的に対して
最大の期待と希望とを懐くものであるが、

哲学はまさにこの期待と希望とに
確実な基礎を約するからである。」

今までの先験的原理論で示された「素材」を使って
ここでは先験的方法論という「道具」として

理性をどう扱うかの話に移ります。
そしてこれはまた『実践理性批判』の素材となってゆきます。

766
「我々はただ我々の能力を批判して、
手持ちの材料(ア・プリオリな純粋概念)を用いて

どれくらいの高さ建物を造築できるのか、
ということを吟味すれば足りるのである。」

理性批判に際して障碍となるものがあります。

807
「身体からの[心の]分離は、
認識能力の感性的使用の終わりであると同時に、
知性的使用の始まりである。」

「身体は感性的・動物的生活を促進するもの〜
純粋な精神的生活に障碍を与えるもの」

この身体の障碍をクリアした後に
客観的な証明という壁があります。

可能的経験を基準に綜合的にかつア・プリオリに示さなければなりません。

811
「かかる注意を欠くと、この証明はあたかも
岸を突破した水のように縦横に暴流し、

今まで潜んでいた単なる主観的連想への傾向は、
証明そのものをほしいままに引き廻すことになるのである。」

何かを主張するとき、しっかり考えなければなりませんが、
人間は諦めることもあります。

「常識」とは
「理性による問題の解決が絶望であるとなると、
きまって用いられる避難所」であります。

『実践理性批判』ではこれまで語られてきた理性の使用を、
道徳と結びつけて考えます。

829
「もし意志が自由であり、また神と来世とが存在するならば、

我々は何をなすべきか、

人間に理性を付与するに際して賢明な配慮を致した自然は、
もともと自分の究極意図をもっぱら
道徳的なものに向けたのである。」

『実践理性批判』

カントはまず経験論を否定します。

序文
「私の「批判」はかかる見解
(実践哲学の最高原理を経験的なものに求めようとする)
を徹底的に否定する。」

P151
「実践理性の経験論を防止するのは〜重要であり、
また推奨に値する仕事である。

経験論は、人間の心意の道徳性を根こそぎ覆滅して、
傾向性と義務とを道徳性とすり換えるのである。

もし傾向性が最高の実践的原理の地位を占めでもしようものなら、
〜人間性を墜落させるのである。」

経験的には人間の行動は
自然法則に従って決定されているように見えますが、

カントは理性の純粋な活動によって、
我々が自由に選択し、道徳的に行動できることを認めています。

この「自由」は経験によって証明されるものではなく、
道徳法則が存在するという事実から実践的に確信されるものです。

自然法則と自由の法則は、
この世界において著しく異なる二通りの法則です。

そこで思弁的理性は
自然を司る聡明な世界創造者を前提するか否かを考えます。

P289
客観的には不可能なので、主観的条件として
「純粋実践理性の自由な関心は、
聡明な世界創造者を想定する方に決定するのである。」

「そこで我々は、世界創造者の実在を想定し、
実在を理性使用の根底に置く」

「従ってまた善良な心意を懐く人々といえども、
時に決断に迷うことがあるにせよ、

しかし不信に陥るようなことは断じてあり得ないのである。」

P173
「『何ものにもまして神を愛し、君の隣人を君自身のごとくに愛せよ』

これは厳然たる命令であり、愛を命じる法則に対する尊敬を要求し、
愛を自分の原理とすることを各自の任意な選択に委ねてはいない」

『判断力批判』

美学的判断力

悟性・理性と同様に
判断力にもア・プリオリな原理があります。

感性的世界(自然概念)から
超感性的世界(自由概念)へ影響を及ぼすことはありませんが、

ⅩⅩⅣ
「論理的使用において、
判断力が悟性から理性への
移り行きを可能ならしめると同様に、

自然概念の領域から自由概念への
移り行きを成就するだろう。」

〈自由美と付属美について〉

感官から判断した場合、
対象が本来なんであるかの概念を前提しない、
純粋な趣味判断、即ち自由美である。

思考から判断した場合、
美を対象の付属的性質としかみなさない、
応用的な趣味判断、即ち付属美である。

〈憂愁〉127

「人里離れた田舎の別荘で静かに生活を送る」

「人知れぬ絶海の孤島で、
少数の家族と一緒に一生を過ごす」

「人間を愛することができないまでも、
せめて憎まないために

一切の社交的な喜びを断念するのは、
僅かな犠牲でしかないと思うようになる。

こういう悲哀は、理念に基づくものであるから
やはり崇高である。

人間はかかる寂莫の境地に身を置き、
世間についてもはや何事も見聞したくないという
ひそかな願望を抱いているのである。」

〈笑いについて〉228

「笑いは緊張した期待が突然
無に転化することから生じる情緒である。」

緊張と弛緩とが互いに急速に交替すると
心は振動状態となる。

横隔膜に伝わり、極く短い間隔で急速に空気を吐き出し、
こうして疲労を生ぜしめるが健康に有益な運動を生ぜしめるのである。

目的論的判断力

「感謝、服従、恭順(当然受くべき懲戒に服すること)の念は、
義務に対する特殊な心的状態である。

そしてこの場合に道徳的心意の拡充を志す彼の心意識は、
世界の内には存在しないような対象を自発的に思い設け、
できるならかかる対象に対して自分の義務を果したいと希うのである。



要するに道徳的法則を与える立法的存在者を、
世界の外に想定することが必要なのである。

そしてその場合に我々は理論的証明や、
まして利己的関心などをいささかも顧みることなく、

またはたからの影響に一切関わりのない
純粋な道徳的根拠に基づき、

それ自体だけで道徳的法則を与える
立法的な純粋実践理性の賞賛のみを期待して、
かかる存在者を想定するのである。


このような心的状態は稀にしか出現しない、
また永持ちせずに忽ち消滅して持続的な影響を残さないかもしれない、

更にまたこうして朧げに表象された対象をよく考えもしないで、
従ってまたかかる対象に明瞭な概念を与える努力を払おうともせずに過ぎ去ってしまうかも知れない、

努力する限りにおいてのみ、
知性的世界原因の究極目的に敵従しているものであると判断して差し支えない。」

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