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文理の分離は不可
はじめに
みなさんは文系出身ですか?それとも理系出身ですか?文系と理系で発想や考え方がよく違うと言われます。確かに文系と理系では研究対象が異なりますし、分析方法も違います。しかし、完全に独立した学問領域であったり、分離したりした概念ではありません。今回は自分、文系だからそういったことはわからないであったり、理系だから関係ないであったりという考え方を変えていきたいと思います。
文理が分離はあり得ない
文系と理系はお互いに混ざることのないものだと思われることが多いはずです。実際、理系と文系で求められるものが違うのも事実です。しかし、これらが完全に分離され、独立しているものなのでしょうか?そんなことはありません。法律系の分野で理系の人が活躍することもあれば、工学系の分野で文系の人が従事していることもあります。出身分野で完全に切り離せるかと言うとそんなことはありません。
文系学問の心理学、経済学、政治学では理系分野の知識が必要ですし、心理学や経済学の分野では工学博士が研究していることは珍しくありません。心理学や経済学では理系分野の知識が必要です。心理学で行われる実験には必ず理系の知識は必要ですし、データを集計し分析するときに統計学の知識が必要になります。経済学では景気分析や予測で微分積分を用いて分析をします。
進路選択で理系科目が苦手だから、文系を選び、一番理系から遠そうな文学部へいったものの、専攻が心理学となると理系の知識が必要になります。文系であっても人文科学と呼ばれる分野は文系分野に科学的手法を用います。つまり、その分野では理系の知識は必須です。そこで理系の壁にぶち当たることになるかもしれません。文系の研究は文献を読み漁るだけと思われているかもしれませんが、実はそうではありません。科学的手法を用いた分析を行います。そして、理系と一番かけ離れていそうな哲学こそ科学の出発点です。
理系でも科学史のような歴史を研究するとなると歴史学の分析方法が必要になり、文献の解読をしなければなりません。文系の分析手法は記録を読み漁り、そこで重要なポイントをまとめていくことになります。理系であれ、文献の解読は必須になりますし、科学の歴史を学ぶ上で哲学は必須になります。それこそ、先日、取り上げたデカルトやベーコンも哲学者ですが、分析方法は科学的手法になります。哲学と科学が分かれるようになったのは近代以降で、それまでは科学と哲学に大きな区分はありませんでした。
文系と理系が完全に交わることのない分野として、学校で教えられるかもしれませんが、完全に独立していることはありえません。むしろ、どこかで交わっていると考えるべきです。
「文系だから」「理系だから」で通用するのか?
よく「理系っぽい考えだよね」であったり、「文系だね」であったりとそういう会話を耳にすることがあるかと思います。これまで書いたように文理が完全に分かれていることはなく、こういったことを言っている人はおそらく文理が分離していると考えている人だと思います。数字が強い人でも文系の人はいますし、想像力が豊かな人でも理系の人はいます。こういったことを言う人は、理系は物事をすべて論理的に考えるものだと思っているのかもしれませんし、文系は論理の飛躍があってもいいと思っているのかもしれません。
文系であれ、理系であれ、研究において論理の飛躍はあってはなりません。そんなものを認めれば、研究者がオカルトな存在になり、胡散臭い存在となります。どちらの分野であれ、論理性は重要です。現象Aに対する原因を突き止めることが研究であり、その原因を抽象的なもののせいにするのは素人のやることで、研究者とは呼び難くなります。
一般人であれば、抽象的な結論に至っても問題はありません。なぜなら、我々は研究で生計を立てている身ではありません。しかし、抽象的な結論や原因を求めるようになると、本当の意味での分析ができなくなり、仕事や人生における判断を見誤ることになります。仕事や人生の判断を誤ってしまうと非常に危険で、取り返しのつかない事態になってもおかしくありません。そこで文系だから、仕方ないよねであったり、理系なのにどうして、、、みたいなことになったりはしないはずです。人生や仕事の決断や分析において、文理の壁は存在しません。文系的発想や理系的発想なるものは勝手に作られた幻想であり、存在しえないものをあたかも存在しているかのようにしているだけです。いわば、蜃気楼のようなものです。
最後に
文系と理系の進路選択である程度将来が決まることはあります。それで学部がある程度絞られ、その後の職種も絞られます。だからといって、思考回路まで限定されることはありません。理系でもユーモアな発想が新しい発明を生み出すきっかけになりますし、文系でもこれまでの業績を分析して経営判断を下すこともあります。出身が文系であれ、理系であれ、思考回路が偏っていることはありません。ユーモアな発想ができない文系の人もいれば、数字にそこまで強くない理系の人もいます。社会とは非常にうまくできていて、こういった枠組みが設けられていても、その枠組みに完全にハマることはなくとも、全体で見れば綺麗にハマることがあります。小さい枠に収めようとするから、大きな枠にはめ込むといびつになるのであって、最初から大きい枠には綺麗にすっぽり収まります。文系理系という小さい枠に囚わすぎると、完成形が非常にいびつになりますが、そういったことに囚われすぎなければ、完成形は非常に綺麗なものになります。小さなピースを綺麗にしようとするあまり、完成形を忘れてしまうことがあります。しかし、完成形を把握しておくと小さなピースが多少変わっていても、うまく当てはまることで綺麗なパズルが完成します。文系だからそういうのは、、、であったり、理系だからそういうのは関係ないであったりとそういう態度でいると自分を小さくしてしまうだけです。文理は完全に分けることができず、どこかしらで交わっているものです。