「障害があるように見えない」「勉強できるからいいじゃない」...って思うじゃん!
優しい発達障害の記事をみつけた。
最近ASDぎみの父とやりとりをせざるおえず、メンタルが不安定になっている私も自己理解noteでまだましだけど、結局、自分の常識の範疇をいつも、超えるズレるの繰り返しになんとも言えない具合の悪さを感じる訳で。
これを読んでこころがあったまった。
ボタンはいつも掛け違えられてしまうのだが、ほんとのほんとの最初のかけ違いはなんだろうと思っていた。
これはちょっと記事を読んでも体験者でないと「なんか納得!!!」に行かないが、いまの私はすごい納得した。
次に、「小学校高学年に入ってからは少しだけお肉も食べられるようになりましたが、」食べられるようになったんかい!!
じゃ、「苦手」じゃん!!となる私の気持ちをわかってくれる人は多いはず。
でも、私の会った発達障害に出会い気づかせるのは、
デフォルト|「苦手」ではなく「できない」という彼らの自己認識
これは、特性に入り、問題の原因にならないが、「自覚がない」と次の認知の歪みで問題が「人間関係がいつもうまくいかない」に移行する。
・「できない」から原因は「自分以外」にあるという認知の歪み
∟自分の説明ができない
∟説明がない上で正当性を主張する(常識のずれがでる)
∟その認識のずれが行動にまで及ぶと「人間関係の崩壊」
「障害があるように見えない」「勉強できるからいいじゃない」が出てくると「苦手」で「できない」ことを相手に押し付ける、またはサボって「してない」となるから難しい。
ただ、ADHDやただの自閉症のように行動から特徴のある、見えるものに関しては、自覚がなくても状況を知っている他者は想像ができるから、まだいいかなと思う一方、目に見えないこの思考の癖については本当に厄介だ。
これが、グレーゾーンのただひとつ、最大級の厄介ごとと言っていいように思えてくる。つまり、それ以外は定型発達も通る道だから、みんな一緒の成長の悩みに「それ以外」は括れると思えるのだ。
今回の記事のように、「障害があるように見えない」「勉強できるからいいじゃない」は周囲との共感性の欠如に集団生活では気をつけないといけない難しさは抱えているけど、学校の成績が良いにも関わらず、提出物が「できない」だけで希望の進学先の内心に到達しないは、ちょっと贅沢な悩みになっている気がした。
進学くらいなら方法はまだあるよ。
もうちょっと説明するとHSPも上記のように認知の歪みを持ちやすい。
・「できない」の原因は「自分」にあるという認知の歪み
∟自分の説明ができない一人反省会がとまらない。
∟説明ができない上で妄想にふける(常識のずれがでる)
∟その認識のずれが日々に及ぶと「人間関係への疲弊・シャットダウン」
このASD傾向とHSPの間の違いに、構造が「似過ぎている」に困惑し、自分が発達障害かと疑ったのだけど、ASD気味の父をみて
「全てと言えるが、自分から起こした行動の言い訳が自分勝手」
それができたらマジで生きやすいわ!とHSPは思ったが、ASD傾向の人は、それで人を本気で怒らせているので困っているようだった。
このように書くとASDが悪いように聞こえるが、私的にいうと敵は「認知の歪み」であり、どちらかというとHSP気質の方が嫌いである。
これは自己嫌悪とかとは別である。
なので、そしてここ最近一番私を患わせているのは、
ASD+HSPの存在。
この人たちは両方のいいところを相殺している恐れがあると感じ始めた。
HSPの共感性
ASDの自分軸の強さ
これが私の会ったASDの中で最強最悪の特徴
・ちょっと頭良さそうに見える
(みなりがしっかりしているだけ)
・理系に見える
(人間関係は憶測がひどい)
・感情豊かそうにみえる
(神経質なだけだった)
・自分のせいとかいうけど、本当に彼らの責任下では謝らない。
・他人を巻き込んだ選択時にも、主観的な決定をする。
・自分と人との境界線があいまい。
などなど。私はこの最上級難し人種に当たっていたから、ASDとHSPの混乱がなお激しかった。
最終的なジャッジとしては、彼らの自主性な行動は他人を巻き込んで、最後は、自分の都合のいい解釈で「立つ鳥跡を濁しまくる」となった。
(これもちょっと説明文にはまだよくないかな)
ただやっと「ASDが悪い」とか思うカサンドラ被害者の感覚は抜けてきた。
それはありがたい。
敵は「認知の歪み」だ。
認知の歪みがASDから来ているのか、HSPから来ているのか、私がジャッジできるようになれば、今世は理想通り生きていける気がしている。
てか、そもそもだけど、HSPの完璧主義のバーが高すぎる。
こんなところに自分の気質が理想軸を置いていたとは。