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美しさと奇妙の境界線
人はそれぞれ苦手なものや好まないものを持っています。そこの始まりは幼少時代に遡るものもあり、過去の経験や環境に影響されていると思います。
苦手な人も多いであろう虫や鳥。私もその1人なのですが、何故か絵ならば観ることのできる不思議があります。多少のグロテスクなものも‥勿論それでも駄目な境界線はあるのですが、そんな事を考えながら、2016年東京美術館で開かれた"若冲"展の図録を開いてみます。
伊藤若冲は江戸時代の画家。京都の錦市場の青物問屋の長男に生まれ、その才能は幼少から開花されていたそうです。何よりも彼の探究心が故だと思いますが、狩野派を学び、中国水墨画の模写を経て独学でその画力を磨いていったといいます。
若冲は家業の傍ら、庭の動植物をそれはそれは熱心に観察していたそうです。鶏も何匹も飼っていたと。生き生きと躍動感のある若冲の表現はその観察眼から生まれたものなのでしょう。
鳥はどちらかというと苦手な対象物なのですが、その画力とモチーフがそれを勝り、感銘を受けたのが伊藤若冲の作品でした。日本画も面白いなと思わせてくれた1人でもあります。またこの没後300年の大きな企画展も素晴らしく、若冲の名を世間、世界に広めたイベントだったと思います。
蛙におたまじゃくし、虫にトカゲ。小さい頃は平気で触れる事ができたのに、どこかでギョッとする対象となってしまいましたが、若冲の絵を見るとどこか可愛らしく愛らしくうつりませんか。しっかりと鮮明に描かれているのですが、若冲オリジナルの絵のタッチとそれぞれの配置がそうさせるのでしょう。
葡萄葉の染みも味の一つに。また絶妙な配置でとてもセンスが良く描かれています。こちらは襖絵です。
コミカルな配置が可愛らしく美しい。本当に巧みだなと鑑賞者を唸らせます。これをデザイン力と表現するとまた異論もあるかと思いますが‥
苦手意識のあるものも、時に気持ち悪がられるものも、配置や魅せ方で美しくみえるということです。
そしてもう一つ言えるのは、対象物が"いかに自然な環境下"にいるかどうか。
不自然な場所にいるからこそ違和感も感じるしギョッとしてしまう。若冲の絵から離れますが、紫陽花の葉の上で見つけた蛙は愛らしく私にはうつりました。
これがグラスの上に乗っていたらとんでもなく驚いてしまうし気持ち悪いなと思ってしまいます。
居るべきところに居るべきなのでしょう。
ふと出た鳥の話から
その動植物達を愛で、自然を観察することに重きを置いた"若冲の絵の素晴らしさ"と様々な者達がどこに"存在"するかで-美しいか奇妙かの線引き-が行われるかを再認識しました。
あくまで私にとってですが、若冲の中の鳥や紫陽花の上の蛙は優雅で美しいものとして見ることができるのです。そんな事を考えたお話でした。
エドワードゴーリーの雑多なアルファベットはおまけ。