自分の意識をどこに向けるかで人生の質が変わる。
今日午前中にブレスワークをしました。
今回は、いろいろ身体が動きながらも、途中から生かされている喜びに始終涙が出ました。
両親からの愛がまっすぐに感じられないで育ってきたからこそ起こして人間関係の困難さ、ただ生きることの難しさ、今まで出会って別れてきた人たちが、走馬灯のように私の頭の中を過ぎ去っていきました。
仲違いしている兄に
お兄ちゃん赦します。
話しをしなくなった義理の姉に
もう私は赦しています。
関係に困難さを抱えてきた人、ひとりひとりに赦しの言葉をかけていました。
両親にも挨拶をしていました。
そして、大いなるものに与えてもらっている愛、生命の素晴らしさに、ただひたすら感謝を捧げる時間になっていました。
終わったらぐったりして腰の痛みが蘇り、出かけるつもりがしんどくて、予定をずらし30分くらい横になり休みました。
起きてみたら腰がだいぶ楽になっていました。
あー、昨日までの私は、
「腰が痛くなるなんて!」
と痛みがあるたびに、そこを無意識に罰するような、否定するようなことをしていました。
今日は、
「こんなに痛いのは、やっぱり少し休んでというサインかもね。わかったよ少し休もう。」
と休んだら、痛みが軽くなりそのあと動けるようになっていました。
あー、昨日までの私は
期待していたような動きを私ができないと、
無意識に自分を叱り飛ばしていたようなところがあったな、と気づきました。
起きていることを、分かったよ、とゆるして受け入れていけば大したことでないことも、何をやってるんだ私は!と自分を罰すれば罰するほど、身動きが取れなくなっていたんだなあ、と思いました。
私にそのように接してきた両親も、またその上の両親から罰せられる、という罪悪感から行動を起こしてきたのだと感じます。
そのことも事実として受け入れます。
自分の意識を、意志を持って起きていることをただ許し受け入れるか、なにをやっているんだ!とコントロールしようとするか。
それによって、スムーズに人生が流れるか、いちいちフラストレーションをためるか、の分岐点になるんだ、
と感じました。
どちらを選択できるか、は意志のチカラも必要になるのかもしれません。
やり慣れない事はうまくいかなくて当たり前です。
それでも何度も失敗しても繰り返していけば、いつかそちらの意志を持って選択したほうが、慣れたほうになる日が来るのだ、と感じます。
失敗してもまたそれを許し受け入れて、何度も慣れるまで物事をコントロールせず、受け入れる方を選択したい、と思いました。
誰かの何かのヒントになれば嬉しいです。
お読みいただき、ありがとうございます。