#20 いよいよ大学入学!! なんと周りは帰国子女だらけ? 【7年間の不登校から大学院へ】
小中学校7年間の不登校を経て、第一志望の大学に合格した前回記事はこちらから。
今回の記事では、大学入学時は学部成績75位ぐらいだったところから、在学中に学部成績トップ25位以内に入るまでの勉強漬けの日々だった4年間を綴っていきます。
私が大学に入ってから「この4年間、後悔がないぐらい勉強をしよう」と決意したのは、多くの人からの影響を受けてのことでした。
最も影響を受けたのは、入学後のオリエンテーションで先輩たちが、新入生の私たちに語ってくれた数々の真っ直ぐな言葉たちです。
それはまるで、新入生だった過去の自分にもし語りかけるなら、というような語り口調で、真っ直ぐな言葉だったからこそ、そのままダイレクトに心へと響いてきました。
いわゆる大学らしい傾斜のついた大きな教室で、そんな壇上に立って語る先輩たちの姿に憧れを抱き、感銘を受けたあの日。
「学生のうちにしておいた方がいいことっていっぱいあるけれど、やっぱり勉強こそ今しかできないことだったなって思います。だから、みんなにはたくさん学んでいってほしい」
「大学生のうちに、遊びや思い出づくりもたくさんしてください。でも、やっぱりそれ以上に勉強をして、いろんな物事を知ってほしい」
「留学は費用が高いというイメージがあるけれど、成績を満たせば特待生として無償で行けたりする制度もあります。だから、何事にも最初に、『あぁ私には無理だ』って思わずにいてほしい」
オリエンテーション終了のチャイムが鳴って、すかさず新入生がゾロゾロと帰り支度をするなか、ある先輩はマイクを取って必死にこう語り続けていました。
「最後にこれだけ聞いてください。
みなさんの前には、『4年』という長いようであっという間の大学生活がまさにいまスタートしようとしています。その4年間を、ただ過ごすのか、それとも日々なにかを学ぼうとするのか、それによって4年後は大きく違ってきます。
私はここの大学で、学ぶことの楽しさだったり、学ぶことでしか分からなかった、もしくは学ぶ前には分かろうとすらしなかった自分に気づくことが沢山ありました。
だから、これからの4年間をこの大学で、綺麗なキャンパスで自由にいっぱい学んでほしい。
私はこの大学に来て本当によかった。
母校を誇りに思えるってとても幸せなことです。
だから、ここにいる新入生のみなさんにも、4年後にそんなふうな気持ちで卒業していってほしい、そう願っています」
今でも鮮明に覚えているぐらい、なぜかこの先輩の言葉が頭から離れず、本当に伝えてあげたい! 言わなきゃ! と心の底から思っていたのだろうな、と伝わってくるほどの先輩の言葉は、私のなかにずっと残り続けました。
もう名前も覚えていないあの先輩に伝えたい。
先輩が語っていたように、オリエンテーションのあの日からトータルで6年間も、綺麗なキャンパスで学び続けた日々は素晴らしかったです。私も母校を誇りに思うし、その気持ちは決して変わりません。
清々しい気持ちで卒業できたこと、それが宝物です。
……と、初めからやたら感動的に書いてしまいましたが、大学当初の私は本当に挫けそうになっていました。
大学での授業がスタートした数日後、今でも覚えていますが、本当に周りの子たちと自分のレベルが違いすぎて「私、この大学を卒業できないかもしれない」と真剣に思い、帰り道に合流した両親に真剣な面持ちで、本気でそう言いました。
英語に興味があったため国際系の学部に進学した私。
でも、大学で出会った周りの子たちは帰国子女、バイリンガル、トリリンガル……と英語はそもそも喋れるのが当たり前。授業も課題もプレゼンテーションも全部の基本は英語。想定はしていたけれど、その想定をも超えるレベルでした。
当時の私のTOEIC点数は470点。
英語はほぼ喋れず、聞き取れず、話せず、読めない、書けない。
入学後、自分はレベルの違いすぎるところに来てしまった、と本気で思いました。
でも、毎日少しずつ、一歩ずつ、一枚ずつ羽を蓄えて楽しみを見つけながら学んでいたら、入学時には同じぐらいの成績だった子たちをいつの間にか通り越して、4年生のときには「入学後に最も成績が伸びた者」として大学から表彰されました。
大学3年生で受けたTOEICは865点。
入学時から約400点アップ。
それ以降はTOEICを受験しなくなったので具体的な点数は分かりませんが、一枚ずつ羽を蓄えて、少しずつどんどんと高い環境に行けるようになったら、どんどん高い環境にいる人たちが見えてきて、その人たちにただ憧れて目指して習っていたら、あるときを境に空に浮かび始めた、そんな感じでした。
この一連の文章で、私にはずっと「環境」がキーポイントだったと書き綴っています。
それは、「環境」というのは選べるということを伝えたかったから。
そして「環境」は水や空気のようだということ。
特に気にしていなくても何かしら影響を受けて染まってゆく。
だからこそ、自分に合った空気や水を取り入れることが大切だと感じます。
自分に合う空気や水を模索して選ぶ。
もちろん、最初から「この水が好き! ここの空気が好き!」なんて簡単には見つけられないのと同じように、いろんな水に浸かってみて、「これはやっぱり違う」「ここにはいたくない」「これは肌に合わない」など気が付いて初めて分かるものだから難しくて、途中で何度もくじけそうになる。
私は、自由で、明るくて、開放的で、それでいて他の子に茶化されたりしない環境に行ってみたいとずっと思っていました。
そんなふうに、私のことを下げようとしてくる子たちが、もうついて来れないようなところまで上がって行ってみたい。
そう考えて、ずっと羽を蓄え続けました。
悔しさをバネに、劣等感をエネルギーに。
そして劣等感のエネルギーを燃やし尽くしたら、今度は憧れに近い澄んだ気持ちを抱いて軽やかに。
そうしたら、今は見えない景色がいつかきっと見えてくると信じて、自分に対して頑張ることを決めたのです。
そう、私にとって勉強とは、自分を頑張るということだったのだと思います。
自分のために、よりよく生きるために、もっと高いところに行ってみたいから、そのために自分のために自分が頑張ってあげること。
それが私の場合は、今までずっとできなかった勉強というものだったのかもしれません。
#1 から長々と更新してきましたが、#22 をもって記事を完結する予定です。
大人になるまで、社会に出るまで、あとすこし。
さぁ、もうちょっと、自分!
大学入学
大学1年生。18歳。
私の学部はとにかく課題が多かった。入学前から、勉強漬けのキャンパスライフになると聞かされてはいたけれど、本当にその通りだった。
受験勉強では割ける時間の全てを勉強に費やした、なんて書いたけれど、大学1年生ではそれよりも一段階上の「毎日寝るのは夜中2時ごろ、起床は6時で、朝の8時にはもう大学にいて授業を受けて、図書館が閉館するまで勉強する。帰宅後も、休日も、ほぼ全ての時間を勉強に費やしている」という日々を送ることになった。
やってもやっても課題が終わらず、さらに追加で復習と予習をしないと授業についていけない、テストで高得点を取らないと単位がもらえない。つまりは卒業できなくなる。
私はとりあえず周りについていこうと、必死だった。
大学には本当にいろんな子がいて、バイリンガルの子や、勉強ができる子、なかには勉強をする気がない子など本当に様々だった。
卒業単位に関係のない講義でも積極的に聴講したり、外部の勉強会などにも参加したりする子。
遊んで授業を休んでばかりの子、楽単(らくたん)といって単位が取るのが楽だからという理由だけで履修内容を決めていく子。
だから自分はどうなりたいかを、明確じゃなくてもいいから、イメージして心に持っておくのが大切だった。
私は英語がほとんど全く喋れず、聞き取れもしなかったため、ネイティブの先生が喋る流暢な英語での授業についていけなかった。
口頭で流れるように説明された課題の範囲も提出期限や方法(オンラインか教授のオフィスに提出か)なども分からず、本当に落ち込む毎日。
とある授業、A4数枚の英語のニュース記事を読んで、先生が出す設問を解いて早いもの順で回答するものがあって、みんな10分も経っていないのにどんどんと回答して正解していた。
そんななか、私はまだ記事すら目を通して読めてもいなかった。
みんなとの差に、自分と周りとの差に自分が一番落ち込んだ。
朝起きて登校して、一日講義を受けた帰り道は集中疲れで頭痛がした。
疲れが溜まってきた週末の夕方からは、集中力が切れた瞬間から英語が耳に入ってこなくなる日もあった。先生が言っていることを分かりたいのに、分からなくて、でもそんな明日明後日で聞き取れるようにもならなくて、とってももどかしい日々だった。
とある講義では1,000単語が範囲の単語テストが定期的にあって、何度も紙に英単語を書いて家のいたるところに貼り付けて、毎朝の電車と通学路では歩きながら単語帳を片手に頭に叩き込ませていて通学していた。
文法問題をひたすら解いて、英単語をひたすら覚えて、プレゼン原稿を丸暗記して、レポートを書いて、国際ニュース記事を読んで、英米文学の本文を読んでプレゼンをつくる……。
毎日の課題をこなすのは、本当に時間との戦いだった。
こんな感じで次の日の課題をこなすのに精一杯で、講義でクタクタになった帰宅後も夜中の2時や3時まで勉強してやっと翌日分の課題が終わるという感じだった。
こんなスケジュールも、10代という若さだから出来たのかもしれない。
いまもう一度、あの6年間の全く同じ日々をやり直せと言われたら、私はすかさず断るだろう。
そんな日々を夏休みまで繰り返した。
そんなふうに時間に追われて課題をする日々だったから、キャンパスライフなんてもってのほか、スタバに頻繁に行っている同級生のインスタを見ながら「そんな時間どこにあるんだろうね?」なんて友だちと言っていた。
こんなに頑張っても、無駄なんじゃないか、なんて思うこともあった。
そんな頑張る日々を送っていても、すぐには結果が出なかったから。
でも、夏休み前の最後の登校日、英文法のテストが個別に返却される機会があってそこで嬉しい出来事が起こった。
バリバリの英語キャリアウーマンを体現するかのような、憧れの先生に個別にテスト結果を受け取りに行ったときのこと。
テスト返却の際、「みんな点数がすごく悪かったのに、あなただけ高得点だった。どうして?」と言われた。「大学入学から今日まで、本当に勉強しかしていないと言い切れるほどやってました」と答えたら「ヨシヨシしてあげよう」と頭を撫でてもらえた。
まるで子どもを褒めるような感じだったけれど、それが本当に純粋に嬉しかった。
文章にするとなんだか変態みたいだけれど、本当に単純に嬉しかったのだ。
「本当に、授業を休んでまで遊ぶためにバイトをしている子たちは、その休んだ一回分の授業料の方が、バイトの時給よりはるかに高いことを知っているのかしら」と先生は言いながら、ちゃんとその先生は私が必死に頑張っていることをテストの結果で分かってくれていた。
見てくれている人は、ちゃんといた。
見てくれているから、褒めてもらえるから頑張るのではないけれど、でも嬉しかった。
夏休み前日に起こったそんな嬉しい出来事。
明日から2ヶ月間の夏休み。
「今日も帰ったら課題しなきゃ……。え、いや、今日の夜はもう課題をせずに寝てもいいんだ! 夏休みは遊びまくろっと♪」と思っていた。先生にヨシヨシされる前までは。
でもやっぱりちょっと考え直して、結局、夏休み2ヶ月間も大学の図書館に連日通ってとことんTOEIC対策の勉強をした。なぜなら、TOEIC600点以上の人しか受講できない講義に2年生からは参加したかったから。
もっと上の授業に参加したら、きっと、もっといろんな人に出会える。
あの憧れのバリバリの英語キャリアウーマンみたいな先生にも、もしかしたらなれるかもしれない。
そんな夢を抱いて、黙々とTOEIC対策の勉強に打ち込んでいた。
大学2年生
大学2年生。19歳。
TOEIC600点以上が履修条件だった講義に、無事に参加することができた。
より上の内容を学べる嬉しさ、その環境に通えることが嬉しかった。
2年生ではさらに講義内容が難しくなって、受け身的に受講していたクラスがどんどんと自発的な内容に変わっていった。
講義内でディベート(もちろん両者とも英語で議論)や、英文法の説明を自分がみんなに向かって全て英語でレクチャーするなんて授業もあった。
みんなの前に立って英語でプレゼンをしたり、質疑応答をしたりと、強制的に英語力が試される機会があったので、どんどんと英語の実力も否応なしに上がっていった。
1ヶ月間の語学留学
大学2年生の夏、一ヶ月間アメリカへ短期留学をさせてもらえることになった。
1ヶ月間ホームステイをしながらアメリカの大学に通ったのだけれど、これが本当に楽しかった。
日常会話レベルであれば割と自由に喋れるレベルになっていたため、15歳のときに行ったイギリスで入国審査官に "repeat after me?" なんてすっとぼけたことを言ってしまったときよりも、本当に盛りだくさんな経験になった。
短期留学を経験して学んだこと
一ヶ月間という短期間でも、留学を経験してからは自然と英語に対する抵抗感というか苦手意識が少し和らいだ気がした。
単語ずつでも伝わるし、こちらもちゃんと聞き返していけば理解できることが分かったからいうか、どんな言語を喋っていても相手は人間なのだからということが身をもって知れたいい経験だった。
でもやっぱり一番驚いたことは、違う自分に出会えたこと。
"one language has one thought"(一つの言語につき、一つの考えを持つ) という言葉を聞いたことがある。とっても簡単に説明すると、人間は一言語につき一つの考えを持つというもの。
つまり、日本語を喋っているときは日本語の私がいて、英語を喋っているときは英語の私がいる。
同じ人間なのだけれど、喋る言語が変わるとまるで別の人間になって演じ分けているかのように、行動や思考や態度が変わったりすることを指す。
たとえばだけれど、留学しているときの脳内は全てが英語で、寝ている間にみる夢も英語で見ていたし、日常生活での思考も全て英語だった。
相手の英語をそのまま英語で聞いて、英語で考えて、そのまま英語でアウトプットする。
これらのどこかに日本語を介在させていると時間がかかったり、変な英語になってしまったりするから。
すると、表現方法も英語に寄っていくからか、思考もどんどんとストレートな考え方になったりして、そこから伝え方もハッキリとした直接的な表現に変化していったりと、どんどんと「英語の私」が完成していった感覚があった。
日本語の私とは違って、「英語の私」はとてもフレンドリーだし明るくて誰にでも臆せずに話しかけることができた。
それはたぶん「こんにちは」とか「ありがとうございます」よりも「Hello!」「Thank you!」の方が気軽に言いやすいとかそんな差異も関係しているのだと思う。
日本では店員さんに話しかけて一緒に写真を撮ったりしないのに、アメリカにいるときはクッキーの店員さんに声をかけて一緒に写真を撮ってもらったりした。
日本語の私では出現しない私の隠された一部分が、英語の私だと解放されて出現しやすいなんてことにも気がついた。
もしかしたら、私は知らず知らずのうちに、ずっと周りが期待/予測する「私」を自分で演じていたのかもしれない、とも感じた体験だった。
アメリカに行ってみて、自分のことや過去なんかも誰も全く知らないまっさらな環境にいたら、まるで私は生まれ変わったように、明るく自由で開放的な気持ちになっている自分がそこにいた。
大学3年生
大学3年生。20歳。
ゼミでの活動と卒業論文がスタートした。
相変わらずプレゼンテーションの講義は数を増していて、プレゼン原稿もA4サイズ5枚分ぐらいを一週間に2つ暗記して、それをみんなの前で発表するレベルになっていた。
段階的に難易度を高めていく大学のカリキュラムはやっぱりすごい。
1年生の時には到底無理だと思い込んでいたレベルのことが、目の前の課題をコツコツと2年間やり続けていれば、3年生ではそんなことが普通になっていた。
そして大学3年生にもなると必修講義の数に少し余裕が出てくるので、私は外部の勉強会などにも参加するようになった。
学生という立場は物凄くて、探せば企業などが開催する勉強会に無料で参加できたりする。
不登校だった7年間のブランクを埋める、なんて考えはもうその頃にはあまり意識しないようになっていたけれど、私は学ぶうちにもっと知りたい、もっと学びたいと自然に思うようになっていた。
他学部の講義に潜り込んでは、自分の専門とは全く関係のない授業を聴講したりしていた。
実はいまでも、そんな聴講で学んだ数々の知識が仕事に生かされていたりする。
本当に「学生」というのは学びたい放題で、いろんなことが経験できる。
どの学問の入り口も常に開かれていて、興味を持ったらそれらのどこにでも入ることができるのが学生の特権だった。
私は学びたいだけ、学んだ。
本も読みたいだけ、読んだ。
習いたいだけ、習った。
羽を少しずつ蓄えて、それがいつかやっと翼になったら、舞い上がって。
そんなふうに飛んだところからは何が見えるのか、いったいどんな世界が広がっているのか、それが知りたかった、見てみたかった。
純粋にそう思い始めたら、また、圧倒的大多数が進む「就職」という選択肢ではなく、「大学院への進学」という選択肢が見えてきた。
でも、大学院へ進学するという選択肢は、とっても厳しいものに見えた。
そんな進路で迷い、でも最終的に大学院への受験を決意した大学3年生の詳細はまた次回に。
次回は #21 元不登校、就職という道か、それとも大学院という選択か【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。