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私が完璧を追い求めることを辞めた訳
こんにちは、アラサー女、人生ゲーム中のhanaです!
幼い頃から、「しっかりしてるね。」とよく言われていた私。
確かに、割と何でも器用な方で、少し頑張れば大抵ことはできた。
そして大人が求める意見を推測して、振る舞ってしまうような子どもだった。
幼い頃は割と何でもこなせてしまう自分を得だなぁとか思ったりしていた😅
なぜこんな風になったんだろう。
たぶん、単純に大人が喜ぶ姿が嬉しくて、素直な気持ちを出した時に大人が戸惑ったり、怒ったりするのが嫌だったからだと思う。
やたらと周りの目を気にする子どもだった。
親族で集まる時も、誰とも喋らず1人でいる大人を見ると、「しゃべってあげないと、かわいそうだ。」とか思っていた。笑
そんな風に大きくなった私は勝手にしっかりした自分を作り上げ、真面目で努力する人間になった。
中学の部活では、誰も副部長の立候補者がいないとなると、その空気に耐えられず、やりたくもないのに手を挙げた。
すると顧問の先生や先輩、同級生たちは喜んだ。
そして、しっかりと役目を果たした。
高校では常に成績トップ。
頭がいいと言うよりは、”良い成績を取った方がいい”というだけの気持ちから、テスト前のみ必死に暗記した。
その努力を否定する訳ではないが、あれは何の意味があったのだろうと、時々考える。笑
しかし私はそのおかげで、大学受験は推薦で入る事が出来た。一応名の知れた有名大学で、一般的な道を歩むには十分に完成された道が出来上がった。
そう、私は自分の心の声をしっかりと聞く事ができる子どもではなかった。
休み時間に輪に入らずマイペースに絵を描いたり、思いっきり暴れてわがままを言ってる周りの子供が羨ましかった。
いつも周りの目を気にして、世間的に良いとされている選択肢を選び、努力し、その結果周りの評価が”しっかりしてるね”になったのだ。
しかし、私は自分のことをしっかりしてるなんて思ったことがない。
私は全くしっかりなんてしてなんかいない。
だから私は「いい子だね」、「真面目だね」という純粋な褒め言葉さえも素直に受け取れず、いつもモヤモヤしていた。
このような自分の心に従わない選択を重ね、(本当の意思に沿わない)努力し続けていると、いつか自分を見失う。
そして、いつまで経っても完成しない完璧を追い求め、不毛な完璧主義者になってしまう。
社会人になってからももちろんそれは続いた。
フリーランスとしてダンサーになり、webデザイナーとして就職し、オーストラリアへワーホリに行き、そして帰ってきた時。
この時やっと私は完璧に完璧主義を辞めた。
これはつい最近の話。
途中、大失恋によって完璧主義を疑った時があったが、その時はまだ今思えば60%くらいだった。笑
”しっかり者の呪縛”から離れ、完璧主義を辞めるまで約30年もかかってしまった。
完璧主義を辞めた理由。
それは、【誰もがそのままで、その人のままで、それで十分だから】と言うことに気付いたから。
帰国後数ヶ月、ただ”生きる”ということに集中した結果、忙しい日々の中では気づく事が出来なかったことを沢山発見した。
一度強制的にリセットできた事によって私は生まれ変わることができた。
そしてそんな自分を怖がらず、家族や友達に曝け出した結果、驚く事に私のありのままを否定する者はいなかった。
何で自分はこうなんだ、周りの環境のせいで完璧主義で真面目な生きにくい自分になってしまったと、そんなマインドでこれまで生きてきてしまったが、それは結局自分の選択だったのだと。
自分が幸せになる為には、自分で変えるしかない。
何も言い訳せずに、受け入れて感謝する事が出来たら、世界は変わると知った。
だからその為に、少しくらいダメな期間があってもいい。
あなたの価値は変わらない。
もちろん、このお話は、完璧主義がダメだと言う事ではないです。
ただそれによってしんどい気持ちがあるなら、一旦立ち止まって考えてみる勇気も必要なのかもしれない、と思うのです。
それから、人生は過程だという事。
夢や目標を持つことは素晴らしいことですが、それが手に入るまでは未完成、不幸せ、というマインドは、勿体無いなぁと思うのです。
だって人生のほとんどが過程だから。
その間に経験する全てが人生の宝物。
だから、ただ自分が自分であること、その喜びを感じながら、完璧ではなく、目標を達成できたらいいなと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました😌