恥ずかしさと向き合ってみた
私は極度な恥ずかしがりで、それがずっとコンプレックスだった。
心のことを学ぶきっかけの一つが、この恥ずかしさ。
ただ、ここ数年は自己受容のおかげか、そこまで気にならなくなっていた。
そう思っていたけど、昨日不意に会社で褒められ、久々に恥ずかしがりが蘇り、動揺した。
でも、何となくそれを俯瞰している自分もいた。
私は褒められることが恥ずかしいのではなく、褒められて照れていること、奥にあるものがバレるような気がして恥ずかしい。
大したことないですよって、クールに構えていたい。普段、そういうクールな仮面を付けているんだ。
本当はめちゃくちゃ喜んだり、調子に乗っちゃう自分がいる、ということ。
こういう自分も、過去の経験から、隠さざるを得なくなり、そう決めた。
過去、本来の自分を出したら、調子に乗ったら怒られた、嫌われた、もしくは、誰かを傷つけた、とか。
それによって、調子に乗るなって、出しちゃダメと、内側に封じ込めた。
内側にあるもの、隠しているものを見られているようで落ち着かなくなり、動揺する。
さらに、そこには、怖さも乗っかっている。
バレないようクールを気取ってる。
だから、本来の自分を出そうとしても、自分の許可がなかなかおりない。
調子に乗るという内側の自分とは違う、クールな自分を外側に作るから、そこにはギャップが生まれる。
また、外側が強くなり過ぎて、本来の自分を忘れてしまう。
でも、それは忘れているだけであって、外側の自分でやり過ごそうとしても、内側の自分は黙っちゃいないし、暴れ出す。
それくらい内側の自分は強い。
本当は内側の自分でありたい。
だって、本来の自分はこっちだから。
それくらい大切なもの。
本来の自分、素直に喜んで、調子に乗っちゃってもいいよと、許可を出してあげる。
外に出せなくても、内側にそんな自分がいることを認めてあげる。
褒められる、そんな自分を自分が卑下する必要なんてない。
嬉しい、ありがとうってサラッと受け取る。
クールでもいいし,嬉しくてニヤニヤしてもいいし、照れちゃってもいい。
どんな自分でも、それでもいいよ、そう言ってあげる。
だって、そうなんだから。