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禅語を味わう...022:室閑かなれば茶味清し...

室閑茶味清しつしずかなればちゃみきよし


十一月もはや、終わりにさしかかりました。
季節は晩秋から冬になります。

十一月は、「炉開ろびらき」、そして「口切くちきりの茶事ちゃじ」...
立冬を待って、炉を開きます。そして、収穫のお祭である新嘗祭にいなめさいを待って、初夏に詰められた茶壺ちゃつぼの口を開いて、新茶を飲み始めます。
このように、お茶をたしなむ人にとっては、嬉しく心弾む行事が続きます。
昔から十一月は「茶人の正月」と言われるのももっともなことです。

さて、今回の禅語は、このように、お茶にとって、一番の盛りの季節ということで、

室閑しつしずかなれば茶味清ちゃみきよし...

という言葉を味わってみることにします。

この語、お茶席に掛けられていることもよくありますが、出典は明らかになっていません。
言葉の調子から、「ちゃ」の世界のことを言っているととるのが自然ですから、江戸時代に、お茶人か、茶の嗜みのある禅僧が残した言葉と考えることができるでしょう。

この語を味わう時に、まず目につくのは「室しずかなれば...」の「閑」ですね。「しずか」と読み下していますから「静か」と近い意味なのか、と想像することができます。
「閑」という言葉の辞書的な意味を調べてみると、辞の成り立ちは、「門」+「木」。
門に木をわたしたさまをかたどる、といいます(『字源』)。
意味は、そうした成り立ちからわかるように、

①かんぬき、柵などに用いられる横木(同義字:闌、欄)
②規範、規則。

そこから転じてでしょうか、


④ひま、いとま(閑職・閑人・小閑) → 対義字:忙。

という意味も持っています。門を閉ざして、慌ただしい外界を遮断しゃだんして、世俗を離れ、静かに自分の時間を味わう、ということでしょう。
そこからさらに、

⑤のどか、しずか(閑散・閑静・森閑)。
⑥なおざり、おろそか。「閑却」「等閑」
⑦ならう、なれる。

といった意味も担っています。
豪壮な宮殿や厳格な役所の門が閉ざされ、かんぬきがかけられているならば、窮屈な感じがしますが、この語はむしろ、粗末ないおりに簡単な門が設けられ、ささやかでも、静かでゆったりと寛いだ世界が広がるようなイメージの言葉なのでしょう。
そうすると、この「閑」は、ただ物音がしない、という静けさではなく、ゴタゴタした俗世の喧噪けんそうを離れた、精神的な静けさ、おおらかさ、脱俗的な清らかさを意味する「しずか」なのだと考えられます。
それゆえ、禅の世界や茶の湯の世界においては、古来、この「閑」という言葉に、幽静ゆうせい閑寂かんじゃく洒脱しゃだつ孤高ここうといった意味がこめられてきました。

室閑かなれば茶味清し...

欲望や執着から離れ、静かでゆったりした時間が流れる一部屋...
そこには、シュンシュンと釜がリズミカルで軽やかな音を立てています。
さっぱりと清潔に掃き清められた畳、爽やかな風が心地良く吹き抜けるお茶室...
綺麗に掃除され、瑞々しい打ち水が新鮮なみどりをひときわ鮮やかに惹き立てる路地を抜けて、簡素そのものの茶室に入る。世俗を離れ、仕事を離れ、義務も目的も離れ、ただ友との一時を楽しむ...舞台は十分、後は...

お茶席では、「清談せいだん」をすることが肝要、俗事を持ち出してはならない、といいます。
しかし、それだけでは、「閑」にはなりません。
舞台は十分なのに、役者が力不足...そんなことにならないようにするには、どうすれば良いのか?

幽静、閑寂、洒脱、孤高...

こうしたものは、すべて、カラリと何も無い処から生まれてきます。
そう、「閑」の扉の向こうには、何か大事なものが隠されて、大切しまわれているのではなく、むしろ「何も無い」ことが肝要なのです。知識も、能力も、身分も権力も、身構えや気負いも必要ありません。すべてを露地で綺麗に払い落として、虚心に室に入る。

 風のそよぎ、苔の翠、澄んだ手水ちょうずの水、釜の音...

見慣れたもの、聴き慣れたものが、新鮮に感じられ、新たな命が吹き込まれるように感じられる瞬間です。いつしか、心が弾み、五感は益々研ぎ澄まされて行きます。
この、無垢の心が動くところ、研ぎ澄まされ、思いの影すら止めない心の働き、禅の世界で言うところの「」が活き活きと立ち上がるその場所が、ここでは「室」つまりお茶室。その時が、一期一会の「茶味清し」の瞬間です。

茶の湯の精神について述べられた茶書の代表である『南方録なんぼうろく』では、こうしたこころのあり方を「直心じきしん」と呼んでいます。そして、火を起こし、湯を沸かし、茶を点てて飲むという単純なことがらの中にこそ、「仏心ぶっしん露出ろしゅつ」つまり仏の心、悟りの心が現れているのだ、と言われています(『滅後めつご』)。

 仏の心、悟りの心...

難しいことのように感じられるかもしれませんが、身も心もリフレッシュされるような新鮮な喜びが感じられる場所で、ああ、美味しい! と思わず声が出るような体験があれば、それで良し、と思って良いのです。
むしろ、そうした素直さを離れ、思案すればするほど、「閑」からも「清」からも、ますます遠ざかってしまうような世界がある。
そんなことを知っておくことは、とても大切なことなのです。

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