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『心』論1:感情転移とストーカーの心理

人間は普通は生まれるとすぐに父と母によって育てられます。

言葉や習慣文化を自然に習ってゆきます。

性格も父母の影響が強く働きかけます。

最初のぬくもりは母が温かいのか自分が温かいのか解らないほどの一体感の状態です。

それを主客未分といいます。

しかし愛情が強ければ強いほどその反動も生じてきます。

愛するがゆえに甘やかすだけでなくしつけや指導も厳しくなることもあります。

愛が満たされないと怒りの感情が起こることになります。

両親に対する感情に矛盾が生じるのです。

このアンビバレンツな感情が将来の感情転移なるのです。

だから『心』の先生は「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺(あざむ)かれた返報に、残酷な復讐(ふくしゅう)をするようになるものだから」というのです。

それでは何故「私」が「先生」に「残酷な復讐」をするというのでしょうか。

これがストーカーの心理なのです。

その原型は父母に対するアンビバレンツな感情だったのです。

そこが有名人のかかえる問題なのです。

当時の漱石はすでに多くの熱烈なフアンがいたでしょう。

そいうストーカーの危険を身をもって感じていたと考えられるいくつか文書があります。

最初はただのフアンがプレゼントをしたり献身的になると失望したときが「残酷な復讐」に変わるのです。

ですからストーカーの心理をよくしっていて防ぐ方法をしっていたのです。

だから一歩間違えると「私」の行為はストーカーだったのです。

「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。」という言葉で危険性がなくなったのです。

何故見ず知らずの「先生」に興味をもち追いかけてゆくのか。

まず第1に、「私は先生とよほど懇意になったつもりでいた」のです。

第2に、「先生からもう少し濃(こまや)かな言葉を予期して掛(かか)ったのである。」

更に過度の期待を持ちます。

第3に、「それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷(いた)めた。私はこういう事でよく先生から失望させ」と言い、不満をつのらせるのです。

勝手に期待して、勝手に不満を向けるのです。

もともとは「先生」になんの責任もあるわけがないのです。

ただ「私」の理想とする父に似ていたのです。

たまたま「先生」がその風格をそなえていただけなのです。

だから「どこかで先生を見たように思」ったのです。

これが感情転移なのです。

「私」が「先生」を感情転移の対象に狙いを定めた時から、理由もなく翌日にも海水浴場へ行くのです。

「それで翌日(あくるひ)もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋(かけぢゃや)まで出かけてみた。」のです。

そして「先生」が泳ぎ出すと、その後を追おうとしました。

この時点では未だ「先生」とは面識は無かったのです。

それでも次の日もその次の日同じ時刻に浜へ行き、「先生」に挨拶をする事無く顔を見るだけで済ますのです。

その後、海へ飛び込んで「先生」の行く方向へ泳いでゆくと、「先生は後ろを振り返って私に話し掛けた」のです。

そして、「先生」が仰向けに寝れば、同じように真似て海水の上に浮いて寝るのです。

これは特異な行動で有るのか無いのか、どちらにも取れる行動ですが、何かを求めている行動です。

感情転移の恐ろしいのは、無条件に相手を信用して、その報酬が得られ無いと「残酷な復讐」が待っているからです。

漱石は多くの門弟やフアンをかかえており優しくするとアイドル同様感情転移の対象になったのではなでしょうか。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用参照は青空文庫です。


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