『不動智神妙録』秘伝の神髄:9 放心とは言葉を使わず催眠をかける方法である、催眠誘導法の擬視法を使うのである。
「不見放心、心要放。不見放心と云は、孟子の云たる事なり。
はなれたる心を尋求て我身へ返へせといふ心也。
たとへば犬猫鶏もはなれて余所へ行ば尋て我家へ帰すに、
心は人の身の主なるを、悪しき道へ行て心が止るを、
何とて尋求て我身へかへさぬぞといふなり。」
「不見放心」とは今行っている事に注意を集中して取り組めということで、孟子の言葉である。
心ここに在らざれば、視れども見えないから気を逸らさずに心を引き締めよということである。
犬猫鶏にたとえれば放っておけば他所へ行って悪さを覚えるぞ。
一度悪さを覚えるとなかなか元へは戻らぬぞという。
武術で言えば我流に成らぬよう基本に忠実であれとの教えである。
何時も言われている事かも知れないが熟練者でも自己のことは気が付かないものだという。
「又部康節といふ者は、心要以放事と云。はらりと替りたる義也。
此心持は、心をとらへつめて置ては、繋れ猫の様にて身がはたらかれぬぞ。
物に心をとられず、物に心のしまぬ様によくつかひなして、心を捨て置て、
何事なりともおっぱなせといふ義也。」
ところが又部康節は心を放てと言うて正反対のこと言う。
その心とはわざの基本に拘っていると工夫や転機が効かぬぞという。
きほんを身につけたら心を広くして基本のワザを忘れて自由に戦ってみよ。
「初心稽古の所作に心が止り、敵に心をとらるるに依てたとへにいふた義也。
至りて至ては心捨ねば用に立ぬ也。蓮の泥にしまぬ物なれば、泥に有ても清し。
磨きたる水の玉は泥へ入てもしまぬ様に心をなして、行度所へやれ。
心を引しめて置くは初心の時の事也。稽古の時は、孟子の心持なり。
至極の時のこころは邵康節が心持なり。」
あまり技に拘っていることは心を留めるなと初心者に言ったことである。
ピカリと光る太刀を見つめていると催眠術に掛かるぞ。
催眠術は擬視法といって一点を見つめさせ相手の心を誘導するだろうそれと同じだ。
注意を集中すればするほど敵の思うツボだ。
ある程度練修を積めば心を放てて心を自由にしてやれ。
心を放てば敵が迷うぞ、勝手に要らぬ勘ぐりをして心が留まるぞ、そこを狙うのだ。
敵に注意させて催眠にかけるのだ。
心が留まれば思うままぞ、ゲシュタルト崩壊させればもはや負けることはないぞ。
心を引しめるのは初心者ぞ稽古のときはそれで良いが孟子は何も知らぬ者に言うことぞ。
達人の心は邵康節が言うた如く心を上の空にしていても蓮の如く心は清し。
「中峯和尚の語に、具に須放心の心。此の心は、邵康節が心と向じ。
心を一所に置なといふ義也。又不退転と云。是も中峯和尚の言葉也。
不退陣、常に替らぬ心を持てと云義也。
一度は能きづへつけども、頓而くづれて常にないほどに、
能國をし堅めて退点せぬ様に心をもてと云義なり。
前の放心の心を能用ひかためよといふ義なり。」
中峯和尚も邵康節と同じことを言っておるぞ。
心を一所に留め置くなと言いながら一歩も引くなとは中峯和尚の言葉ぞ。
不退陣とは決して諦めることなく勝つことを思え。
優勢に進んでいても油断することなく心を引き締めよ。
それには心の放心を利用するのだそうすれば疲れぬぞ。
以上は私流に解釈した心の放心であるがニューアンスとしてはリラックスに近い状態をいう。
『不動智神妙録』秘伝の神髄:9へ続く
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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