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『無門関』第三十則 即心即仏
本則口語訳
大梅法常が馬祖道一禅師に、「仏とはなんですか。」と問うた。
すると馬祖道一禅師は「心が仏だ」と言った。
解説
たったこれだけの問答で意味は、
この「即心即仏」とは文字どうり心そのものが仏だと言っているのだけれども、条件があるのです。
我々の生きている世界は広大無辺なのにその世界を否定して見たり考えたりするから矛盾や悩みが尽きないのだというのである。
世界が広大無辺とは時間的、空間的に無限だということであるが、それをあるがままに実感することが重要なのである。
この時間、空間に無限が無い世界を虚構の世界というのである。
この虚構の世界を証明することはじつに簡単に行うことができるのである。
現実の世界とは時間的、空間的に無限に広がっていて果てしないのです。
魚にとって水は当たり前すぎて水が見えないのと同じで、
人間は無限に囲まれているので無限が見えないのである。
それを実感してもらうために無限の時間、空間の無い世界をお見せしよう。
絵画とか写真はほぼ正確に自然を描写したとしても虚構であることに変わりはないのである。
その理由は時間的、空間的に無限が否定されているからなのである。
時間的、空間的に否定されているとは自己の経験や知識の集合である自己同一性の否定である。
夜の夢は典型的な無限空間の否定された形として現れているのである。
何故なら自然の表像との決定的な違いは背景の無い画像である。
また絵画とか写真は長方形に囲まれていてその外との関係は切断されていて無限の空間も時間も否定されているのである。
それに対して部屋は周囲を壁に囲まれて制限されていても、外には何もないとは考えないのである。
この様に現実の世界は限定されていても無限の世界が失われることは無いのである。
夢の表像は背景が無いだけに強烈に感情に訴えかけるのである。
とはいっても怪我をするわけでも失敗も後に残らないので虚像である。
西井田幾多郎は『行為的直観』において世界を限定するということは自己を限定することであるという。
まず西井田幾多郎の言うことを聞いてみょう。
「個性的に自己自身を限定するということは、世界が作られたものより作るものへと断絶の連続として自己自身を限定することであり、それは現在がどこまでも決定せられたものでありながら、どこまでも自己自身の否定を含み、自己自身を超えて、現在から現在へ行くということである。われわれは現在において触れることのできない絶対に触れるということである。」
ここで「現在において触れることのできない絶対に触れるということである。」という個所に注目しよう。
絶対とは絶対者の意味であり仏のことである。
だから「心が仏だ」と言うのである。
注意すべきことは自己自身の限定と無限の否定と間違わないことである。
自己自身の限定とは無限の世界を肯定しているのである。
ということは虚構の世界では無いのである。
思い込みとかバイアスは無限の世界を否定しているから虚構である。
無門禅師の評語口語訳
世界が無限たと解った人は仏衣をつけ、仏飯を食し、
仏語を説き、仏行を行じていれば、まさしく仏である。
そうはいっても大梅法常は多くの人に誤解をあたえたようだ。
仏のということばを軽々しく口の出しては、
口を洗いきょめなければならない。
真の禅者ならば「即心即仏」と聞けば耳を隠して走りさらん。
解説
即座に真理が解る人であればその人は仏である。
それにしても軽々しく「即心即仏」といって人を混乱に陥れてはいけない。
この世界を虚構だと言って信じてしまう人も居るからだ。
この現実はすべてが真実でもなければ、全てが虚構のせかいでもないことを知るべきだ。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
『日本の名著西田幾多郎』中央公論新社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。