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『心』論5:自由と孤独は不二の関係

漱石は『心』において「自由と独立と己(おの)れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」という。

漱石はここで「自由と独立」は人間関係において開放的な自由を提供するものではないと言っていいます。

自由と独立」は個人を人間関係から疎外して孤独な状態に置くと言っているのですね。

自由と独立」に感化された「私」には「淋しさ」は見えないけれども即非の関係にあるのです。

言い換えると素地と図形の関係に有り、本来は一体の心理なのです。

一体ではあっても同時にその両方は認識出来ないのが人間なのです。

淋しい人間には、自由を感じる事は無いでしょう。

自由を満喫している時には、淋しさは感じ無いでしょう。

ところが、「先生」は「自由と独立」の中に「淋しさ」が潜んでおり、素地と図形の関係に有るのだと考えているのです。

規則や制度、恩や義理人情、親子の愛情、友情、これらは、人間関係や地域や社会、集団の団結をスムーズに運営して行く上で重要な役割を果たしているのです。

ただ個人を束縛する事もあります。

社会や集団から見れば、効果が有っても、個人から見れば自由を奪う働きをするのです。

西洋の自由に触れた漱石にとっては、古い過去の制度や風習は己の自由を縛る障害になっていたのです。

都会に出て自由に出会った「私」の未来は開けたものに見えたのです。

自由に考え、自由に行動している人間に実感として「淋しさ」は無関係な感情であります。

しかし、「自由と独立」にこそ、素地としての「淋しさ」の原因なのです。

「自由と独立」の無い所に「淋しさ」も無いと言うのです。

又自由で熱狂した群衆の中にこそ「淋しさ」は潜んでいるのです。

親離れ子離もその両方の感情を共有しているものです。

「私」もまた父の病気によって帰った、故郷の古い風習を煩雑なものと感じていました。

自由を制約するものと感じていたのです。

卒業すればするで、父は「卒業ができてまあ結構だった。」と言いました。

しかしその一言がとても「私」に重くのしかかったのでした

父の気持ちを考えれば自然な感情で有ります。

しかし父がいなくなれば自由になるかもしれないが全て自分の責任になるのです。

最終的な決断は自己が負わねばならないのです。

そこに「淋しさ」は潜んでいるのです。

「自由」と「淋しさ」は不二の関係にあることがわかります。


真の自由とは

真の自由とは「淋しさ」から自由になることです。

「私」の父こそその自由を手にいれたのです。

「私」の父は、その「自由」と「淋しさ」を十分に噛み締めて居る様に見えます。

死の近いのを自覚していながら、その「淋しさ」や、死の恐怖から「自由」であり、その余命を知っているのは、医者よりも自分が一番良く知っているように感じられる表現が有ります。

「私」が医者から聞いた、注意事項を父に向って説明すると、「『「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己(おれ)の身体(からだ)は必竟(ひっきょう)己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能(よ)く心得ているはずだからね」』」と言います。

この父の「予測」をどの様に思いますか。

医者の予測は当って居なかったのです。

父が卒倒した時に客観的な立場の医者は、とても難しいと死の宣告をしました。

当時の医療技術を考えると正当な判断に違いないと考えられます。

ころが、父は元気を取り戻して、少し良く成ると、母の注意を聞かず、強情に体を動かす事も有りました。

ただ弱気になる時も有り、もう長生きは出来ない事を自覚しており。

母の一人暮らしを心配することもありました。

自分の事よりも母のことを考える余裕が有るのです。

この医者の「予想」と素人の父の「予想」と、どちらが科学的に正しいでしょうか。

アバウトな父の「予想」が現代注目を集めている人工知能に勝るとも劣らない考え方とは誰が予想したでしょうか。

当然父の「予想」の仕方が正しいのです。

父の「予測」は覚悟を決めた冷静な判断で有り、時系列な事実を検証した結果に基ずいているのです。

運動ー反応ー体力の観察ー疲労を確認しての結論をから出た「予測」なのです。

医者の「予測」は極限状態での判断であり事実なのです。

それでは父が、この先十年も二十年も生きている様な予測は、事実に基ずいて居ないように思われますが、実はこれが最近話題に成っているAIの手法なのです。

人間の知能を遥かに凌ぐ人工知能ソフトに採用されている機能でも有ります。

現、近未来の医療技術に採用されている人工知能ソフトが、アバウトなデータから事実や目標、最良の健康状態を追及する医療処理を決定するのです。

具体的には、深層学習と言う最新の人工知能は、乱数、アバウトなデータを事実や目標達成に適合する方向に修正ゆく考えを、「私」の父は生活の知恵として身に付けていたのです。

父の主観的な気持ちとしては、十年二十年と言うアバウトな目標を設定して、予測不可能な生に対して、現在の健康状態と目標との差を、出来るだけ少なくして行く様に、運動と休息を調整する工夫を、日々重ねて行く事を心がけている姿を表現して居るのです。

医者の忠告通り、安静にしているだけでは、寝たきりに成ってしまう可能性が高く成り、悪い方向に進む事になります。

そのような現実に対して、事実とは違った情報を、父に周囲の人々は与え続けるのです。

医者は父を前にして心配するような事は少しも言いませんでした。

何度も何度も倒れるのですが、父は「大丈夫」と言って、元気になり、話ぶりなども心配する様子も無く、食欲もいつもより進んでいました。度重なる危機を乗り越えました。

この父の生き方は人工知能ソフトである深層学習の基本思想でもあります。

理想と事実を検証しながら行動を修正しています。

深層学習の手法は漱石の提唱した「低回趣味」の手法でもあります。

思えば、漱石は百年以上前から人工知能的生き方をしていたのです。

引用参照は青空文庫です


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