『坊っちゃん』論2:性格と不二法門
『坊っちゃん』の性格を分析すると、坊っちゃんの性格が必ずしも一直線に推移したわけでないことです。
性格の描写に一貫性が無く矛盾があり、竹を割ったような真直ぐな性格ばかりではないのです。
坊っちゃんの正直で誠実な性格が幼時期より結末まで続いていたわけではないのです。
幾つかの性格の変化があり、それぞれの性格の間には矛盾したものがあります。
しかしそのような表面的な矛盾した性格が一つの心的働きの二面性なのです。
矛盾した性格は二つであると同時に一つであり不二の関係にあるのです。
この様な矛盾した性格の描写を「全性格の描写」といいます。
夏目漱石は『創作家の態度』で次のように言っています。
「普通の小説で、成功したものと称せられている性格の活動は大概矛盾のないと云う事と同一義に帰着する。」
「一句につづめ得る性格をかき終せたものが成功したような趣が大分あります。しかしこの意味で成功した性格は、個人性格の全面を写し出したものではありません。」
「普通の場合において、個人の性格中のある特性が、その個人の生涯(しょうがい)を貫ぬいている事は事実であります。がこの特性だけで人物が出来上っておらん事も事実であります。のみか、この特性に矛盾反対するような形相をたくさん備えているのが一般の事実であります。」
このように『坊っちゃん』と言う作品は矛盾と亀裂を内包したものですが、読んでいて、少しも統一性に疑問を感じる事はありません。
現実に存在する人間の変化や矛盾に満ちた性格の描写が充分に達成されているように思います。
「全性格の描写」の成功例と思います。
それではまず最初に坊っちゃんの性格である「乱暴な性格」と「正直な性格」は明らかに同一ではありません。
それぞれ別個の性格で間違っても同一とは言えません。このことは確認できます。
しかしその「乱暴な性格」と「正直な性格」は同じ動機に起因していることが解ります。
その欲求は両親の注意を引き愛情を求める行為に違いありません。
それでは「無鉄砲」な性格とはどのようにして形成され継続されたのでしょうか。
坊っちゃん自身は「親譲(おやゆず)りの無鉄砲(むてっぽう)で小供の時から損ばかりしている。」と言っています。
ラカンによれば人間は「他者」を「鏡」として「自己」を映しそれを「自我」として形成してゆくという。
生まれたばかりの赤ちゃんには意識とか自我というものがない状態でうまれます。
自我がめばえるのは鏡で自己の身体を見てその身体を中心に他者との関係を自己として取り入れてゆくのだといいます。
前回夏目漱石が「私という者は、一方から言えば、他(ひと)が造って呉れたようなものである。」といったのは正にこのこをいったのです。
周囲の社会が子供にあたえる評価を自分自身だと自覚すると考えれば坊っちゃんは周囲の言葉によって自己を形成してゆくのです。
ただその悪口が言われた時だけならいいのですが、数回言われても本人はそれに拘るのです。
だからラカンの鏡像現象を漱石自身は簡単な「拘泥」という言葉でそれを考えています。
そのほうが実態を正しくつたえているように思われのです。
漱石は「他者」の評価で自分は「乱暴な性格」だと24時間ひまがあればたえず自己に言い聞かせているのだと考えています。
そのへんのことを明治三十九年の断片で次のように書いています。
この年は奇しくも『坊っちゃん』が発表された年です。
「自分が拘泥スルト云フノハ他人ガ其注意ヲ集中スルト思フカラデ、ツマリハ他人ガ拘泥スルカラデアル。従ッテ之ヲ解脱スルニハ(中略)他人ガイクラ拘泥シテモ自分ハ拘泥セヌ」ことであると言っています。
このほうが解りやすいかもしれませんが、ラカンの鏡像現象とあわせて考えると理解がすすみます。
じかいは「正直な性格」がどにょうにして形成されたか明らかにしてゆきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。