『夢中問答』第六話:カルマの誤解を解く
問い
仏菩薩はすべての人類の願いを叶える誓を立てていると聞いています。
それならば何故人が祈り申さずとも、苦しんでいたら救済しないのですか。
これまでも衆民が心から祈っていても叶うことが無いのは何故でしょうか。
夢窓国師答えて曰く
確かにそのような疑問を抱くのは当然に違いない。
この頃の気候は雨の欲しい時には降らず干ばつになり、降りかけると洪水になり困っているのは良くわかっている。
それでは仏菩薩は嘘を言っていると思われるであろう。
薬師如来は病人をなくすことを願いながらも病院が無くてはならない。
また普賢菩薩は人類を助けると言っても貧困者は増えることは有っても減ることは無い。
しからば修行に励み霊験あらたかな高僧が新たに現れれば良いのだがそれも叶わないので一ヵ月あまり考えずにいたら、
霊験とは自ら感じ考えることこそ霊験と言えるというのが禅師の基本的立場であることが解った。
仏菩薩にどれほど先見の明があっても、それを納得する者は少ない。
地球の温暖化は人類の危機だと解っていても他人事のように真剣に考えないのである。
危機は仏菩薩からすれば止むに止まれぬ慈悲の警笛であると言える。
干ばつも洪水も全人類に危機を訴える慈悲であることを理解すれば霊験はすでに現れているのである。
仏菩薩の誓願は多方面に現れていると言っても、その基本は無始輪廻の迷宮から抜け出ることである。
本有清浄とは人間に始めからそなわっている悟りであり、そこに至れば無始輪廻の迷宮から抜け出ることが出来るのである。
ところが凡夫の願うことと言えば輪廻の基と成る悪業(カルマ)ばかりである。
そのような悪業(カルマ)を祈ることは聖賢の慈悲は報われないので有る。
ただ民衆の理解を得るために方便として誓願が叶うことあり。
それに気をよくして執着して益々放逸無慚愧な心に慢心する者に慈悲が叶うことありうべきことや。
世間の名利を求め災難から逃れようとする者に仏菩薩の誓願は及ばない。
仏菩薩は慈悲広大にして世間の有為転変、現象界の諸行無常、因縁の絡み合った祈りを嫌い、無上道をば勧める。
有為の善因ははかなき夢の如くすぐに消えてしまい、法華経に曰く三界は安き事なし、家宅のごとしと言う。
仏は自由無碍を得たりと言えども三不能と言って、
(1)仏教に無縁の人は助けられない。
(2)全人類に慈悲は及ばない。
(3)定業を転ずることはできない。
定業とは前世の業因により生じた善悪の業報であり仏菩薩と言えども善報に転ずること叶わずと言う。
お経の中には仏力法力を明らめし時定業もまた善報に転ずること有と言う文書有り。
また仏力法力も業力には勝てないとも言う説もある。
それでももし人凡情を考え直して正念を住持して修行を行い、利他を祈れば解放されるであろう。
ただし業力は簡単には善報に転ずること叶わずとお経の中に書かれており心を引き締めて修行せよ。
何と正直な夢窓国師であろうか、出来ることは出来ると言い、出来ないことは出来ないと誤魔化すことなく明言している。
参照
『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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