『心』論2:ラカンの鏡像と『心』の先生
はじめに
じつは『心』の「先生」は「私」のイメージであり空想上の人物ということなのです。
ところがそれを説明し納得してもらう根拠が必要になるのです。
今から書くことは難しいことではなく「空想」が市民権を得られたということです。
そして「先生」は空想上の人物であることの証拠を『心』の文から取り上げることです。
さらに驚いたのはこれまで何度か「主客未分」を取り上げたのですが『心』の先生は「主客未分」の解説にもなることです。
言語で説明できない「主客未分」を直覚的かつ単純明快に理解できるのです。
空想上の人物
それを説明する理論としてフロイドの理論で一応説明できるのですが。
フロイド理論はイメージを扱うので科学的では無いというラベルが貼られていることです。
だから「今更フロイド去れどフロイド」という気持ちがあったのです。
ところがnote会員の「mathematicsbuddhism」(2021/05/09 12:47)さんの
やさしい哲学のリアリティの解説を読んで
閃いたのがつぎの文です。
「複数のリアリティを構成要素として新たなリアリティを造れるわけです。
ここで関わるのはエス(イド、リビドー)と言われるものと無意識と想像力です。」
上の「やさしい哲学のリアリティの解説」を読んでラカンを知ったのが昨日なので一夜漬けのラカンになります。
ラカンはフランスの哲学者でフロイトの精神分析学の後継者として現代の哲学に大きな影響力もっているようです。
ここでわたし流の理解は「空想」を「物」と同じリアリティとしてあつかえるとかんがえたのです。
ということは「先生」は「空想上の人物」ですがリアリティを与えられたことになるのです。
「空想」であると同時に「現実の人物」の関係が成立するのです。
「現実の人物」即「空想」なのです。
あなたの前にいる人の何を知っていますか、知っているのはあなたの「想像」ですよね。
人の心を知りえない以上それは「想像」に違いないのです。
「現実の人物」即「想像の人物」
「想像の人物」即「現実の人物」
理論ではなく直感的にわかると思います。
「主客未分」が成立するのです。
ところでなぜ『心』に乃木大将が突然出てくるのでしょうか。
当時は崇拝の対象だったのです。
現代でいえばスティーブ・ジョブズやスポーツ選手やアイドル的存在だったのです。
多かれ少なかれ「空想上の人物」だったのです。
「理想の人物」と言い換えるとわかりよいかもしれません。
スティーブ・ジョブズの生き方は今も尚あがめられております。
自己同一視の対象で一体的な感覚でいるのです。
幼児が鏡に映った自分の容姿をみて自分を発見するというのがラカンの鏡像的段階といわれるのです。
「理想の人物」とはスティーブ・ジョブズが「ラカンの鏡像」の役割を果たすことなのです。
そして「私」以外の人と「理想の人物」との関係の特徴は会話が存在していないことです。
それでは何故「先生」が「空想上の人物」なのか。
「先生」は奥さんと「私」以外とは会話をしていないのです。
西洋人が海岸で登場しますが会話のことばは書かれていないのです。
西洋人が一言二言話しかけても「先生」の言葉はないのです。
友人がすこしはいるといいますが目撃した第三者が存在していないことです。
第三者は「空想上の人物」との会話はできないのです。
「先生」が「空想上の人物」であることを一応説明できたのではと考えています。
今回はこれまでにします。
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