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『無門関』第八則奚仲造車
無門禅師の本則口語訳
月庵和尚が僧に問うた。
「奚仲は百幅の車を作った。
その両両の頭部後部を取り去り、軸もとり除いた、
それはどういうことか。」
説明
この車は木製の手作りのもので熟練を要する奚仲職人が作ったものであった。
ところがその車を分解して車の形と機能を跡形も無くしてしまったのであろう。
その意味はどこにあるのかと言う問いでありその後どうなったのかと言うのである。
これは禅修行僧に対する問いである。
禅修行することを道元禅師は「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と言った。
車の形と機能を跡形も無くしてしまうことを「自己をわするるなり。」と言へます。
ところが、この公案の趣旨はこれだけでは終わらないのです。
車を作ったその人の熟練、技術、専門性にこそ問題があるのです。
主客同一にして「自己をわするる」ところまではそれぞれの職種に多くいるのです。
例えば芸術家、技術者の中には我を忘れて創造に集中できる人は沢山いるのですが仏性を得たとは言いません。
スポーツの選手の中にはゾーンといって極度の集中力を一生に一度有るかないかという経験をする人がいます。
それではその主客一如を日常生活に活用出来るかと言うとそうでもないことが多い。
ただ本人はその経験を悟りと誤解することもあります。
その名誉を持ち歩くことは過去に拘って現在に集中できないのである。
例えばゲームに大賞したとしてその手法に拘れば決してその後の勝敗は良いものとは思われない。
其の勝敗を忘れることを「自己をわするる」と言うのである。
誤解しては成らないのはその勝負の記憶を忘れることではない。
将棋の熟練者を見ればわかるように、その過程を記憶していて忘れることはない。
彼らは過去の膨大な実践記録を記憶していることは明らかである。
同様に悩みや苦しみを忘れることでは無く、拘らないことである。
禅においては悩みや苦しみの経験こそ宝であり煩悩即菩提と言います。
禅においてはその場その時の経験を大切にしていて、それに拘らないのである。
言葉に拘らないと言っても禅宗ほど言葉を大切にしている宗教はほかには見当たらないでしょう。
この矛盾の中に生きるのが人間である。
禅的生活を送ろうとすれば人間の心身についての知識が必要になります。
心理学はもちろん脳科学、哲学、文学、人工知能、数学など幅広く学ぶことは無駄にはならない。
多次元の世界を理解しょうとすれば数学、深層学習に通じる必要があり、またその理論を忘れることである。
話を元に戻して、車には車輪が両側についていて安定した働きをするように、人間には事理の両輪が必用になります。
言い換えれば技術と理論が相まって働くことを意味するのです。
ただ理論は仮想の世界であることを充分に理解しておくことが重要であります。
また現実の世界は決して仮想の世界では無いことを理解しなければなりません。
そこに禅師の数だけの特色があり流儀、指導方法の違いがうまれるのだと考えられます。
理論は一度分解され人間の内において統一されることを道元禅師は「自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と言うのでしょう。
無門禅師の頌の口語訳
機敏に車輪の回転するところ、達人も手のつけようもない。四方上下、南北東西。
説明
車造りの達人に例えたところに目を付ければ、
人間の両輪である理事が相まって働くところに自由無碍を知ることができます。
一般的には東西南北という所を南北東西と言いているところに自由無碍の世界を知ることができます。
この様な些細な表現にも常識が一度分解され再統一ていることがわかります。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。