西田幾多郎の純粋経験の考察
主客未分から言葉の生まれる過程をシニフイアンとシニフイエから構造化する。
西田幾多郎の『善の研究』で純粋経験とは次のように述べられている。
「たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。」
このように言われても意味は解らないとおもいます。
たとえばリンゴを見た時の純粋経験とは如何なるものであるかとシニフイアンとシニフイエに分けます。
シニフイアンとはリンゴという声、または記号であるとする。
シニフイエとは目の前にあるリンゴのイメージ、または意味である。
この様に規定したうえ純粋経験とはどちらに当たるのかと言えばシニフイエに相当する。
乳幼児が言葉を学ぶ前リンゴを見てもほとんど輪郭すら判別すら出来ない状態である。
言い方を変えれば色の塊がゴロゴロと置かれているだけである。
周囲に散らばっているおもちゃとの境界すら定かではなかろう。
同様のことを西田幾多郎は『善の研究』で次のようにいう。
「初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。」
リンゴを見てリンゴと認識するには赤いという言葉や丸いと言う概念が先になければならない。
純粋経験とは西田幾多郎によれば物体では無く感情であると次のようにいう。
「幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである」
このような純粋経験から如何にしてrリンゴという言葉を覚えるのか。
言葉を覚えると何故主客未分から主観と客観にわかれるのか構造的に解明したい。
学習するとは乳幼児と母と対象の三項関係が成立して初めて成り立つこととする。
共同注視という言葉をご存知でしょうか最近乳幼児の言語学習で注目されている用語です。
母と乳幼児が注意を共有する対象や出来事からなる三項関係がコミュニケーション、言語発達に大きな影響を与えることが知られています。
例えばお母さんが乳幼児の前でリンゴと言っても目の前にはおもちゃが沢山ありその中のどれがリンゴか乳幼児には分かりません。
その時お母さんの視線の先にあるリンゴと言葉が同じであると学習するのである。
それはシニフイアンとシニフイエが結び付くことです。
それでは「美味しい」という言葉の意味はどのようにして学習するのでしょうか。
これは難しいですね、「美味しい」とは目の前に物がなく感覚である。
やはり乳幼児とお母さんの視線が一致した三項関係で「美味しい」を学習します。
乳幼児がリンゴを食べて感じたその時直ぐに美味しいという言葉を聞く必要があります。
その乳幼児が「美味しい」と感じた直後でないと関連はうしなわれてしまいます。
乳幼児が「美味しい」と感じた乳幼児の表情に視線を向けて言葉をかけると甘酸っぱい感覚が「美味しい」ことだと学習するわけです。
うれしい、悲しい、淋しい、不満、怒りなどの感情も乳幼児が感じている直接経験と連結しないと意味は成立しません。
うれしい、悲しい、淋しい、不満、怒りなどの言葉をシニフイアンといい。
直接経験はシニフイエで、直接経験のことを西田幾多郎は純粋経験と名付けたとします。
乳幼児が笑えばお母さんも笑います泣けば母さんが駆け付けてあやします。
母の行動や表情を見ることは母と乳幼児が共同注意をしたことになります。
母の視点を取り入れることは主客未分が壊れて二項対立の状態になるのである。
ただ悲しい、淋しい、不満などは三項関係に成りがたくシニフイアンとシニフイエの関係が不完全であるため客観化されずその内容が解りにくいものとなっている。
学習に混乱が生じる原因に三項関係の時間的な遅れが生ずることが考えられます。
たとえばいたずらをして翌日叱られたとすると何が悪かったのか理解できず全人格が否定されたと思ってしまう危険性がある。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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