『三四郎』論1:何故恋は罪悪なのかその意味
矛盾が矛盾でなくなるとき。
『こころ』で先生は「しかし君、恋は罪悪ですよ。」といいます。
これは理解に苦しむ言葉に違いありません。
常識では意味に矛盾があるからです。
この矛盾を解説したのが『三四郎』なのです。
『三四郎』では美禰子の善意が罪だったのです。
美禰子の好意が意思に反して三四郎を惑わせ苦しめたのです。
美禰子は最後の最後に三四郎に懺悔をしてお別れをしています。
溜息まじりに「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」と微かに声を漏らして別れてたのです。
三四郎が懺悔を迫ったのではありません。
美禰子自身が自ら罪を認めているのです。
『三四郎』は予想を許さない展開に発展してゆきます。
これが人間の真実の愛だとわかるでしょう。
いっぽう三四郎は、
「ただ口の中で迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返した。」だけだったのです。
三四郎が美禰子との恋愛はイリュージョンだったと覚った瞬間でした。
これは即非の理論を小説で表現したものなのです。
否定の否定は肯定になります。
美禰子の善意を否定すると罪悪になります。
その罪悪を否定すると再び善意なります。
そこで三四郎はイリュージョンの打破に成功するのです。
即非の理論は『それから』論6で解説しました。
漱石の思考は、恋愛=罪悪 という公式が成立するのです。
理解に苦しむ理論ですが漱石に一貫する思想なのです。
ただ漱石はもう一度その罪悪を否定するのです。
愛の否定の否定は愛なのです。
否定の否定はイリュージョンの打破なのです。
暗示
『それから』の代助の好意そのものが罪悪だったのに対して美禰子の思いやりそのものが三四郎のイリュージョンを育んだのでした。
幻想、幻影、錯視錯覚、思い込みもイリュージョンです。
イリュージョンは何故おこりますか。
催眠暗示はイリュージョンに強力な力をもっています。
美禰子は暗示から自由な知性の持ち主として描写されています。
それに対して三四郎は暗示に惑わされてゆくのです。
その暗示にかかった三四郎の無意識の心理過程が書かれているのです。
知る人ぞ知る夏目漱石は催眠誘導の専門家なのです。
今なお人の心を魅了してやまない誘導技術がその証明です。
『三四郎』の中でもその誘導原理を解説している場面があります。
催眠誘導者は技術そのものは知っていても被験者の無意識の領域までは解らないのです。
ところが夏目漱石は被験者の心の変化を見通しているのです。
『三四郎』にはその心理が余すところなくかかれています。
反語
さらに夏目漱石の表現の特徴をしることです。
『三四郎』の予告で「尋常である。摩訶不思議は書けない」と言いますが。
それは反語だと気付くことです。
反語とは白といって黒を意味することです。
善と言って罪悪を表現することです。
「摩訶不思議は書けない」ということは「摩訶不思議」な小説だと予告しているのです。
『三四郎』はたしかに何処にでもある平凡な大学学園生活です。
しかし内容は「摩訶不思議」に違いないのです。
砂糖に塩を混ぜるのは何故ですか。
甘さを引き立たせるためなのです。
それは隠し味といわれています。
黒といって白を表現することは即非の理論の応用なのです。
芸術は黒は白だという理論が通用するのです。
自然を描写するのに人によって使う色はそれぞれ違います。
微妙な真実の表現にはいろんな表現が必用なのです。
なお反語は逆説とかパラドックスとは意味が違います。
『三四郎』は漱石の初期の三部作ですが『それから』の前に書かれています。
『三四郎』がイリュージョンで迷うのですが。
『それからの』の代助はイリュージョンの打破に成功したのでした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
参照は青空文庫です。